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第1回目は池田晶子の『考える人』を取り上げたが、2回目は埴谷雄高だ。何故、池田晶子の次に埴谷雄高がくるのかと言えば、私がこの『死霊』を読むきっかけになったのが、池田晶子の2作目の著書『メタフィジカ!』の中の「最後の埴谷雄高論」を読んだからだ。
『死霊』を読む前に、埴谷雄高の対話集で池田晶子が登場する『重力と真空』、『超時と没我』などを読んでみた。埴谷雄高と池田晶子といえば、祖父と孫のような年齢の差(埴谷1910年、池田1960年生まれ)、そして文学者と哲学者の違いがあるものの、お互いが理解しあい、認めあうという対話であった。そしてそこには確実に<精神のリレー>があった。 埴谷雄高は言う。「文学は哲学を超える」と。何故なら、「語りえないものを語ることができるのが文学である」と。 で、『死霊』である。テーマは、存在とは何か?宇宙の始まりとは?そしてこれからの人類の行き先は?という非常に哲学的(形而上学的)なものである。そしてその文体は、とても日本人が書いたとは思えないようなしつこさである。日本人でこんなストレートな豪速球を投げる人がいたとは。。。てな感じである。獄中○○年、壁に向かって考え続けたという著者は、空手家で言えば(?)まるで山ごもりから帰ってきた大山倍達だ。 残念ながらこの大作も『死霊V』で未完のまま終わっている。人類の進むべき方向(小説の中では男性)に恋人?(小説の中では女性)がどうからんでいくかというところをもう少し読みたかった(この辺りが世の女性陣からはこの小説に対して反感を買いそうであるが)。しかし、こういうものは結末を読まないほうがいいような気もする。続きは自分で考えよう。 埴谷雄高と言えばこの『死霊』。もうこれしかないって感じである。著者がその全存在を賭けて書いた小説であり、文学の究極の姿がそこにある。最後に対話集『重力と真空』の中での、埴谷雄高の語る小説論を以下にのせる。 <地球が死滅した後、太陽系が死滅した後、宇宙人が来たときに、かつて人間というものがいて、何かやっていたということを知る。ビルディングがあった。人間は何か書いていた。哲学もやっていた。哲学は宇宙とか人間についてもよく論じていて、それを見たら人間も大体わかった。けれども小説を見たら、わからなくなった。こんなものが宇宙にあるのかしらと驚く。そういうものが書かれていないとだめでしょう。宇宙人が初めて会ったというようなもの。それが僕の小説論。> おすすめ度:★★★★★ 当分お薦め度:★★★★★のものが続く予定です。 |
(1999.9.7)