I S I Z E  への 43

やちまた(上・下巻)
足立巻一

発行:朝日文芸文庫


 呉智英氏は言った。
「この本に感動する者はカタギの人間ではない」
と。そして、多くの作家が
「こういう本を著すことができた足立巻一氏に対して、嫉妬に狂った」
とも。

 そんなこと言われちゃ、読まずにはおれん。題材は退屈なもんだ。日本語の文法。これが学校の授業であれば、きっと寝てしまう。だが、言葉の世界に魅せられ、それに人生をかけた人々がいる。そこに人間ドラマありだ。

 本居宣長と言えば『古事記伝』、『玉勝間』などを著した江戸末期の有名な学者である。そして、その息子(長男)で、盲目の語学者、本居春庭という男がいた。春庭は、30才頃より失明したが、父・宣長の遺志を受け継ぎ、『詞の八衢(ことばのやちまた)』『詞の通路(ことばのかよいじ)』などを著した。

 著者の足立巻一は学生時代よりこの本居春庭に興味をおぼえ、以後40年の長きに渡って、春庭を追い続け、そしてついに、本書『やちまた』を著した。何故、足立巻一は本居春庭をしつように追ったのか。

 それは著者の学生時代に教えをうけた白江教授によるところが多い。
その白江教授は言う、
<ふしぎですねえ…語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわ れる人が多いようですねえ…>
そして、著者は
<そのつぶやきのような声が、突然、わたしを射た。盲管銃創の痛さがあった> と言う。

 孤独で、偏屈ではあるが、一芸に秀でている者に対して興味がわくというのはよくわかる。孤独で、偏屈で、一筋であるからこそ成し遂げられるものかもしれない。本書で出てくる、あの平田篤胤(夢の中で本居宣長に弟子入りしたという)なども相当な変わり者だ。逆に本居宣長自身は、そんな変わり者のイメージはない。医者という本業を行いつつ、学者としても大成した。性格も穏やかで、大人って感じで人間的には面白みはない。まあ、どれだけ本業に時間を割いていたのかは、少々疑問ではあるが。

 本居一族をあげての学問への傾倒も凄い。父、宣長は言うに及ばず、妹の美農、妻の壱岐らが失明した春庭の学問を完成させる為、助力をおしまない。こりゃもう、一家総動員でカタギではない。まるで、あのグレイシー一族(グレイシー柔術を確立した、父エリオ。そしてそれをホイス、ヒクソンという息子たちが受け継ぐ)のようだ。その中で学問に専念できた春庭は、失明したとはいえ幸せな人生だったと思う。

 また当時は当然コピーなんてものはなく、勉強をすることは、書物を書き写すことから始まる(NHKの大河ドラマ『勝海舟』で海舟がズーフ・ハルマを書き写していたシーンが目に焼き付いている)。また和歌をつくることも当時の教養人にとってのたしなみのようで、宣長や春庭、そして美農、壱岐らの自筆が今も残されている。どういう字を書くのかということでも、その人となりがわかる。パソコン、ワープロで文書を作る現代であるが、やはり、美しい字を書く人は魅力的である。

 一般に学者、作家というものはカタギの人間ではない、と思う。本書を著した足立巻一も、そしてまた本書を読んでうらやましいと思うものはカタギの人間ではない、かもしれない。だいたいが、本を読むこと自体が、カタギの人間には必要でないものだ。でも何故読むのか。呉智英氏は「それが人間の業だ」と言った。

 言葉の探究者としての、本居春庭。そして、その春庭を40年、徹底的に追求した、足立巻一。彼等のように何事かを追求しつつ人生を了えたい、と思う。周りの人間のバックアップがあればなおのこと良いのであるが。

おすすめ度:★★★★

(2000.8.13)



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