〓 | なんとリック・デッカードの伝記映画の撮影所から始まる。虚構の中の虚構。面白いのは、ブリーフ・ケースになったロイ・バティ。しゃべるブリーフ・ケースはなかなか愉快。思わず肩をすくめたりする、という雰囲気を醸し出したりする。で、物語はだんだん訳がわからなくなってくる。けっこう力技。話を納得させる為の説明が過多。というか全体に長い。ラストのちょっと前は盛り上がるが、最後はようわからんぞ。。。 |
〓 | フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の続編。でもあるし、映画『ブレードランナー』の続編でもある。小説でしか出てこない人物も登場するし、映画でしか出てこない人物も登場したりで最初はこんがらがる。どちらかというと、映画の続編ってイメージが強い。話は第6のレプリカントが生存していた、ってことで始まる。あんたかてレプリカント、うちかてレプリカント状態になり、最後は恋愛物語で終わる。死んでいたはず?のヤツもガンガン出てくる。もうやり放題だ。 |
〓 | 主人公スカイラーは、スプリンターと呼ばれるチップの運び屋となった。それを衛星ミサイルが攻撃し、その模様をビデオに撮り、エンターティメントとして放送する。スカイラーを執拗に追う人間の様なカメラ、シャドウと、カメラのような人間、エンドリクス。そして、次々にスプリンターたちは殺されていくが、スカイラーは「神聖な保護」がある為、生き延びる。それに熱狂する人々。しかし、すべてはウソっぱちで、権力を維持しようとする者のデッチ上げであった。・・・自分が出ているビデオを見ている自分をビデオで見ている。話はそこから始まる。そして「ビデオの中のビデオの話」の間に「ビデオの話」が挿入されるので、ややこしい。一度ザッと読んで、再度読むほうがいいかもしれない。タイトルの「グラス・ハンマー」の意味。薔薇窓の男がしたように、デッチ上げのものを作るより、それをぶち壊して真実を知る。てなことかな? |
〓 | イアーゴーにまんまとだまされ、妻デズデモーナを殺し、自らの命を絶ったオセローであるが、あまりにも質実剛健過ぎると言うか、一本気と言うか、性格が硬い。直接の妻の言葉をもうちょっと聞いてやってれば、と言う感じもする。てなことで、『マクベス』、『ハムレット』、『リア王』ときて、この『オセロー』で4大悲劇を読み了えた。好みから言えば、『リア王』かな。 |
〓 | やっぱり、というか密度が濃い。話もスパッと始まるし、無駄がないっちゅうかな。3人娘に遺産を分け与える際に、2人の姉ゴネリル、リーガンはどんなに父親を愛しているかを滔々と語るのに対して、末娘のコーディリアは、ただ心に思うだけ、黙っていればよいなんて態度でいたもんで、父親(リア王)の怒りを買う。そこからがリア王の悲劇の始まりとなる。シェイクスピアの書く悪口なんかも、非常に面白い。ケントがオズワルドに言うめちゃめちゃな言い草、<この父無し子のZ野郎、無くもがなのローマ字野郎め!>。この「ローマ字野郎」っていうのが気にいった。リア王に付きまとう道化、そして裏切られ、虚飾を捨て、ぼろをまとったエドガーも素敵だ。グロスターは言う、<人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強味になるものなのだ>。 |
〓 | 前回読んだ『マクベス』よりも、この『ハムレット』の方が面白い。『マクベス』は欲の深いおっさんの悲劇であるが、『ハムレット』の方は欲に絡んだものではなく、復讐劇。父の仇を討つのである。狂ったふり(?)をして言う皮肉たっぷりの言葉もおもしろい。<生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、…>と迷ったりするが、それでずっと悩んでいる訳ではない。最後は立派に覚悟を決める。イメージとしてはけっこう行動派だ。ハムレット自身は復讐も遂げ、死して本望だったかもしれん。しかし、一番の悲劇は、狂ったオフィーリアやと思う。 |
〓 | 魔女の予言に唆されたマクベスは現在の王ダンカンを殺害し、王となる。しかしまた予言通り、次の王は、バンクォーの子孫たちがなるべく、マクベスは暴君と言われ、殺害される。魔女の言葉を聞かなければ、王になろうとはしなかったのか。すべては魔女の言葉を運命と信じ、それに殉じたマクベスであった。『ハムレット』『リア王』『オセロー』とともに、シェイクスピアの四大悲劇だそうだ。まあ魔女の言葉を信じて、尊敬もされず、孤独になったのが悲劇といえるかな。 |
〓 | 1部と2部に分かれており、それぞれがまた、短編の集まりである。アメリカの日常、というか、BADな日常のを断片的に著したもの。暴力あり、セックスあり、ヤクありの世界。表現形式もバラバラで、ストーリーを追って楽しめるものはほとんどない。だからどうなんだという思想を出来るだけ排除し、今のアメリカの一部分を象徴的にカラッと書いてみせたもの。 |
〓 | この恐ろしく悲しい話を書いたのが女性で、しかも書き始めたのは19歳というから驚きだ。フランケンシュタインは怪物を創ったが、非常におぞましい姿に怯えて逃げた。一人にされた怪物はどこに行っても恐れられ、排除される。怪物は、フランケンシュタインを探し出し、何とかしてくれ、伴侶を創ってくれと頼む。ところで、どうやって彼は言葉を覚えたのか?ある一家の近くの納屋に住み、その家族の話を聞きながら覚えたのだ。これは目茶苦茶凄い。伴侶を創ることを断られた怪物は怒り、フランケンシュタインの親友、妻をも殺す。フランケンシュタインは自らの手で創造した怪物を殺そうと探すが、力尽きて死ぬ。それを確認した怪物も死を選ぶ。とても悲しいお話。怪物がフランケンシュタインではなく、怪物を創ったのがフランケンシュタイン博士である。怪物の名前はない。 |
〓 | アカデミー出版の超訳は読みやすく、テンポがはやい。ではなくてシドニィ・シェルダンだからテンポがはやく、読みやすいのかもしれない。次から次へと非日常的事件がおこり、世界中をかけめぐる。まさに波瀾万丈の人生に浸れる。読後は、普段の生活に戻るのがいやになるかもしれません。 |
〓 | 稲垣足穂について語る若い女性がいたとは、うれしい。思わず買ってしまった。イタリア未来派。1909年、マリネッティらによってなされた新しい芸術の創造の宣言。森鴎外に初めて日本に紹介され、東郷青児らも影響を受けた。その状況下において、稲垣足穂は機械、天体、少年愛を3本柱に独自の宇宙的郷愁を示した。実体よりも模型、オリジナルよりも複製においてこそ、その純粋性があるという。茂田真理子の修士論文だそうである。ブリキの月を愛する男、稲垣足穂の『一千一秒物語』、多くの人に読んでほしい。懐かしい未来がそこにあります。 |
〓 | 藤原拓海、18才。藤原豆腐店の1人息子。中学生の頃より毎朝車で(もちろん無免許)豆腐の配達をさせられる。しかも山道。秋名と呼ばれる峠を登ったり、下ったり。雨の日も風の日も。拓海の親父の名は文太。文太は豆腐を壊さないようにと、コップに水を一杯入れ、運転席に置き、こう言う。「豆腐を壊さない為に、コップの水をこぼさないように走れ」。そして拓海はどんなに速く走っても、水をこぼさないような運転技術を身につける。その拓海の乗る車は通称「86(ハチロク)」と呼ばれるスプリンター・トレノ。トヨタの小型FR(フロントエンジン・リア駆動)車だ。あることで、地元の走り屋(峠をいかに速く走るかを争っているやつら)と勝負することになった。峠をいかに速く走るかは、いかに速く曲がるか、ということでもある。トレノは非力で軽量だ。登りはパワーのある車に負けるが、下りはめちゃくちゃ速い。そして何よりも速く曲がる。拓海の圧勝。物語の始まりだ。次々と勝負に勝ち、「下りのスペシャリスト」として拓海は活躍する。そしてライバル高橋兄弟とチームを組んで遠征に出かけるようになる。そのチーム名を「 D プロジェクト」と呼ぶ。メカに弱く、一見ぼ〜っとした拓海が、高橋兄弟と組むことにより、走り屋として成長していく。その成長ぶりが面白い。車好き必読のコミック。 |
〓 | 子供の学校でのイジメをテーマにした短編が4篇。大人のイジメ?が1篇。女子グループで、ゲーム感覚で行われるイジメ。ともに背が小さい親子。子供と一緒にイジメと闘う親父。生きることはつらくて、楽しい。天気のいい日にはキャッチボールして優しい気持ちになろう。転校生のエビスくんにいじめられたひろし。大人になりエビスくんと会いたいと思う。教育熱心な水原先生。元教師の母親は何かと気に食わない。圧力をかけられた水原先生はやめることに。つらいことが多いけど、それぞれが精いっぱい生きている感じが伝わってくる。 |
〓 | 映画『コレクター』を思い出した。医学用の人体模型を愛する男。血が通わず、見られることのみに存在する絶対客体しか愛せない男。この男はまた、整形して人形のように美人になりすぎた女も愛する。そして人体模型のようにバラバラにすることを欲する。設定は面白いが、男の精神の異常性やらをもっと書いてほしかったかな。 |
〓 | <病気を気にしない、健康を気にしない、ーそれが、人生を楽しく生きるコツです>と著者は名刺に書いているそうだ。病気のことも、健康のことも忘れて、自分が今やりたいことをするのが大事であるという。病気が治らない人は、病気になっていた方が都合がいいのでなっているケースがある。病気が治ってしまうと、別の困ったことが予想されるので、それを避けているのだ、と言う。そんなこと、いろいろとありそうだ。今をよく生きるという著者の時間の概念もおもしろい。過去をつくってるのも現在の自分の意識である。そして、「過去、現在、未来」の全部が今ここにある。そして、<永遠とは、時間のない今を言う>という究極の確信に至った、という。 |
〓 | 戦争だ!というほどのインパクトはない。まあ、写真家であるし、語る人ではないのでしかたがないが。中の写真の『少女たちのオキナワ』はいい。古い街の中の若いエネルギーはいい。この写真は6×6判の左右を切って、わざと不安定感を出したらしい。このあたりは、さすがプロという感じだ。 |
〓 | 作家司馬遼太郎が、司馬遼太郎になる前に、本名の福田定一の名前で出版した本。三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖2』で紹介されていて、一度読んでみたいと思っていた。文春新書から新刊されたのを本屋で見つけたので即購入。20年以上も前に司馬遼太郎は亡くなっていたんだと思うと、20年はあっと言う間。いわゆる手に職をもった職人ではなく、会社という組織に属しているサラリーマン。そこには職人のような職種もあるが、団体行動としての仕事のやり方となる。サラリーマン生活も残り少なくなってきてこの本を読んだが、なかなか新鮮で面白かった。 |
〓 | 途中で宮本武蔵が出てきたのには驚いた。なるほど同じ時代であったんだなと、改めて思った。この強敵と霧隠才蔵との対決は見物。才蔵は凄い技を使う。自分の魂を抜き、相手に殺す気をなくさせるという優れもの。力対力の対決を避けた。また風魔獅子王院という家康側につく忍者が才蔵に立ちはだかる。この獅子王院というのが凄まじい。才蔵にくるぶしから足先を切られるが、逆立ちをして逃げる。それが足で走るよりも速いのだ。また忍者の基本技に、<吊り歩き>というのがある。天井を逆四つん這いになって歩くのだ。かなり指の力が要るぞ。忍者になるのも大変だ。そして才蔵は女にもてる。青子、お国、隠岐殿等。組織には属さず、主従関係をもたない。金で雇われるのみ。社会的成功の欲もない。政治的人間ではない。自由であるが孤独でもある。でも最後には一人の女を手に入れた。 |
〓 | 甲賀忍者は団体行動が得意で、伊賀忍者は個の力が優れている、という。その代表格が、猿飛佐助と霧隠才蔵だ。ご存知、真田十勇士の2人。秀吉亡き後、徳川家康は、磐石の体制を敷こうとするが、秀頼、淀君は豊臣の再興を願っている。大阪側につくか、江戸側につくかが、当時の忍者の就職先の選択肢でもある。霧隠才蔵は、猿飛佐助、真田幸村らと出会い、行動をともにするようになるが、幸村との主従関係は持たないというのが、伊賀忍者の特徴ということだ。主人に尽くすのではなく、大きなことがしたい。自由でありたいのが伊賀忍者なのだ。この霧隠才蔵を中心に、狙うはもちろん家康の首。 |
〓 | 秀吉は底抜けの善人だったのか。そのようだ。子供の頃から商人であった。人を殺さず、人を喜ばせる。敵であったものも優遇し、喜んで味方になってもらう。利をわがものにせず、大いに振舞う。子供の頃の秀吉に「他人に驕ってやれる人物になりたい」と言わしている。そのあたりが「人たらし」と言われる所以だ。やはりそれは幼少期の体験がそうさせたんだろう。身分が低かったこともあり、そうせざるも得なかった事情もあった。もちろんそれだけでなく、秀吉が天下人となった大きな要因は、知恵と勇気にプラスして、大気があった。と著者は表現したのであった。 |
〓 | <第一級の策士とは底ぬけの善人であり、そうでなければたれが策に乗るか、と藤吉郎は言いたい>。『江』にしてもそうだが、最近の大河ドラマでの秀吉は面白く描いていると思う。昔はどうだったか、あまり記憶にないが。本書では、信長と秀吉の絶妙のコンビネーション。主従関係ではあるが、お互いを理解している。というか偏にこれは秀吉のパフォーマンスのなせる技だ。著者はこれを器量の差ととらえている。著者の信長観は、痛烈ではあるが、やはり冷たい人間と見ているようだ。<ひとは利に動かされ、利に感激し、利のために命をすててもはたらくはず>という考えの持ち主としている。信長から毛利に寝返った荒木村重は秀吉にこうささやき、ドキリとさせる。<筑前殿こそ、天下万民の信を得るおひとではあるまいか>。秀吉はその自分と同じ素質を黒田官兵衛の中に見る。利が最優先ではないのだ。結局、秀吉は底抜けの善人として天下を取ったと解釈しているのか。下巻が楽しみだ。 |
〓 | 柴錬立川文庫の一冊目。猿飛佐助は武田勝頼の子であった。佐助を育て、鍛え上げたのが戸沢白雲斎。佐助のあまりに純な性格からして、一国一城の主になる器量はないと見抜いた白雲斎は、清廉潔白な名将・真田幸村に仕えることを薦める。登場するのは、猿飛佐助の他、佐助のライバル・霧隠才蔵、石川五右衛門の息子・三好清海入道、柳生石舟斎の次男・柳生新三郎。武田信玄、上杉謙信を殺し、明智光秀に織田信長を殺させた男・百々地三太夫。その他、謎の男・豊臣小太郎、巨漢・岩見重太郎、そして「江」(今年のNHKの大河ドラマ)の姉で秀吉の側室の淀君が登場する。このメンバーだけでもワクワクするが、柴錬の筆により面白さ倍増だ。多分高校生の頃に買った本で、全体にうす茶色くなってページの周辺は特に茶色になったが、今読んでも面白い。本を読むことが好きになった一冊だ。柴錬立川文庫の2冊目、『真田幸村』も読んでみたくなった。 |
〓 | 今東光の友人でもあった、柴田錬三郎。ご存知『眠狂四郎』の産みの親、シバレンだ。戦地で体験した船の沈没。大海原に浮かんで救助を待つ時に浮かんだ虚無の思想。それ故に体力を消耗させることなく、生き延びることができたという。それをシバレンは<レールモントフやメリメやリダランが、私の生命を支えてくれた…>という。けっして優等生ではないシバレンの、学生時代から作家生活。口は「へ」の字に曲がっているが、その中身は単なる虚無思想ではなかったのだ。 |
〓 | <そしてわたしは、『論語』をもっともキズがないものだと思ったから、『論語』の教訓を目安として、一生商売をやってみようと決心した。それは明治六(1873)年の五月のことであった>。渋沢栄一、33歳の時である。尊敬する徳川家康の言葉もまた論語からの引用が多いという。道徳を重んじ、商売での金儲けだけに走らず、数々の会社の設立に関わり、「日本資本主義の父」と称せられた。自分を磨くことを最も大事なこととしていた渋沢は、実業家として成功を収めるも、執着はなかったのかもしれない。そして、<成功や失敗などはとはレベルの違う、価値のある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである>という境地に至った。孔子は、キリストと違って、奇跡がないから良い。というのも実業家らしくて面白い。 |
〓 | クレオパトラからマクダ・ゲッベルス(ヒットラーの腹心ゲッベルス博士夫人)まで、世界の12人の悪女の紹介。多くが権力の近くにおり、権力者の妻、母、または自分が権力者になる為、殺しなんてあたり前って感じである。時代背景が違うからというものの、現代でも似たようなことはありそうだ。さて、世界一の悪女は?12人の中では、近くに寄るもの皆殺しの則天武后と思う。一番狂ってるのは、自らの美貌を保つ為600人の若い娘を殺したエルザベエト・バートリであると思う。残念ながら(?)12人の中に日本人は入っていない。 |
〓 | マリー・アントワネットからビーナスまで24人の女たちのエピソード。気性の荒い女性が多い中で、キラリ光るのが和泉式部。<ひたすら女らしい女で、情熱的で、奔放で、多情で、艶冶で、しかも哀愁あり、憂いありで、まことに現代的なムードをただよわせた、華やかな自由恋愛のチャンピオンと称するにふさわしい女性であった>。もう褒めまくり。う〜ん、会ってみたい。そして、アフロディーテという別名をもつヴィーナス。これは女神。著者のしめの言葉も見事。<女性の愛は、処女と娼婦、この二つの極のあいだで揺れ動くものであり、一方、女性を眺める男性も、この二つの両極端に、ひとしく魅惑されるものらしいからである>。1話が短いので、読みやすいが少々もの足らなさもある。次は『世界悪女物語』だ。 |
〓 | 怪しいのは、ポーやゲーテ、カフカ、サド、ニーチェ等の西洋人だけではない。日本人も十分怪しい。著者自身があとがきで、<…それまでもっぱらヨーロッパに向けられていた私の目が、この作品とともに日本にも向けられるようになった>という。コイツらである。…三島由紀夫、柳田國男、泉鏡花、平田篤胤、上田秋成、石川淳、南方熊楠、兼好法師、森鴎外、花田清輝、幸田露伴、谷崎潤一郎、永井荷風、安藤昌益、西行、川端康成、中島敦。怪しいヤツラばかりだ。そして『今昔物語』、『御伽草紙』等、日本の古典多数。もちろんヨーロッパの怪しいヤツらも登場する。内容は、目が覚めたら夢だった。ネクロフィリア(死体愛好)。器物の妖怪(付喪神)。石化の夢。オナニズム。人造人間。現実に飛べない人間が夢の中で飛ぶ話。長い旅路の果ては自分自身であった話。頭を大地に突っ込んで、生殖器を上のほうに露出する植物の性愛の話など。西洋と東洋の怪しい世界への入門書。 |
〓 | 第一章「幸福より、快楽を」の「そして人生には、目的なんかない」で始まる。はっきり言って好きである、おもろい。第五章「快楽主義の巨人たち」カサノヴァについて<…「男である以上、ゲーテ、ミケランジェロ、バルザックなどよりも、むしろカサノヴァになりたいと思うのは当然だろう」とはツヴァイクの言葉>、食については中国人が凄い<…中国人こそは、この地球上における唯一の、しかも真の偏食動物なのだ。われわれはこの歯のつづくかぎり、この地位を他国民にはゆずるまい。…>。その他第四章「性的快楽の研究」、第六章「あなたも、快楽主義者になれる」。おきまりの幸福やレジャーではない、もっといきいきとした、ピチピチの快楽を手にいれるのだ。 |
〓 | 今まで漫才でおもろいと思ったのは、初代Wヤング(平川幸雄と中田治雄)とダウンタウンだ。爆笑問題もおもろいが、漫才を見たことはあまりない。本書は「笑い」を人生の一部とする島田紳助と「笑い」を追求することが人生である松本人志のかけあいエッセイ。松本人志が島田紳助の漫才に影響されたというのは意外であった。スタイルが全然違うから。松本曰く、色気のようなものを感じたということだ。方や紳助は、B&Bの洋七に影響を受けるも、個性というものにかける、と思ったそうだ。松本人志について、島田紳助がどう語るかが、本書の読みどころだ。特に「さんま」との比較は面白い。松本人身は、<さんまは指揮者で、自分は演奏家>と位置づけた。演奏家としては、分析・評価の大御所、島田紳助に評価されることが一番うれしいに違いない。 |
〓 | <私は音楽の趣味においては十一歳の頃から差別主義社者であり、教養主義者であった>という著者は、クラシック音楽に傾倒し、<今はオペラにかぶれている>という。<父は九州の没落した地主の次男で、放浪癖があった>というが、本人もまた旅好きで、海外生活の経験も多い。それらの生の知識には感心させられるが、少々イヤミだ。一言でいうと、早熟である。私より年下とは思えない。エッセイ集であるが、相当な正統派の?教養の持ち主であることがわかる。だからこそ早熟→退廃という式が当てはまる。生臭さがなく、インテリの酒飲みの遊び人。もう残された道は退廃しかない。このエッセイで紹介されているフィガロは注目したい男だ。 |
〓 | 志村けんは常識人であった。約束の時間は守る。礼儀をわきまえる。準備を怠りない。そして職人であった。マネの効用として、<徹底的にマネてマネて、それでもマネしきれないところに、たぶん自分だけの「オリジナルなもの」が、おぼろげながら見えてくる>。酒とタバコと女が彼の三種の神器であった。<酒と女という二大要素がくっついたときは要注意だ。…何倍ものパワーになってサイフを直撃するからたまったもんじゃない>。<困った時は原点に帰る>。もったいないと思って、なんとか立て直そうとすると逆にドツボのはまる。というのは、覚えておきたい。誰もが知る「変なおじさん」、「バカ殿様」。まんねりのスタンダードをつくった。そして大いに遊んだ。 |
〓 | 家族という人間関係だからこそ、難しいことがある。距離が近すぎることでの摩擦は起きるし、甘えもある。家族といえども少し距離を置くほうがいい。心配をかけたくない、ということで親は子供のことを、子供は親のことを実はよくわかっていない、というのが本当のところかもしれない。父の思いも、母の好みも、彼らが弱ってくるまでは、知らんかった。家族であっても、そうでなくても、わかりあえることができたならば、それは幸せであろうと思う。家族というものは自慢したり、期待したりするものではない。一番近くにいて、思いやることができる存在なんやろうな。 |
〓 | 旅に出たのではありません。牢から脱出しました。 |
〓 | 早くも今年度No.1の声が、と書いた帯になっているのもある。15才の少年と31才のハンナ。市電の車掌をしているハンナは本を朗読してもらいたがった。朗読し、シャワーを浴び、そして愛しあう日々を送っていたが、突如として彼女は出ていく。その後、法律の勉強をしていたぼくが彼女に再会したのは、法廷であった。そこで、彼女の過去が明らかになるのだが、ぼくは、彼女の別の秘密に気付くことになる。何故、朗読してもらいたがったのか、何故メモ書きを残して、出かけた時にあんなに怒ったのか。彼女にとって、それを隠すことが何よりも優先されていた。こういう人は現代の日本ではなかなか珍しいと思うが、それだけにドキリとさせられる。獄中から来た彼女の手紙は感動的だ。 |
〓 | 昔愛読していた今東光の『極道辻説法』に、このジャン・ジュネ『泥棒日記』の話題が出てくる。それで買ったのかどうか忘れたが、ながい間積読本になっていた。(『百年の孤独』を探していて見つけたのであった)。『極道辻説法』では20歳の若者の相談で、この『泥棒日記』は<ホモの犯罪者の醜い生きざま>という感想を持ち、和尚に意見を求めた。対して今東光は<もっと深く、彼の育ったフランスの社会情勢や風俗をくわしく勉強して、てめえでも人生のいろんなことを経験してから『泥棒日記』をもう一度読み返してみることだ>との回答であった。男娼と盗みの世界、そこから脱出しようというのではなく、進んでその状況に身を置き続けている。そしてその状況で、聖なることとして解釈しようとしている。「1910年にパリ6区に生まれた。生後7か月で母に捨てられ、15歳で感化院に送られ、18歳の時外国人部隊に入隊するが脱走してフランスを離れ、ヨーロッパを放浪」とWikipediaにある。犯罪や、性愛の話が続くが、けっして嫌な感じはしない。肉体に関する表現も比喩的で詩的だ。犯罪者として刑務所を出たり入ったりのの人生であるが、作家としての才能を開花させ、コクトーやサルトルらに認めさせた。読んで面白さがあり、世界中で翻訳されている。作家としては大成功であるのは間違いない。 |
〓 | 国民的女優ムン・スンは、カ司令官の妻であったが、親愛なる指導者キム・ジョンイルの寵愛を受けていた。パク・ジュンドは、カ司令官を採鉱収容所のトンネルの中で殺害し、彼の妻であったムン・スンを手に入れ、親愛なる指導者とも親しくなった。この物語のラストは、パク・ジュンドがムン・スンとその子供たちを親愛なる指導者の目の前でアメリカに亡命させることに成功する。この後捕えられ、激しい尋問を受ける場面とムン・スンを逃がした場面が交互に語られる。最後にパク・ジュンドは命を落とすのであるが、尋問官もパクを認めていた。、フラッシュバック的にパク・ジュンドがそれまでの経緯を語りだすというわけだ。物語の合間にプロパガンダ演説が挿入されているという手の込んだ構成だ。収容所を脱出する時に、蛾を食べたり、大根を引き抜いたり、池のマスを捕って食べたりとか場面は強烈だ。しかし、なんと言っても一番強烈なのは、尋問の旧組織での釘を使った脳の手術の場面だ。独裁国家の強烈な統制の下、多く人間が自由を求めている。自分は犠牲になりつつも、愛人を救ったという愛の物語でもある。 |
〓 | キム・ジョンイル政権下の北朝鮮。主人公のパク・ジュンドは、孤児院<長い明日>で育った。厳密には孤児ではなく、院長が父だ。母は歌手で平壌に送られた。14歳の時に軍隊に行き、対南浸透トンネルの兵士となり、暗闇戦闘術の訓練を受けた。その後日本人を拉致する部隊に加わる。仲間のキルは亡命しようとしたが、連れ戻した。語学学校に入り、英語を学ぶ。その後漁船に乗り、無線により情報収集の任務にあたる。漁船の仲間は胸に妻の入れ墨をしているが、ジュンドは未婚なので、船長は彼に女優ムン・スンの入れ墨を施した。ムン・スンの夫は、伝説の軍人・カ司令官であった。仲間の二等航海士は亡命を企てたが、阻止できなかった。彼はサメにやられたと嘘をつき、自身の体にも、サメの傷をつけた。下船後、英雄となった。二等航海士の妻に世話になり、その後アメリカ行きに加わる。テキサスでアメリカの諜報員・ワンダと親密になる。情報がワンダ届く、カメラを渡される。帰国後ジュンドは最悪の仕事も手伝いをさせられる。そこの老婆モンナンと脱出をする。胸の入れ墨がムン・スンであることにより、ジュンドは尋問管たちに、伝説の軍人・カ司令官に間違えられる。 |
〓 | インターネットで話題になった「生協の白石さん」が本になって、それをインターネットに乗せるというのもぐるぐる回っとるわけで。生協の白石さんが「ひとことカード」なるものに回答している内容が味わい深い。無理難題をさらりとかわして商品の宣伝にスリ変える辺りは只者ではない。目線が同じで、共に泣き笑いしようという態度が人気の秘訣なんやろな。 |
〓 | <孔子は孤児であった。父母の名も知れず、母はおそらく巫女であろう>と白川静は言う。そしてその一生の最も働きざかりの時を亡命と漂泊で過ごし、孔子自ら<東西南北の人>と言った。当時の社会においては反体制であった孔子も、彼に先立つ周王朝を理想としていた。思想家は昔を想う、ということらしい。白川静は孔子の思想を、ノモス的社会に対するものとしている。このノモス的社会というのは、集団の為のものであり、管理者の為の集団の規則がある。孔子は「個としてどう生きるか」に重点をおき、「仁」を説いた。著者はまた、その反ノモス的思想の継承者として荘子をあげている。『荘子』の文章に関しては、<思想的文章としてほとんど空前にして絶後である。その文は、稷下諸学士の精緻な理論を駆使し、奔放にして博大を極めた修辞を以て、超越者の自在な精神的世界を表現した>と凄いほめようである。そして、そのどちらも社会的成功者にはなることのない、敗北の思想という言い方をする。社会の為ではなく、個の為に生きる思想だ。個と社会というのは、どちか一方をとれば、どちらかが得られないものなのか、あるいは、テキトーにバランスをとるしかないのか。孔子が理想とした周王朝の社会は、どんなもんであったのかは非常に興味がある。それもただ、昔のことは良く思えるだけかもしれんが。 |
〓 | 再読。世俗的成功は収めなかった孔子であるが、それがよかったのだ、と著者はいう。国外追放で放浪したことにより、常に理想を目指せた、と。まなじ社会的に成功してしまうと、自己研鑽を怠ることもある。社会的に敗北したからこそ、目的は世俗的な成功ではない、と再認識できる、とも言える。逆に、理想を目指すものは、自ら放浪の旅へと出ていくべきなのかもしれない。敗北の思想であっても、いや、敗北の思想であったからこそ、2000年の時を超えて生きているのだ。そう、孔子こそ、世界最古のバガボンドであったのだ。(2001.10.11.再読) |
〓 | <わが国の方が漢字の使い方は正確で、幅が広い(笑)。中国の人以上ですよ>と著者は言う。<中国人は音で読んでしまうから、訳がわかってもわからなくても通過してしまう。(日本人は訓をつけて読んでおり)わが国ではわからん限り絶対に読めない>ということだ。漢字研究の第一人者である。漢字の字書(辞書ではない)、『字統』、『字訓』、『字通』などを著した。エジプトの「ヒエログリフ」から文字の発生、漢字の成り立ち、そして日本における漢字および文字の使われかたなどが、対談の形式で語られるので解りやすい。現在の漢字の字数制限に異を唱える著者であるが、逆によくぞここまで残してくれた、とも言う。戦争に負けて、進駐軍が要求した第1案は、ローマナイズせよ。であった。そして第2案が、仮名書きにせよ。第3案が、必要な範囲の若干の漢字を残す。ということで、結局第3案で進駐軍と合意したらしい(ベトナムはフランスの植民地時代にローマナイズしてしまった)。ローマ字だけになっていたとしたら。。。。どうなっていたであろう。日本および東洋を知る為の入門書として。お薦めです。 |
〓 | 副題が『社員を「やる気」にさせる20のシンプルしかけ』である。面白いのは、会議に出てはいけない上司、ってことで次の4つを挙げている。1.後ろ向きな上司。2.自分を天才だと思っている上司。3.人の意見を聞かない上司。4.なんでも一番でないと気がすまない上司。この上司のことを「ぼけた凡人」のことで「ぼけぼん」という。また「なんで〜、なの?」とは言ってはいけない。ということは欽ちゃんは上司に向かん。階段を一歩進ませる要素がいっぱい詰った本じゃ。 |
〓 | 1902年に神戸の貿易商の息子として生まれ、ケンブリッジ大学へ入学、帰国後新聞記者、商社マン、そして日本水産の取締役になる。商談でイギリスに行くことも多く、当時イギリス大使であった吉田茂と懇意になる。第2次世界大戦の翌年、一線を退いて農業にいそしむようになる。敗戦後は吉田首相に乞われて、側近として活躍した。吉田首相とともにサンフランシスコ講和会議にも出席し、連合軍から与えられた日本国憲法の和訳も手伝っている。天皇の「象徴」というのは、白洲が辞書で調べた「シンボル」の和訳ということだ。占領下にあった時に、アメリカ人に対しても物おじしなかった。西洋人と日本人の違いも良くわかり、<残念ながら我々日本人の日常はプリンシプル不在の言動の連続であるように思われる>と嘆くのも、若いころにイギリスで過ごしたことや、商社マンとして西洋人と交渉していたことが大きく影響していると思う。白Tシャツとジーパンの姿や、80歳までポルシェを乗り回す伊達男のイメージが強いが、本当のかっこ良さは、相手に媚びず、感情論に傾くのではなくプリンシプル(原則)を大事にした言動である。 |
〓 | 攻殻機動隊1、2はけっこうぶっ飛んだ話であったが、この1.5は公安9課の日常を描いたそうだ。荒巻部長、バトー、トグサ、サイトーらが活躍する。草薙素子は登場は少なく、自ら「クロマ」と名乗っている。悪(政治犯)と戦う公安9課というのは変わらない。日常と言っても、未来の日常であり、遠隔操作される人間や、他のサイボーグ人間が見ているものを同時に見ていたり、素子(クロマ)は体がボロボロにヤラレても、他人を脳ジャックして動き回ったりしているので、未来感は充分ある。本書の半分は、テレビシリーズ用のシナリオ、タチコマの設定、荒巻部長や草薙素子、フチコマのゲームソフト用の絵コンテ&キャラクター設定、カラーカットや告知イラストが掲載されている。原作者のテレビシリーズに対する感想(ボヤキ)は興味深い。 |
〓 | 主人公の草薙素子が他の知的生命体と融合し、公安9課から離れて4年5ヶ月弱後の出来事。荒巻素子と名乗り、デコットと呼ばれる荒巻素子の分身ロボットがいろんな場所で活躍する。ラストはデカントケイルと呼ばれるスーパーコンピューターの中に入っていく。元の?自分自身、草薙素子とも遭遇。そして高度知的生命体へとステップアップしていったのかな??2001年に発行された。素子の裸の絵の多さに圧倒させられる。 |
〓 | 1991年に発行された近未来漫画で、2017年にハリウッドで映画化もされた。世の中にはロボットが溢れかえり、AIを使った全身義体のロボットから、主人公の草薙素子のように、脳以外の全身が義体の者もいる。また脳はネットワークにつながり、他人の脳に潜入することができる。草薙素子はめちゃめちゃ強く、荒巻が率いる公安9課とともに国際的な悪と戦う。ラストは主人公が他の知的生命体と融合するというとてつもないものだ。本書の中でも主人公は<ロボットの人類消去計画に手を貸す事にならないって保障ある?>と憂うが、著者はそんなロボットは<低知能の変種>と呼んで、そういうイメージは論理的ではないとしている。義体化とAIロボット、そいてネットワークが発達した未来のこの物語は非常に興味深い。以前に読んだ『サピエンス全史』の人類の未来よりも救いはありそう。 |
〓 | 元ネタは、2017年に積水ハウスが地面師グループに土地の代金55億5千万円を騙し取られた事件。この詐欺グループとしてそれぞれ役割があるが、土地所有者になりすます奴が結構キモになる。毎回土地所有者本人に似た奴を探してきて、なりすまし役として教育するので、基本的にグループ仲間ではない。途中でくじけたりする場合もある。この物語でもなりすまし役を巡ってのドタバタがある。そして何と言っても、黒幕のハリソン山中が強烈な個性を放つ。こいつは鬼畜だ。 |
〓 | 「ラッセル」というのは、ラッセル車のように深い雪をかき分けて進むことらしい。ちなみにラッセル車のラッセルは人の名前から取ったらしい。「ビバーグ」っちゅうのは、露営することらしい。やたらとこの2つの言葉が出てくる。主人公は以前に雪の中、途中でビバーグしたので友を失った、という思いが消えず、今回はラッセルしながら進むのであった。単純明快な冒険物語。主人公も体育会系思考で突き進む。シンプルな思考でないと、こういう自然(雪山)には立ち向かうことはできんやろな。ヒーローは死なんから、頑張れるのだ。 |