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■ 福井康雄  自然がいいんだ  ぶんか社

再読。ゴルフの技術解説書であるが、単なるハウツウ書ではない。理論書である。写真、図は一切ない。文字のみでゴルフのスウィング理論を語る。いわく、構えたら打とうとするだけでよい。多くのゴルファーがいかに間違ったことをやっているか。肩を回せ、腰をまわせ、ヘッドアップするな。この本によれば、そういうことをしようとするのが間違いである。肩は回すものではなく、回るもの。クラブも上げようとしてはいけない。スウィングは足から始まる。足よりも一瞬でも早く手が動くとミスをする。力は抜くのではなく、いれないのである。まさに普通に歩くようにするのである。この理論はすべての運動に共通のものだ。しかし、もちろんただ打つことだけを思って打てるようになる為のトレーニングは必要である。たった1ヵ月半やれば後は覚えているという。本書は昔、『週間ゴルフダイジェスト』に連載されていたもの。残念ながら著者の福井さんは他界されている。身長158cm、体重40kgと小柄であったため、トーナメントはあきらめ、15歳の頃からレッスンプロの道を歩んだ。教え子に、倉本昌弘がいる。父親は日本のプロゴルファーの第1号だそうだが、手ほどきは一切受けていないという。ゴルフの理論書もいろいろ読んだが、これが一番である。<体の芯から上手になる“自然流ゴルフ”の指南書>とは帯の言葉。


■ 福井康雄  誰でもシングルになれますよ  ぶんか社

■ 福田和也  『作家の値うち』の使い方  飛鳥新社

以前に出した『作家の値うち』に対しての質問、またやその書についての対談などが載せられている。何故『作家の値うち』を著したか、また、点数をつけたことは邪道であるとは思っているが、何故そうしたか、などが語られる。特に純文学系にはきびしい。エンタメであれば、それが商品として成り立つかという競争があり、切磋琢磨しているが、純文学にはそれがなく、つまらんものでも大作家の名前だけで大きな宣伝して売られものがある、と言う。村上春樹がいいという理由の1つに、<外国語とちゃんとわたりあっている。…文学の中でアメリカにちゃんと対峙した>ことをあげている。『作家の値うち』は、彼なりの価値基準があり、ブックガイドとして得難く、読者としてはありがたい。しかし、彼のようなある基準を持った書評を読むと、まあこうやって、web上に感想のようなものを書く時には、ちんたらと、ええかげんなことは書けんなあ、という思いが(少〜し)するやおまへんか。


■ 福田和也  なぜ日本人はかくも幼稚になったのか  ハルキ文庫

先に『続・なぜ日本人…』を読んでしまった。まあ、ええか。しかしまあ、小気味のいい本だ。全体的になんとなくたるんでいるような現在(オレだけか?)にカツを入れてくれる。やはり、命がけで何事かをなしとげたい、という気持ちはあるんだが、周りのいい人たちに囲まれるとなんだかねえ(←他人のせいにするな)。福田流に言えば、<「親切」や「善意」はあふれているかもしれないが、命がけで守る「誇り」はなくしてしまった>、ということになる。命がけで守るものを福田氏は国家と言ったが、オレにとっての「国家」とは何かが問題だ。


■ 福田和也  続・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか  ハルキ文庫

<敗戦により、伝統的な「武士としての道徳」を失ってしまった日本人は、「人の和」を最優先する「コメ共同体的な性格」にすっぽり浸ってしまった>。<日本人の生命尊重というのは、「責任逃れのためのアリバイ」にすぎない>。名誉と誇りを大事とせよ、と言う。民主主義とばかりに、常にみんなの意見を聞いてからなんていうのも、責任のがれのなにものでもない、と私も思う。今の社会のシステム自体が責任を明確にさせないものになっているのも事実。実はみんなもっと責任を取りたいと思っているのではないか。


■ 福田和也  喧嘩の火だね  新潮社

先日読んだ『ニッポンの知識人』の中に登場し、けっこう評価が高く、ちょっと気になる人物であった福田和也の本を見かけたので買ってみた。本書は、辻仁成、島田雅彦、町田康、田中康夫、車谷長吉、柳美里、そして同じ評論家仲間のすが(漢字が出ん)秀実、浅田彰、東浩紀についての評論。辻仁成はあまりに文学的すぎて反発を買っており、島田雅彦は遊び人で誠実。町田康は物腰がやわらかく、田中康夫は公明正大で、滑稽で、哀しく、車谷長吉は紋きり型の人間像を、文章のサービスで読ませ、柳美里は純文学領域で無敵の無頼派であるらしい。浅田彰は洗練された趣味人で、すが(漢字が出ん)秀実はもっとも文芸評論家らしい批評家で、東浩紀は論理的であるがその行方は?って感じであるらしい。著者の独特の文体(「、」読点でつないでいき、「。」句点がなかなかでてこない)はけっこうねちっこく、話がおもしろい時はいいが、つまらない時は妙にわずらわしい。最後の冥界座談会では、今東光、柴田錬三郎などが出てくるし、最初にも今東光が登場する。きっと今東光が好きなんでしょう。その辺りは親しみがわく。1960年、東京生まれ。


■ ブコウスキー・チャールズ  パルプ  新潮文庫

自称スーパー探偵、ニック・ビレーンは相当なイカレ・パンク野郎だ。酒好き、競馬好きで何ひとつ事件を解決できない。しかし、このLA一のスーパー探偵、ニック・ビレーン、デブのわりに動きが速く、イカレた奴らの扱いはうまい。というのもイカレた奴ら以上にイカレてるから、相手はそれにビビるんである。この探偵だけではない。依頼人だってイカレた奴らばかりだ。赤い雀を探せというわけのわからんヤツ。死の貴婦人と名乗るケバイ美人。宇宙人につけ狙われているという身長140cmの貧相な男。そして、実は、本当にイカレているのは作者だ。宇宙人に狙われていた男が見たのは幻ではなく、本当の宇宙人だった。。。


■ 藤沢周平  神隠し  新潮文庫

短編集。これはやっぱり大人が読む本ですな。何故なら、登場人物はひとくせもふたくせもある嫌なヤツが多い。主人公でさせとんでもないヤツやったりする。こんな大人になってはいけません、てな感じである。しかし、人間、さもありなんと思わせる小説である。中には、表題作の『神隠し』の巳之助のように普段は無頼の遊び人でも、ここぞと言うときには一歩もひかん岡っぴきとなる(普段から働けよ)ようなイカスヤツ?もいる。道徳観はないが、倫理観は旺盛と言ったところか。また、最初の『拐し』なんてのは実にシャレている。誘拐された娘が実は。。。まさに、さもありなん。というか人間、たくましいって感じである。理想的な人物はほとんど出てこないところが共感を呼ぶ。時代物なのが救える。設定が現代やとちと生々しい。


■ 藤田紘一郎  恋する寄生虫  講談社

現代日本は、ストレス、環境ホルモン、極端な清潔志向などによって、「生物としての性」が危ないという。また、「イメージとしての性商品」多さや、個を尊重するあまり、共存することを拒否する傾向が強くなってきたことにより、生物としてのSEXが減少してきているという。さあ、寄生虫を見習って、自我の崩壊の喜びを知り、相手と共存する道を選びましょうと言いたげである。著者の1つの解答は「原始人に戻す」ことだそうだ。う〜ん、それもいやだ。人口ももうちょっと減ってもいいんではなかろうかと思うのは私だけ?面白かったのは、性的接触によって感染したと思われる患者に対して、医者は必ず「お友達を呼んできなさい」と言うみたいである。


■ 藤田紘一郎  笑うカイチュウ  講談社

<寄生虫学は癌のヒト体内での増殖の機構を説き明かし、アレルギー病の治療につながる重要なテーマである>と寄生虫学一筋の著者は言う。エピソードがすごい。驚愕、破廉恥、グロテスクの連続……駆虫剤を投与された海外駐在員の美人の奥さんが、自らカイチュウをひっぱりだし、お尻丸だしでトイレで失神していた話とか、クマのふんどしの話とか、動くこぶの話とか研究者特有の無邪気さで語られる。東京・目黒に「目黒寄生虫館」があるそうであるが、土曜日曜は若いアベックや女学生でいっぱいであるとは本当か?


■ 藤本憲幸  超人になる!  ムー・ブックス

余命3年と言われた著者は、まず木の実をたべ、食事の量を極端に減らしたことから超人への道を歩むことになる。運命を支配する想念術、記憶能力を無限に伸ばす想念記憶術が面白い。ポイントは視覚化とイメージの具体性。


■ フジモトマサル  ウール100%  文化出版局

この手の本はほとんど手に取ることはないんですが、なかなか味わい深かった。主人公ドリーは1人暮らしのOL。ちなみに羊です。週5日は会社で単調な事務仕事。そして土日はレンタルビデオ屋で恋愛映画を借りてきて観る。事件という事件は起こらない。淡々としていて、ひどく落ち込むこともない。友達も遊びに来るし、彼氏候補?の自分のことしか興味ないというつむじ君もいてる。気持ちが晴れない時によさそう。癒しいらずの楽天家に癒される。


■ 藤本由香里(白藤花夜子)  快楽電流  河出書房新社

最初に売春論があるが、私はこの人の意見に共感できる。著者は結婚制度を<女が特定の男の正式な庇護を受けることであると>と考え、売春はなぜ悪とされているのかは、<結婚制度=家族制度の価値を守るためである>と考える。私も売春=悪とは考えない。そして、著者の問い<どんな状況で肌をあわせた相手であっても、相手の望むだけの敬意といたわりを、あなたは相手に与えられるか>に対しては、イエスと答えられる。その他、レディースコミックや、団鬼六の小説、代々木忠のAVなどをとりあげ、いろんな性と恋愛について綴る。売春婦になりたかった著者の<「性と愛」の謎を解くための苦闘の歴史>でもある。


■ 藤原伊織  テロリストのパラソル

<「仕事?なんの」「これだよ」酒瓶をふった。「プロの酔っ払いでね」>おもろいです。ハードボイルドやってます。若き学生時代の真摯な、甘い香りとそれ以後のそれぞれの波乱万丈の人生。さすが、直木賞。ライバル、恋人、一風変わったヤクザ、新宿の路上生活者、電気箱そして短歌に込められた秘密。さすが、江戸川乱歩賞。乱歩賞は自分で応募するんやな。直木賞は違うはずやけど。とまあ同時受賞のことはある。ああ、カレー味の効いたキャベツが沢山入ったホットドッグが食べたい。


■ 藤原智美  運転士  講談社

<時間と方法がきちんと確立されていて、いいかげんなものが入り込む余地がない明快な仕事を選ぼうとした。…彼にとって曖昧さは不自由さと同じ意味だった。…「運転手ではなく、運転士です」彼はきっぱりといった。>前半はよかったけどなあ。後半はイマイチ。これよりも併録されている『王を撃て』のほうがいい。主人公はどちらもオタクやけど。ちなみに『運転士』は第107回芥川賞受賞作。


■ 双葉山定次  横綱の品格  ベースボールマガジン社新書

史上最多の69連勝を達成した横綱と言えば双葉山だ。千代の富士は53連勝(史上5位)で、朝青龍が35連勝(史上16位)だ。双葉山は、のちに時津風と名乗った。時津風部屋には、青の里という力士がいた。兄貴がファンであった。<イマダ モッケイタリエズ>の名言を残した双葉山は素朴で、求道精神に溢れる男であった。力士の立場に立った発言も多く、年2場所が4場所となって、養生する時間が少なくなった嘆いている。今や6場所だ。怪我を治すのは尚のこと大変だろう。自身の相撲ぶりについては「後手のさき」、相手が立った後で立つが、その瞬間には機先制している、いわゆる「後の先」だ。基本の型を重視し、型崩れがないので怪我が少ないという。女性の好みついて語っているのもいい。彼の求道精神を引き継げるのは、2代目貴乃花ぐらいか。『〜の品格』という書名がはやっているので名付けたんであろうが、双葉山にとっては改訂前のタイトル『相撲求道録』の方が似合うな。


■ フィッツジェラルド(訳:小川高義)  グレート・ギャッツビー  光文社古典新訳文庫

正に映画のようだ。人生の全てをデイジーという女性に捧げたギャッツビー。読んだ直後は、何やら哀しい物語と感じたが、そうではないのかもしれない。ギャッツは、ギャッツビーに名前を変え、金を蓄え、薄っぺらかったが成功者となった。そして長年の目的であった彼女(デイジー)をものにすることができた。だが彼女の言うように欲張りすぎた。彼女の現在だけでなく、過去も自分のものにしたかったからだ。それが狂わせた。やり過ぎた。ラストで父親が登場するが、何か泣けてくる。


■ 船戸与一  黄色い蜃気楼  双葉文庫

英国航空のボーイング747が墜落した。奇蹟的に8人の生存者がいた。しかし、墜落した場所は水も食料もないカラハリ砂漠のど真ん中。彼等は生きて帰ることができるのか。主人公はその中の1人、鶴見浩二(鶴田浩二ではない。ちなみに小説での大半はクレインと呼ばれる)。そして、英国航空のスチュワーデス、2人の日本人女性の観光客。この4人が行動を供にする。主人公は機密書類を持ち、それを狙う刺客達。現在の国際政治情勢を反映したいろんな組織の思惑がからむ。現地人のブッシュマン、ようわからん女刺客などもでてきて話は複雑。しかし読みやすく、面白い。英語、日本語、オバンボ語、アフリカーンス語(南アフリカに入植したボーア人が創りだしたオランダ語の変型語らしい)などで会話される。(小説の文はもちろん日本語で書かれている)。この辺りの、著者の無国籍ぶり(広範な知識)がいい。ブッシュマンの考えていることも日本語で読める。…ふと気づくと新幹線は名古屋駅で停車していた。あわてて降りた。


■ 船戸与一  蟹喰い猿フーガ  徳間文庫

チビで変装名人の詐欺師エル・ドゥロ。口先三寸で相手をまるめこむ。しかし、きっぷのよさによって、慕う人間は多い。主人公の私、女子プロレスラー、ホームレスの小僧、そしていがみ合っていたヤツまでも彼と行動を共にしていく。エル・ドゥロの口癖が<人生のうちで重要なことはほとんどないに等しいんだ。べつにおたつくことはねえやね>である。このおっさんもかなり魅力的だが、エル・ドゥロに拾われたホームレスの小僧メッキーがイカす。いつもクソなまいきなことを言うガキだが、勇気と行動力はピカ一だ。この文庫本のカバーに著者の写真が載っているが、いかがわしい大黒様みたいである。初代(何故初代かは読めばわかる)エル・ドゥロってこんなヤツやったかも。


■ ブライソン・ビル  人体大全  新潮文庫

休むことなく、ひたむきに拍動する「心臓」。「食べる」「話す」「呼吸する」を同時に行う忙しい「口」。「胃」は実はたいした仕事をしていない。筋肉、神経、血管が通り、完璧な可動性がある手首は美しい、と外科医は言う。人は簡単に死ぬものではない。体温を1〜2度上げることで、侵入する微生物を撃退する。反対に生命を失った人体は体温が下がり、すばやく微生物に食われる。1万メートルの高さから落ちて、生き延びた旅客機の客室乗務員の話。しかし、生まれてくるのは大変だ。赤ちゃんの頭の方が産道より1インチ大きく、圧縮されて出てくる。命の始まりと命の終り、生きようとする人体の仕組み。成功と失敗の医学発展の歴史。名誉を得た者と葬られた発見者。人体に関する幅広いエピソード満載の名著だと思う。


■ ブラウン・ティム  デザイン思考が世界を変える  ハヤカワノンフィクション文庫

デザイン思考とは、外観や機能のデザインのことではない。それを利用する人間が心地よくあるかどうかを考えることでもある。物から事へ転換でもある。ホテルや旅館なんかも建物の良し悪しや、食事の優劣だけではなく、利用する人たちが家を出て帰ってくるまでの間、いい体験を得られるかどうかまで考えるのがデザイン思考だ。デザイナーが一人で考えるのではなく、いろいろな分野の人間が集団で築き上げられるものでもある。考え過ぎず、プロトタイプは早く作れと言う。それによって早く方向転換したり、新しいアイデアが生まれるからだという。面白かったのは、インドのアラビアント眼科病院の医師はマクドナルドの効率性を手本として、白内障の患者を次々と治療できるようにしたこと。


■ ブラウン・フレドリック  さあ、気ちがいになりなさい  ハヤカワ文庫

今時なかなか強烈なタイトルの本。12編の短編集。フレドリック・ブラウンといえば、松岡正剛の365冊に入っていた『宇宙をぼくの手の上に』を読んだ。内容はすっかり忘れていたが、この本の紹介で、<一発で本好きにした>という紹介が記憶に焼き付いている。昔読んだその本を見るとなんの『緑の地球』は『みどりの星へ』、『ノック』は『ノック』、『シリウスゼロは真面目にあらず』は『シリウスゼロ』、『さあ、気ちがいに』は『さあ、気ちがいになりなさい』として収録されていた。そして今回の訳が星新一というのが凄い。不思議で、不気味で、心がざわざわするような小説群。表題作の『さあ、気ちがいになりなさい』は、こちらの心が持って行かされそうになる。『電住ヴァリヴェリ』は<電気を食料とする>存在が登場する。これは『タイタインの妖女』に出てくる目の見えない生き物で、震動を食料とすやつと双璧だ。


■ プラチェット・テリー  ソウルミュージック  鳥影社

テリー・プラチェットのディスクワールドシリーズ。『死神の館』の続編でもある。死神の弟子となったモルトは、死神の養女イザベルと結婚した。モルトとイザベルの間に出来た娘はスーザンだ。今回のお話は、死神の孫娘スーザンが活躍する。そしてロックバンドが登場。彼らの音楽は人を狂わす魂の音楽だった。人呼んで、ロックスインミュージック。ご存知?見えざる大学の魔道士たちも登場。ディスクワールドの住むトロール(巨人)、ドワーフ(小人)、図書館員のオランウータンも登場し、またもやドタバタが劇の始まりだ。スーザンは死神の仕事をやろうとし、ロックバンドのギタリスト・バディを救おうとする。バディが音楽か、音楽がバディか。宇宙の始まりは1つの音楽(雑音?)からだったかもしれない。(2012.4.8)


■ プラチェット・テリー  刈り入れ  鳥影社

テリー・プラチェットのディスク・ワールドシリーズ第11作。死神が自分の仕事を放棄して人間になってしまう。死神の仕事とは、<死者から魂を切り離すこと。切り離しには大鎌を使う。まさに人が死ぬ瞬間に立ち会う>。決して死神が人を殺す訳ではない。死ぬことが決まっている人の傍に来るのだ。仕事が嫌になって人間(ビル・ドア)になった死神は、農家で麦の刈り入れの仕事に就く。得意の大鎌をふるうのだが、何故か刈り取りは1本1本だ。しかも高速。人間1人1人のイメージか。また大鎌の研ぎ方が凄まじい。砥石の次は絹、そして蜘蛛の巣、風、最後は陽の光で磨く。あまりにも鋭くなったので、なんと本書の文字列もスパッ、スパッと切り裂かれる。こんな表現の仕方は初めて見た。人間となり寿命という時間に縛られることになった元死神ビル・ドアの前に、後継者の死神が近づく。死神と元死神の対決が見物。また死神が仕事をしなくなったので、死ぬ運命にあった魔道士・ウィンドルは、アンデッド(死にきれていない者)となって活躍?する。死にきれていない者が体を持つ感覚の描写や、手押し車の大群が登場するドタバタ劇の想像力に圧倒される。


■ プラチェット・テリー  三人の魔女  三友社出版

イギリスの作家・テリープラチェット、ディスクワールドシリーズの6冊目にあたるらしい。『魔女エスカリナ』でも登場した魔女グラニー・ウエザワックスの他、ナニー・オグ、マグラートの魔女が登場する。3人の魔女は殺害された王の息子を預かることになった。その息子(トム・ジョンと名付ける)を芝居小屋の親父ヴェトラーに育てさせ、王位に担ぎ上げようとする。彼女らのドタバタ魔術ぶりが愉快だ。殺害された王ヴェレンスは亡霊となって登場し、若い魔女マグラートは道化と恋に堕ち、魔女グラニーは、世界を15年すっ飛ばさせる。王フェルメットと、その王を操る夫人。最後のオチが効いている。


■ プラチェット・テリー  異端審問  鳥影社

神に必要なものは、信者である。そして神は良い信者を獲得してこそ良い神になれる。カメの姿になった神、オムはまあ、いい信者を持てたようだ。見習い修道士のブルサだ。この2人というか、神と信者のかけあいが面白い。神が信者に気をつかっているところがいい(信者を失えば神でいられなくなるというのもあるが)。最初は頼りない印象のブルサであったが、なかなかどうして、最後は神、オムの方がブルサの言うことを聞くようになる。徐々に、神と人間との間の信頼関係ってのが築かれていく。ご存じ?ディスク・ワールドシリーズ。人が死ぬ時は、あの「死神」も登場する。例によって、しつこい面白さだ。全体のストーリーよりも、一文、一文が面白い。ちょっと詰め込み過ぎかな、って感じがしないでもない。まあ、訳者の久賀宣人さん、大変でしょうね。<ワシがワシを落とした>とか言うのもけっこう好きですけど。


■ プラチェット・テリー  魔道士エスカリナ  三友社出版

<魔法はディスクの回転で生産され、光りはその莫大な魔力を通り抜けるために、速くは走れない。魔道士は、ディスクを覆う生の魔法を蒸留して、魔力を身につけることができる>。ディスクワールドシリーズ2作目、今回はエスカリナという少女が魔道士になろうとするお話。伝統的には女が魔女になり、男が魔道士になるらしい。しかし、エスカリナは魔女グラニーの助けを借りて魔道士になる為「見えない大学」に入学しようとする。この世界でも魔女はけっこう実生活に役立つことを行い、魔道士は観念の世界に生きているのがおもしろい。どこでも男と女はそうらしい。読み飛ばしはできない。何故なら短い文の中にも様々な比喩に満ちており、それがまた味わい深いのである。前回の死神の弟子モルトのような魔道士シモンもなかなかいい。しかし、何よりも光りがゆっくり進む世界での夜明けというのを一度見てみたいものだ。


■ プラチェット・テリー  死神の館  三友社出版

ホラーではない。ファンタジーである。ここディスクワールドでは、死神は砂時計である人の残りの人生を確認して、死の瞬間にその人の肉体と霊魂を大鎌で切り離さなければならない。それが死神の主たる仕事である。その仕事はけっこう忙しく、死神も自分でやるのがイヤになってきたみたいで、バネ仕掛けで動いているような変な人間、モルトを弟子にとった。しかし、その関節が1つ余分にあるような動きをするモルトは、死ぬべき運命の王女を助けてしまう。歴史はなるようになろうとし、本来の現実が壁のように押し寄せてくる。。。この辺りは映像にすると面白そうだ。タイトルからは想像できない読後感の良さ。最後の場面の転換は、あの映画の『蒲田行進曲』のラストのように明るく終わる。すっとぼけた死神とモルトはいい味でてる。


再読してようやく同じ著者の『刈り入れ』との関係がわかった。モルトは死神の弟子。イザベルは死神の娘。そのモルトとイザベルが結婚する。『刈り入れ』は死神のその後。『ソウルミュージック』は、モルトとイザベルの娘が活躍する、ということで、このディスクワールドシリーズは、やはりなかなか手ごわい。その都度解説はあるとはいえ、いきなりディスクワールドに放り込まれる。その世界のありよう、その世界ルールというものがあとから徐々にわかってくる。本書でモルトとイザベルの結婚を確認できたので、心置きなく『ソウルミュージック』読める。(2012.2.26)


■ プラトン  パイドロス  岩波文庫

文字の発明はすばらしいことばかりであるのか?<人々が文字を学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽくなり、見かけの博識家になるだけである。うぬぼれだけが発達するため、つきあいにくい人間となるだろう>。そこまで言うか、って感じもするが、次のことは、心しておかねばならんやろな。<言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているというということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから>。とソクラテスは言う。なるほどなあ。ソクラテス、絶好調である。今回はパイドロスに語る、弁論術について。君は恋する者よりも、恋していない人に身をまかせるべきだ、という挿話から始まる。


■ プラトン  プロタゴラス  岩波文庫

<ソフィストの最長老で筆頭格の名士>であるプロタゴラスにソクラテスが挑む。お題は「徳とは人に教えることができるものであるかどうか」ということ。徳を「人に教えられる」と言うプロタゴラスに対して、「教えることはできない」と言うソクラテス。ソフィストの集会で、名調子であったプロタゴラスであったが、最後はソクラテスの罠にはまる。ソクラテスの質問の仕方もいやらしい。思わずそう言ってしまうというようなことばかり。プロタゴラスは、「快楽にふけるのは良くない」とか「バカだが勇気のあるヤツがいる」てなことを言う。そして、ソクラテスは言う「否、快楽は善であり、勇気は知である」と。よくよく聞くと、御尤もって感じになるというか、プロタゴラス自身がそう言わされるハメになる。いやはや、金とって徳を教えるソフィストたちに対するソクラテスの反発はかなりなもの。肝心の「徳は教えられるか?」についての議論は矛盾をきたしたまま終わる。


■ 古井由吉  杳子・妻隠  新潮文庫

 <杳子は深い谷底に一人で座っていた>。濃密な小説。女子大生の杳子と大学生の私は山で出会う。山で動けなくなっていた杳子を助け、町へ戻る。その後、偶然杳子と出会い、デートを重ねる。杳子は精神的な病気で1つ1つ確かめるように行動する。折り紙をていねいに何度でも折り返しているような行動の描写。読んでいると何やら谷底に落ちたような気分になる。『妻隠』、これもまた濃密。アパートに住む若い夫婦。男は体調をくずして1週間ほど会社を休む。その間のアパート周辺の様子と、妻の様子を描く。アパートで2人で寝転がっているところなどは、濃密で匂いたつようだ。最初に倒れてもうろうとして、どこに寝ているのかわからなくなっている描写も細かい。どちらも通り過ぎる日常から離れた、身近で、鬱で、熱っぽい濃密な小説。『杳子』は芥川賞受賞作。


■ 古市忠夫  飛ばしを諦めたらアカン!!  ベースボールマガジン社

 ゴルフ好きのカメラ店のオッチャンが、阪神淡路大震災ですべてを失った時、車のトランクに残っていたゴルフクラブを見て、残りの人生をゴルフに賭けようと思ったという。そして59歳でプロテストに合格した。その古市さんが書いたレッスン書だ。強調するのは「心」のあり方。常に感謝と前向きな姿勢だ。技術論としては、インパクトでも右足体重で、フェースの向きを変えずにスイングするというもの。独特ではあるが単純で、スムースな振りと伸びのあるフォローという点でいいと思う。そして正しく当たれば飛距離も伸びる、というわけだ。この単純さが肝心。


■ 古市憲寿  10分で名著  講談社現代新書

 各名著の専門家と古市氏の対談による本の紹介。『神曲』、ダンテは最後に神と出会う。『源氏物語』、紫式部はハッピーエンドにしない。プルースト『失われた時を求めて』、この長編、まったりと読んでみたい。『相対性理論』、アインシュタインは量子論を認めなかった。最近は宇宙をつくれるという論文もあるという。ルソー『社会契約論』、自分たちで自分たちを統治する。ニーチェ『ツァラトゥストラ』、超人は生きる価値を自らつくる。『わが闘争』、この本の印税でヒトラーは暮らしていた。カミュ『ペスト』、孤独な人間同士の連帯。『古事記』、『日本書紀』だけでは楽しめないのをカバーしている。マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』、出版直前に、パンジー・オハラからスカーレット・オハラに変更した。アダム・スミス『国富論』、個人の創意工夫によって、社会を切り拓く。『道徳感情論』も必要。マルクス『資本論』、機械の導入は、労働者を搾取するし、また解放する。<私はマルクス主義者じゃない!>とマルクスは言う。


■ 古市憲寿  楽観論  新潮新書

 <人生は総じて「ローリスク・ハイリターン」である。人はなかなか死なないし、国家は滅多に崩壊しないし、人類滅亡もまだまだ先だろう。何とかならないことは、ほとんどない。少なくとも。そう思って行動したほうが、人生はずっと楽になる>。というのが古市氏の言う楽観論だ。悲観論よりもずっといい。ケ・セラ・セラよりも前向きだ。週刊新潮に連載されたもので、1テーマ3ページの構成で読み易い。面白かったのは、<「属性」ではなく「状態」>。仕事ができる、できないも「属性」ではなく、「状態」。それだけでなく、ほとんどのことが「属性」ではなく、「状態」であると考えることができる。国籍や性別さえも。確かに変えることができないと思い込んでいることが多いのではないか、と思う。今はこの「状態」であるが、変われると思うほうがいい気持ではないか。楽観論でも言っているが、それで<腹をくくる>ことが大事かもしれない。


■ 古市憲寿  絶対に挫折しない日本史  新潮新書

 どの時代から語るのかと思ったら、なんと地球に大陸が発生したところから。そして新型コロナウィルスまで。これを一気に解説する。ここが凄い。『サピエンス全史』の日本史版を書こうとしたようだ。社会学者らしく、日本のシステムはどうなっていったのかに絞って語るので、個々の人名とかはほとんど出てこない。そして日本の通史としては、大きく3つに分ける。<バラバラに生きていた人々が、一部の権力者によってまとめ上げられいく「古代」、それが崩壊していく「中世」、再び列島中が1つになった「近代」>といった具合だ。それだけではなく、テーマ別に日本を語る。米、神話、土地、家族、未来、戦争、そして歴史と幅広い。日本の大きな流れを理解する上で非常に面白い本であった。


■ 古市憲寿  平成くん、さようなら  文藝春秋

 平成(ひらなり)くんは、平成に改元された日に生まれた。そして平成が終わるとともに安楽死をしようと考え、安楽死のやり方を実地検分をしていく。なんで安楽死?と思い、平成くんに寄り添う恋人の愛。安楽死を後もこの世にいるかのようにテクノロジーを駆使して準備する。今までの自分を機械学習させ、AIを使って、自分らしくスマートスピーカーに発言させるなど非常に現代的。これで、無駄話にも相手をしてくれる。生活の中でブランド物がどんどん出てくるのは村上春樹っぽいが、村上春樹の方がファンタジーかな。


■ 古市憲寿  誰も戦争を教えてくなかった  講談社

 古市憲寿が世界の戦争博物館をめぐり、戦争とはなんだったのかを探る。現在世界の戦争が全て終わったわけではないので、主に第2次世界大戦時の展示となるところが多い。戦勝国アメリカの博物館は、<「爽やか」で「勝利」を祝う「楽しい」場所である>のに対して、敗戦国ドイツの博物館は、<お化け屋敷よりも怖い>と表現している。日本が一番長く戦争をしてきた中国では、<日本軍が行った残虐行為を執拗に記述する一方で、最後は日中友好と世界平和、その重要性を謳って終わることが多い>と言う。徴兵制のある韓国では、お得意のソフトパワーでエンタメ性に富む。現在の韓国の商売相手は、日本よりも中国に目を向けているという。で、日本の博物館はというと、印象はあまり良くなく、<僕たちはまだ、戦争の加害者にも被害者にもなれずにいる>という。関ヶ原にある<ノーモア関ヶ原>には笑ったが。博物館も集客を期待するのであれば、ダークな面も含めてのエンタメ性を重要ポイントの1つに上げる。戦争というと悲惨な話ばかりではなく、楽しかった戦争という面もあったということもキチンと書いている。世界の博物館と今の人々の様子も語り、非常に面白かった。最後のももクロとの対談も愉快。


■ 古市憲寿  誰の味方でもありません  新潮新書

 NHKの『ニッポンのジレンマ』で観て以来、この人のフラットでフワッとしているところが心地いい。最近はすっかりバラエティに出てる人の印象が強いが、『朝生』にも三浦瑠璃や落合陽一とともに、若手論者として登場してるし、『平成くんさようなら』という小説も出した。本書は『週刊新潮』に連載したものをまとめたもので、1つにつき3ページくらいなんで読み易いし、どれをとっても飽きずに面白く読める。世の中の正論、正義の圧力に負けそうになったら本書を読んでみよう。今後も世の中をチクリチクリやりつづけて欲しい。名エッセイストになりそうな予感。ところで、『人狼ゲーム』って面白いのかな?


■ 古市憲寿  だから日本はズレている  新潮新書

 面白い。アップルのスティーブ・ジョブスについては、<彼が本当にすごいのは、大したことのない技術を「革命」のように見せる手腕だ>とか、<日本が「ものづくりの国」であり得たのは、冷戦のおかげだったとも言える>とか、<素敵で便利な「監視社会」(ただし、現在日本は不十分な監視社会)>とか、冷静というかシニカルというか、なかなか浮かれさせてくれない。彼が語る2040年の日本はなんだか不気味だ。結局、<「今、ここ」にいる「僕たちを充実させることから始まる」><「やさしい革命」>でしかないのかな?


■ 古市憲寿  僕たちの前途  講談社

 そう言えば彼が所属している3人でやっている会社名も「ゼント」という。書名とかぶっているが、関係ないか。古市憲寿は、一見なよっと、ふわっとしているが、なかなか冷静だ。というか冷静過ぎるくらいだ。本書の内容は今はやりの?<起業>について。社会学者らしく、そのネーミングの由来や世界と日本の状況を歴史的に解き明かしていく。注記もいっぱいあり、それを読んでも皮肉屋(本人の弁)らしく面白く書いている。現在起業して成功している人の紹介や、なんで起業したかも説明している。誰でも起業すりゃあいい、ってもんでもなく、また出来ない。ある種の専門性があり、それにお金を払ってくれる人がいてるか、ということ。いずれにしても自分の好きなことを勉強して、それが職業とすることが出来れば最高だ。


■ 古市憲寿  絶望の国の幸福な若者たち  講談社

 今年度4月からから毎月放送することになったNHK『ニッポンのジレンマ』の司会を務めることになった古市憲寿の処女作がこの本だ。26歳の若者が書いた若者論。今までの「若者論」の比較をしたり、いろいろなデータを見せながら、現在の「若者」の実態にせまっていくあたりは社会学者らしい。日本は不景気で、少子化時代なのに正規雇用が少ない状況ではあるが、インターネット等便利なものが普及したお蔭で、お金を使わなくても幸福感はあるようだ。統計によれば20代の生活満足度はその他の世代よりも高い。著者も<日本が終わってしまってもいい>と言う。日本を守る為に戦争をする気もないが、かといって個人主義ではなく、友達や仲間は大切にする。<なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。絶望の国の、幸福な「若者」として。>と結ぶ。まあ若者の中にはもっとガツガツいく奴もおるんだろうけど。


■ 古川日出男  ハル、ハル、ハル  河出書房新社

 表題作『ハル、ハル、ハル』は、冒頭何やら期待させられる。全ての物語の続編であるってとこ。どんな続編からと思いきや。『スローモーション』、この日記には笑わせられる。一日は動詞でできている。命令形で行動する日。否定形で行動する日。『8ドッグズ』は、南総里見八犬伝。


■ フレミング・イアン  007/ロシアから愛をこめて  創元推理文庫

 大好きな007映画の中でもこの『ロシアより愛をこめて』は一番の名作であると思う。ビデオ・DVD等で何度も見たので、原作と映画はどんなに違うのかが興味のあるところであった。細かいこと言うが、映画の題名は「〜から」ではなく「〜より」だ。映画のシリーズでの二大美女ダニエラ・ビアンキ扮するタチアナ・ロマノアは、原作の方がぐずぐずだ。ちなみに、もう1人の美女は『死ぬのは奴らだ』のジェーン・セイモアだ。余談だが、年取ってからは美女度はジェーン・セイモアがリードしている。『北北西に進路を取れ』ばりのヘリコプターに追いかけられるシーンは原作にない。映画のラストではボンドとロマノアが仲良くゴンドラに乗って終わるが、原作の方は、ありゃりゃりゃりゃー、だ。ある意味刺激的であった。


■ フレミング・イアン  007/カジノ・ロワイヤル  創元推理文庫

 007の原点。シリーズ第1作である。ここには、華やかなジェームス・ボンドはいない。敵に捕らえられ、素っ裸にされて電気ショックをかけられて気絶したり、女の相棒に結婚を申し込もうとしたり(これが最後に悲劇となる)、人間臭いボンドがいる。メインの話もル・シッフルとのカードの大勝負とそれに続く拷問、そして病院での描写とヴェスパー・リンドと過ごす休日で、最近の映画のような派手なアクションはないが、中身があり読ませる。ジタバタして汗を流すボンドはなかなか良い奴だ。


■ フレミング・イアン  007/ドクター・ノオ  ハヤカワ文庫

 いや〜、ボンドってやっぱり肉体派だなあ、とつくづく思った。脱出する為に、高温になった金属管の中をはいずり回って大やけどをし、巨大イカと対決して身体は吸盤の痕だらけとなる。映画の中ではもっとスマートな感じやがなあ。小説の中のボンドの方が泥臭い。でも感心したのが、敵地に乗り込む前に充分なトレーニングを積むところ。拳銃もワルサーPPKで決まり、と思っていたが、直前までベレッタを愛用していて、今回メインで使ったのが、スミス・アンド・ウエッソンだった。ジャマイカで鳥の糞でできるその名も鳥糞石(グアノ)に目をつけて金儲けを考え、権力に固執するドクター・ノオは変人であったが、あっけなく死に、虫、蛇とともに生活していたハニー・ライダーは野性味たっぷりで魅力的であった。


■ フレミング・イアン  007/私を愛したスパイ  ハヤカワ文庫

 わたし(フランス系カナダ人。名前はヴィヴィエンヌ・ミシェル)の一人称で語られるこの話は、ちょっと不幸ではあるが、ごく普通の女性の物語かと思わせられる。2人の男にふられ、バイクで旅の途中、モーテルに1人でいるところを2人のギャングに襲われる。ここまでで半分以上もある。そこでジェイムズ・ボンドの登場となるが、颯爽と現われた訳でもない。彼女の第一印象は、左頬に傷のある冷酷そうな男、である。ギャングとあまり変わらない。しかしそのボンドは彼女を救い出す。これもあまりスマートでないが、彼女はボンドに引かれていく。そして、一夜をともに過ごした朝、ボンドは手紙を残して去った。ボンドに恋した様子をみた地元のベテラン警官は、ジェイムズ・ボンドやあのギャングたちは<あの連中だけのジャングルの住人>なので甘い夢を見て近づくな、と諭す。だが彼女は、私を愛してくれた思い出を胸に強く生きていこうとするのであった。ここでのボンドは地味で暗いが、殺しのプロであった。それと普通の女の子とのギャップはおもしろい。映画とも全然違う。同じであるのはタイトルだけだ。


■ フレミング・イアン  007/黄金の銃を持つ男  ハヤカワ文庫

 20年ぶりにハヤカワ・ミステリ文庫で007シリーズの改訳版が出た。このシリーズもさんざん映画、ビデオで見てきたが、原作を読むのは初めて。いや、全然映画と違う。映画のような子供だましはない。派手さにはかけるがこれがけっこう面白い。ジェイムズ・ボンドなんかいきなり敵方に洗脳されてて、上司のMを殺そうとする。悪役のスカラマンガも映画よりも変なヤツだ。ヘビをナイフで殺して生のままむしゃむしゃ食う男だ。このタイトルの映画はリアルタイムで見た。ボンドは2代目のロジャー・ムーア。メアリー・グットナイト役のブリック・エクランドはなかなかかわいかった。


■ プレヴォー・アベ  マノン・レスコー  新潮文庫

 これはまた凄い恋愛小説だ。どこが凄いかって、主人公マノンの天然なおおらかさ。そして騎士グリュウの決してあきらめないしつこさだ。多くの男どもを惹きつける魅力がマノンにはあった。おかげで悪評が立ち、父親や友人がグリュウとマノンを引き離そうとする。しかし、マノンの前には無力だ。マノンに恋心を寄せるオヤジを騙したとして、2人とも牢獄に入れられるが、友人の助けをかりて脱出。ついにマノンはアメリカに送られるはめになるが、グリュウはついて行く。そこでマノンと正式に結婚しようとするが、マノンに魅せられたやつが阻止しようとする。最後は壮絶なマノンの死。グリュウも死をいとわなかった。徹底的に恋を貫いたグリュウ。後悔はなかったろう。


■ プレストン・リチャード  ホット・ゾーン(上)(下)  飛鳥新社

 本書は1967年〜1993年にかけて起きたエボラ・ウイルス、マーブルグ・ウイルスについてのノンフィクションである。コロナウイルスとは違い、形からフィロウイルス(ひも状ウイルス)と呼ばれる。最初に発見されたのがマールブルグ、そしてエボラ・ザイール、エボラ・スーダン。エボラ・ザイールの致死率は90%だという。またその死に様がえげつなく、多量の出血で体がドロドロになるという。最前線で戦った人たちのインタビューをベースに書かれた本書は、読んでいても緊張感が高まる。ワシントン郊外のレストンのモンキーハウスでエボラウイルスは発見された。ウイルスハンターたちは宇宙服を着て、何千匹ものサルを殺しにいく。サルに唾を飛ばされたり、ひっかかれたら一巻の終わり。本書のクライマックスとも言える。しかしこのレストンのモンキーハウスで発見されたエボラウイルスは、サルを殺すが、人には感染しなったのだ。ほとんど同じ見えるウイルスではあったが、人が90%死亡するウイルスと人に無害のウイルスがある。ウイルスは生物の棲家を見つけるとそこで変態することがあるという。いつ構造が変わって人に有害となるかがわからないのが怖ろしい。生物の宝庫である熱帯雨林地域から発生したウイルスは、交通機関の発達した現代ではあっという間に世界中に広がる。著者は最後にこういうことを言っている。<地球は人類に対して拒絶反応を起こしていくのかもしれない><地球の免疫システムはいま、自己を脅かす人類の存在に気づいて、活動をはじめたのかもしれない>




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