〓 | 問題を抱えているのは子供ばかりではない。トリイ・ヘイデンのクラス(実話かどうかさだかでないが、主人公の名もトリイ・ヘイデンである)に重度の障害を持つ子(レスリー)が両親に連れてこられた。母親は美人で博士号を持つ科学者のラドブルック。しかし彼女も精神的に問題を抱えていた。その彼女が子供との接し方を学ぶ為、トリイ・ヘイデンの助手となり、自分自身との戦いに挑む。ここには家族の問題がある。いったん家族としてスタートした以上、何が何でもその関係を(ともに暮らすということ)を続けていかなければならないことはない。精神のバランスを無理に保とうとしてもどこかで破綻をきたす。これはもう起こるべくして起こる。たとえ血のつながりがあっても、別れるほうが良い場合がある。本当に心が通じるのは赤の他人なのかもしれない。あるいは血のつながりがあっても、他人(別の個体)であることを忘れてはいけないのではないだろうか。 |
〓 | ようやく読み了えた。と言うか、字面を追った感じである。やはり、上巻でのヘーゲルの説明する予備概念が頭に入っていないせいか、弟子たちの書いた補足説明でさえも理解できていない。まあ、一旦読んだことにしておいて、振り返ってみようと思う。下巻は第二部『本質論』から始まる。ここでは、A現存在の根拠としての本質{a純粋な反省規定(イ同一性、ロ区別、ハ根拠)、b現存在、c物}、B現象(a現象の世界、b内容と形式、c相関)、C現実性(a実体性の相関、b因果性の相関、c交互作用)に分かれる。つづいての第三部『概念論』では、A主観的概念{a概念そのもの、b判断(イ質的判断、ロ反省の判断、ハ必然性の判断、ニ概念の判断)、c推理(イ質的推理、ロ反省の推理、ハ必然性の推理)}、B客観(a機械的関係、b化学的関係、c目的的関係)、C理念{a生命、b認識(イ認識、ロ意志)、c絶対的理念}に分かれている。で、予備概念に戻ると。。ヘーゲルの哲学体系は『論理学』(本書の『小論理学』のこと)、『自然哲学』、『精神哲学』の3部からなる。本書の序論でヘーゲルは体系についてこのように言う。<非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、主観的な考えにすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。…多くの哲学的著作は、このようにただ著者の個人的な考え方や意見を語っているにすぎない>。言い替えてよければ、ヘーゲルの哲学は考え方や意見ではないということだ。確かにそれでこそ哲学の醍醐味だ。そういう意味で哲学は思想ではない?しかし、ヘーゲルはこういう言い方をしている。<思想が単に主観的でなく、客観であることを要求してはじめて本当に実践的なものである>。理論と実践を分けている訳ではない。またカントの実践(道徳)哲学は幸福を目標としており、幸福とは、人間の特殊な傾向、願望、欲求、等々の満足と解されていたから、なんら拠り所のないものである。と、なかなか厳しい。まあじっくり読み直しかな。 |
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まずは、ヘーゲルの挨拶から<哲学をさまたげるものは、一方では日常のさしせまった関心への没頭であり、他方では軽薄な意見である。…宇宙のとざされた本質は、認識の勇気の前に自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにさせざるをえないのである>。う〜ん、力強い。これこそ思惟の力か。そして『論理学』に入るまえに、91ページまでが序論。『論理学』に入っても、258ページまでが予備概念である。この予備概念で、今までの哲学を超えていることを述べる。とくにカント多く引き合いに出し、彼の考えの間違えを指摘し、自身の哲学の正しさを述べる。そして、第一部『有論』へと続く。『有論』では、A 質(a 有、b 定有、c 向自有)B 量(a 純量、b 定量、c 度)、C 限度に別れる。有と無の統一が成である。「概念できない」ということについて、ヘーゲルはこう言う。<哲学の認識方法は、日常生活で人々が慣れている認識方法とも、また他の学問に用いられているそれとも違っているのだ、と言うよりほかない>。しかし、その概念の例はいくつもあり、「成」については「はじめ」ということを考えればよいと言う。<はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄の無にすぎないものではなく、そのうちには有もまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただはじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている>。おもろいのは、哲学についてヘーゲルが<事実哲学とは、人間を無数の有限な目的や意図から開放して、人間をそれらについて無関心にし、そうした物があってもなくても同じことだと思わせるようにする教えではある>などとポロっと言うところ。この辺ヘーゲルの姿勢がうかがえる。日常のくだらんことにぎゃあぎゃあ言うな、ということか。 再読。ヘーゲルの弁証法的統一、概念に至る認識の方法とやらが概ねわかった。ヘーゲルもこの上巻で、繰り返し繰り返し、同じことを言っているのがわかる。哲学には哲学の認識の方法があるということ。理性的な考えというものが現実であるということ。そしてヘーゲルの言う認識の方法でもって「有論」が始まる。(この「有論」から下巻の「本質論」、そして「概念論」へと続く)。有と無は最初の段階、どちらもなんの規定もされていない段階では、有と無の区別はない。有は無であり、無は有である。これでは有も無もわからない。それは有と無の統一によってわかる。<有と無の真理は両者の統一であり、この統一が成である>。これが最初の概念である。有の概念が成であるということ。有とは何か?ではなくて、無との統一である成をもって有を知ると言うことになる。有をつきつめて、無がでてきて、成という概念を得て、有を知る。またこの成というのは、固定した統一でなく、区別も含んでいる。ヘーゲルは<有および無の単なる統一ではなく、自己のうちにおける動揺である>という言い方をしている。これがヘーゲル流、弁証法的統一である。そして成も<自己のうちへ深まり自己を充実させなければならない>。それが例えば生命である、と言う。この調子でどんどん展開されていき、絶対的理念へと至る。それがヘーゲルのいう体系ということなのか。(2000.1.25再読) |
〓 | 第2巻はピオンビの牢獄からの脱出から始まる。国事犯審問官の命令によって投獄されたということであるが理由ははっきりしない。<自分にはまるで察しのつかない理由によって、一生ここに監禁されることになったのかもしれないと考えた>カサノヴァは<生命を賭けて脱獄する>ことを決意する。<ところが、実際にはわたしには確信などまるでなかったのだ。しかし、(脱獄仲間に対して)確信ありげに振る舞わなければならなかった。そうでないなら、すべてを放棄するほかなかった>カサノヴァはあらゆる知恵を絞り、ついに脱獄に成功する。そして彼は振り返り、こう言う。<わたしが経験という偉大な書物を読んで学んだのは、大きな企てを行うにはそれを検討したりすることなく、ひたすらそれを実行すべきであり、人間の企てすべてに対して運命がもつ支配力に逆らってはならないということだった>。その後カサノヴァは、42時間ノンストップのトランプ勝負をし、侮辱されたと思う相手と決闘し、すべてにおいて勝利を収めてきた。女性に対しても<女の心をつかもうとする男の熱心な心遣いや思いやりに抵抗しとおせる女などいないことをわたしは知っていたからである。その男があえて大きな犠牲を払おうとしているときはなおさらである>と豪語していたカサノヴァであったが、性悪娼婦ニーナとの出会いから投獄のはめになり、凋落の一途をたどる。最後にはドゥクスの居城の図書係になり、道徳、言語学、政治学、数学、文学、神学などあらゆる分野の問題に論及するも成功しない。そして、未来に死しかないと感じたカサノヴァは、もう一度過去を生きることを考える。<自分が手にいれた快楽を思い起こしながら、それを胸の中でくり返し、もう一度味あうのだ>と決意し、『カサノヴァ回想録』を書くことになる。全十二巻、読んでみたい。 |
〓 | <容姿に恵まれ、博識で、弁舌さわやか、筆が立ち、大胆で、精力的で抜け目なく、人に好かれる頑張り屋。カサノヴァに呈された十指に余る肩書きのなかで【色事師】ほど彼の面目躍如たるものはない。>まさにスーパーマン。「こういう男になりたい」と誰しも思うであろう。本書はジル・ペローによって編集された『カサノヴァ回想録』のダイジェスト版(文庫本で2冊にまとめられている)のその1。時は18世紀、場所はヴェネティア。第1巻でのクライマックスはムラーノでの遊興。そこでの登場人物は、カサノヴァと修道院に入れられた15才のC・C、修道女M・MとM・Mの愛人。この4人の関係が凄い。お互いの相手を抱きたいが為に、自分の相手が抱かれるのを容認する。修道女同士のC・CとM・Mも互いに愛し合い、表面上4人がそれぞれ好感を持つ関係をくずさない。しかし、覗き有り、3P有りの世界。そこでの【自尊心を満たす為に、嫉妬心を抑え込む】手紙のやりとりは凄まじい。まさに、知力、体力、精神力のパワーに溢れる。 第2巻では、どんな凄いところを見せてくれるのだろうか。 |
〓 | ビーフジャーキーみたいな細い腕が残飯を食らい、フィリピンの先住民アエタ族の長老が「ネスカフェ」飲み、チェルノブイリでは放射能に汚染されたキノコを食う。そしてミンダナオ島では、やはりあった人肉の思い出。生きる為だけに食うのではない。腹が減るから食うのだ。死を賭けて食う。そして嗜好品として食う。またロシアの兵士は除隊になろうとして、病気になる為にせっけんを食う。いや、やっぱり「せっけん」は食うな、とは言えない。いろんな「食う」があるからだ。もちろんうまそうな物もたくさん出てくる。ベトナムのうどん「フォー」、トルコ料理の「ドナー・ケバプ」、アフリカのコーヒー「ブンナ」等。一読の価値有り。 |