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哲学が真理を追求するものであるのなら(そうあってほしいが)、単なる意見や主張、道徳、人生いかに生きるべきかではない。誰がいつ、どこで考えても同じ結論になることが必要だ。そして、時代を超え、言語を超えたものでなければならないであろう。 ヴィトゲンシュタインが論理学、記号論理学を通して、ものごとを明確にしようとした気持ちはよくわかる。論理学ともなれば、かなり客観性があるような感じがする。著者は序文で、 <…およそ言いうるものは明瞭に言いえ、語りえざるものについては沈黙せねばならぬ。かくして、本書は思考にある限界を定めようとする。というより、思考にではなく、思考の表現に限界を定めようとする。なぜなら、思考に限界を定めるためには、われわれはこの両側を(したがって思考されえぬものを)思考できねばならぬからだ> と言う。そして哲学の本質の項では、 <哲学の目的は、思想の論理的な浄化である。(4.112)> と述べる。論理哲学的な空間では、価値とか倫理とかは問題とされない。世界に価値を与えるのではなく、正しく見ること。 <世界の意味は世界を超えたところに求められるにちがいない。世界の中のすべてはあるがままに生起する。世界のうちにはいかなる価値も存在せず、またたとえ存在したところで、その価値にはいかなる価値もないであろう。(6.41)> <それゆえまた、倫理的の命題は存在しない。(6.42)> では、思想の表現の限界とはどこにあるのか。 <いい表わせぬものが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。それは神秘である。(6.522)> <世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。(6.44)> 思考されえぬものを神秘と言っているようである。そして、世界が有るという事実については、語ることができない。存在するということ。私がいて、世界があって。。この不思議については論理学では語ることができないのである。というか、やはり思考の表現の限界なのであろうか。哲学的(もちろん客観的であること)には、永遠に表現できないものなのであろうか。ヴィトゲンシュタインも語れるものなら語りたかったに違いない。最後の言葉はそのくやしさから出てきているものかもしれない。 <…読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(6.54)> そして、何よりも心うたれるのは、ヴィトゲンシュタインの生涯である。変人ではない。大真面目で、非常に求道的であり、巻頭の訳者による『ヴィトゲンシュタイン小伝』は感動的だ。そういう著者には著者自身の言葉を捧げたい。 <死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。永遠が時間の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。(6.4321)> おすすめ度:★★★★★ |
(2000.2.9)