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哲学は単なる個人的な考え方や意見ではない。とヘーゲルは言う。そうでしょう。それでこそ哲学というもんだ。主観的なものではなく、客観的でなければならない。では、ヘーゲルの言うところの哲学自体が客観的なものであるという根拠はどこにあるのか? ■哲学的思惟は体系を持つことである。また、その体系は今までの哲学体系・あらゆる特殊な諸原理を自分のうちに含む。 と言う。確かに体系を持たなければ、その時の気分や体調によっても考えなんてコロコロ変わる。そして以前の哲学を否定するのではなく超える、ということらしい。まあ、それでこそ哲学の発展がある。 ■哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる。その変え方の順序は 1、あることを知覚する 2、それらを分類したりして、普遍的なものにする 3、さらに考えを進めていくと、それを否定するような考えに至る 4、その否定された自己喪失状態から、自己のうちへ返る であり、これがいわゆる(正・反・合の)【弁証法】である。 <したがって哲学はそこで再びその端緒に到達し、自己のうちに返るのである。かく哲学は自己へ返る円であり、他の諸科学のように端緒を持たない。…哲学が自己の概念の概念に到達し、かくして自己へ帰り満足を見出すということ、これこそ哲学の唯一の目的であり、行為であり、目標である> 上の段階の3番目。ヘーゲルに言わせれば、ある考えを押し進めていくと、必ずそれを否定する様な考えに至るらしい。そういう自己否定を含み、そしてそれが体系としてあるのであればかなり客観的なものになっているような気はする。しかし、最後のそこから自己に返るという辺りはちょっとわかりづらいのではあるが。 そんなに苦労して理解しえても抽象的なことではなあ、という考えになるかもしれないが、ヘーゲルはそれが現実であり、具体的なことであると言う。 ■理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。 逆に言うと、単なる知覚や普遍的な分類(悟性的考え)だけでは現実の全てとは言えない。(もちろん現実の1部であるとは言っている)。自己否定を通過したのちに自己に返る思想・概念(理性的考え)こそが現実的なことであると言っている。 ヘーゲルの哲学体系の概要を述べたものとして『エンチクロペディー』があり、 第1部:『論理学』 第2部:『自然哲学』 第3部:『精神哲学』 となっており、本書『小論理学』は第1部のこと。 『小論理学』の上巻のほとんどが上述のヘーゲル哲学の予備概念になっている。 おすすめ度:★★★★ |
(2000.1.24)