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■ 海堂尊  ジーン・ワルツ  新潮社

  今回の主人公は、桜宮市の東城大学病院を卒業し、東京の帝華大学医学部産婦人科学教室に在籍しているの曾根崎理恵。「マリアクリニック」病院の非常勤の医者でもあり、不妊治療(セックスなしで妊娠させる医療行為)のスペシャリストである。この「マリアクリニック」に5人の妊婦が通っている。それぞれが訳ありだ。堕胎希望、帝王切開、人工授精、代理母等。問題はそれだけではない。生まれてすぐに死ぬ脳のない子、手足のない子等、DNAの受け渡しが少し間違うこともあるのだ。この本を読むと、通常出産で、五体満足に生まれてくる事がいかに奇跡的な事であるのかがよくわかる。だからこそ無事生まれてきた事に感謝の気持ちがわくんだろう。妊娠2ヶ月までの胎児の生殺与奪権は母親にある事も本書で知った。


■ 海堂尊  ブラックペアン1988  講談社

  『チームバチスタの栄光』に始まるこのシリーズ、今回もなかなかいいぞ。1988年まで遡り、『チームバチスタ…』での病院長・高階は、新兵器を持ち込んだ講師として登場。まるで『ゴッドファーザーPARTU』てな趣だ。あの田口公平や、『ジェネラル・ルージュの凱旋』の速水なんてのも学生としてチョイ役でしかない。藤原さんはバリバリの看護婦長やし、昼寝の猫田や初々しい花房も登場する。まぁうまいこと話をころがして、絡ませていきよるなあ。でもこの物語、単独でも面白い。主人公は駆け出しの外科医・世良雅志。そして外科のトップ・佐伯教授。腕の立つ気障な野郎・渡海征司郎。一番アカデミックで前衛的な高階権太が活躍する。何故ブラックなペアンなのか。迫力のあるラストだ。老獪な佐伯教授、実はなかなかいい奴であったのだ。


■ 海堂尊  螺鈿迷宮  角川書店

  看護師が師長になるために経験しなければならない4つの節目。「それは、生・老・病・死の看護を経験すること」と猫田看護師は言った。<…死者にまで看護の領域が拡張されなければ、真の医療に到達できないの>(『ジェネラル・ルージュの凱旋』)。死を司る病院、終末期医療に独自のやり方を確立しているかに見える桜宮病院。病院長には銀獅子と呼ばれる桜宮巌雄が君臨する。『チーム・バチスタの栄光』に始まるこのシリーズ。だんだん面白くなってきた。今回は東城大学病院に立ち向かう碧翠院桜宮病院が舞台となる。主人公は落ちこぼれ医学生の天馬大吉と、幼馴染で時風新報という新聞社に勤める別宮葉子だ。桜宮巌雄と白鳥圭輔との対決も中身は深く濃い。白鳥のいつもよりちょっと真面目ぶりも見物。部下の氷姫も大活躍。


■ 海堂尊  ジェネラル・ルージュの凱旋  宝島社

  『チーム・バチスタの栄光』、『ナイチンゲールの沈黙』に続く第3弾。これが一番わかりやすく、落ち着いて読めた。2作目とほとんど同時進行に起こった物語として綴られるが、順番に読んだ方が話は分かりやすい。今回の主人公は救命救急センター部長の速水晃一だ。業者との癒着が問題とされる。病院内の倫理問題審査会(エシックス・コミティ)での委員長・沼田とのやりとり、その後の大学の同級生であった田口公平率いるリスクマネジメント委員会でのやりとりは面白い。またジェネラル・ルージュと呼ばれる所以もなかなかいい。白鳥圭一も要所で活躍するぞ。


■ 海堂尊  ナイチンゲールの沈黙  宝島社

 前作の『チーム・バチスタの栄光』に登場した特異キャラの白鳥圭輔に加えて、負けず劣らすのキャラが登場する。警察庁の加納警視正だ。彼はビデオカメラを用いて現場を撮影し、そこか飛び散った血痕の位置や被害者の身体に受けた損傷の角度などから犯人の身体の大きさやなんやかやを導き出すという凄い技の持ち主だ。白鳥の同級生との設定で掛け合いが見所。物語は看護師の浜田小夜、14才で網膜芽腫(レティノプラストーマ)患者の牧原瑞人が中心となり進む。小夜の歌声がポイントとなる。主人公というべき田口公平は、今回は静かにサポートする役となる。田口が思い出す高階病院長の言葉、<ルールは破られるためにあり、それが赦されるのは、未来によりよい状態を返せるという確信を、個人の責任で引き受ける時だ>は、なかなかいける。


■ 海堂尊  チーム・バチスタの栄光  宝島社

 バチスタとは、心臓移植の代替手術である。心筋の一部を切り取り縮小縫合し、心臓の収縮機能を回復させる、というものだ。その手術で術死が続いた。その原因を調べる為に白羽の矢がたったのが、出世をあきらめ、患者の愚痴を聞く業務に就いていた田口公平だ。手術を行うのはエリートの桐生恭一。チーム・バチスタのリーダーである。田口による聞き込み調査と手術の立会いで暗礁に乗り上げた時に登場するのが、厚生労働省大臣官房秘書課付技官の白鳥圭輔だ。この男が来てから一気にハイテンションになる。ものおじしない特異なキャラ。一見ムチャクチャな様で筋が通っている、ロジカル・モンスターであったのだ。田口との息もピッタリだ。このコンビの強引でコミカルなテンポで一気に読ませる。非常に面白かった。第4回の「このミステリーがすごい!」大賞の大賞受賞作。著者は現役のお医者さんであるそうな。


■ 貝原益軒  養生訓  中公文庫

 飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲を慎むこと。


■ カイヨワ・ロジェ  反対称  思索社

 知的探求において、既成の学問分野のような枠は必要ない。カイヨワは諸学問の領域にとどまらず、最も離れていると思われるところからの対話【対角線の科学】をもって、宇宙を解明しようとした。<反対称とは、平衡あるいは対称の破壊された後の状態をさす。>


■ かじやますみこ  健康寿命は靴で決まる  文春新書

 自分に合う靴を見つけるは難しい。特にローファーの革靴。皮なのでそのうち伸びるからと、きつめを選ぶとなかなか馴染まず、履かなくなってしうことが多い。大き目の靴でゆるく履いていると、靴のなかで足が前にすべり、指先が靴に当って指を痛めることもある。本書の中でも「幅の広い靴が楽で良い」というのを鵜呑みにしてはいけないと言っている。履いてすぐに楽なのにも注意。ちゃんと測るを意外と足回りは細いことが多いそうである。靴はぶかぶかはダメで、足との一体感があるということが大事。先ずはかかとの形状が合っているかどうか。足の太さと靴が合っているかどうか。そして足の甲の部分が抑えられて、足が前にすべらないこと。爪先立ちでかかとが浮かないこと。履きなれていって解消できそうなことの見極めが難しい。カッコ良くって、一体感があって、これを履いて歩きたいと思う靴に巡り合いたい。


■ 角田光代  八日目の蝉  中公文庫

 人間やっぱり、飯食ってなんぼのもんじゃ。ほんでもって子供にはしっかり食わせるのが、何よりも大事。わが子となるとそりゃあもう、飯の心配ばかり。ああ、ごちそうさん。NHKのドラマ10でこの『八日目の蝉』を見た。主演は壇レイと北乃きいだった。別れの最後の言葉に心を打たれた。映画の『八日目の蝉』も観た。主演は永作博美と井上真央だった。そして原作を読んだ。それぞれ微妙に話を変えているが、母親の心配するところは同じ。そんなことをいつも気にしている。その瞬間は本当の母親だ。なんかいいよね。


■ 勝間和代  起きていることはすべて正しい  ダイヤモンド社

 初めての勝間本だ。サブタイトルが「運を戦略的につかむ勝間式4つの技術」。先ずは、体を鍛えるのと同じように、メンタルの筋力をつけることが大事であるという。そのトレーニング法として本書があるという。<メンタル筋力>とはなかなかいい言葉だ。鍛えれば強くなる、ことがイメージ出来る。こういう言葉の置換えが大事だ。タイトルの<起きていることはすべて正しい>というのも使える。読んでみて、勝間さん自身が読んだ本を、自分のものとして咀嚼しているのがわかる。そして楽しいと思えることは<自分たちの能力が遺憾なく発揮され、その能力に対して周囲の人が感謝し、褒め称えてくれること>であると言っている。地位なんか追い求めるとろくな事にはならんと思う。結果を求め過ぎず、いいと思うことを少しずつでも丁寧に行う事が、その目標につながるんだと思う。その為の継続可能な技術論として読むといい本だ。


■ 桂三枝  桂三枝という生き方  ぴあ

 息の長い芸人というか、ず〜っとテレビに出続けている芸人の代表、桂三枝。誰にでもある程度ウケるネタをやる。決してマニア向けのネタはやらない。ということは、まあ、たいして面白くない、ということだ。これが秘訣。毒がない分、飽きが来ない。相手のよいところを引き出してやる、アントニオ猪木のような男だ。能ある鷹は爪を隠す。演者というより、企画者。演じてもこれほど嫌味のない男はほとんどいない。本人曰く、「アホになり切れない男」であるらしい。イチ、ニッ、サン、シー、ゴ苦労サン。ロク、ヒチ、ハッキリ、クッキリ、東芝さん。オヨヨ。


■ 加藤嘉一  北朝鮮スパーエリート達から日本人への伝言  講談社+α新書

  北朝鮮について認識を改にすべきことは、北朝鮮の国民は非常に貧しいこと。普通に働いても飯が食えない。そこで北朝鮮を脱出する人がいる。いわゆる脱北者と呼ばれる人だ。もちろん命がけだ。見つかれば死刑か、ロシア辺境での重労働が待っている。その脱北者が中国との国境近くに居る。中国と北朝鮮の関係も微妙だ。人道的には彼らを受け入れるようとするし、政治的には彼らを北朝鮮に送り返そうとする。国境周辺を歩いて取材した著者は、密輸に関係する人々と話をし、河を渡り脱北する少女を目撃する。また中国に留学している北朝鮮の学生たちは、危機感を強く持ち、自分の頭でしっかり考えていこうとしている姿を知る。金正日亡き後、金正恩がこれからどう国を開いていくのかは注目だ。やるかな?


■ 加藤嘉一  われ日本海の橋とならん  ダイヤモンド社

 中国で「一番有名な日本人」と呼ばれるのが、1984年生まれで今年で27歳になる加藤嘉一だ。最近日本のTVにも出ていて、先日「爆問学問」にも出演していた。単身北京大学に行き、「人民日報」と街角での実践で中国語を覚えた。英語は高校時代に満点近くまで取っていたというから、海外へ目を向けていたのは早い。中国のTVのインタビューを受けたのが切っ掛けで、次々と中国のマスコミに登場し、共産党幹部とも知り合い、さらに胡錦濤とも知り合うようになる。現在コラムニストであり、コメンテーターとして活躍している。確かに彼の中国人評はよくわかる。日本の閉塞感が嫌で日本を飛び出した著者であるが、海外に出れば逆に日本人であることの誇りを持つようになったという。その為にも海外へ出るべきだというのは説得力がある。元気がでる一冊だ。


■ 門井慶喜  家康、江戸を建てる  祥伝社文庫

 秀吉の命により、関東に飛ばされた徳川家康。そこは大湿地帯で、まともに生活できるようなところではなかった。ここで活躍するのが、職人たち。伊奈忠次は、その子、孫と3代に渡って、江戸を水浸しにしている元凶の利根川を東に曲げた。橋本庄三郎は、全国で通用する金の小判を作った。大久保藤五郎、そして内田六次郎は、江戸に飲み水を引いた。見えすき悟平、そして喜三太は、江戸城の石垣を積んだ。中井正清は、漆喰による真っ白な天守閣を建てた。彼らの活躍により江戸の町ができていく。水を引くときに上下に交差させという「水道橋」と地名の由来や、枡を用い、のこぎり歯のような形の水路とすることで、どこまでも水を引いていけること等、なるほどと感心した。まさに「地上の星たち」だ。天守作りの際の家康の考えと、天守など不要と考える2代目将軍・秀忠の意見のぶつかり合いも面白かった。


■ 金田武明  現代ゴルフの概念と実戦  廣済堂文庫

 ゴルフというスポーツは肉体的、物質的、物理的な要素よりも概念的な要素が進歩にとってより大切である。ジャック・ニクラス、ゲーリー・プレーヤー、ボビー・ジョーンズ、ベン・ホーガン等往年の名プレイヤーの言葉を元に解説していく。なかでもジャック・ニクラスの逸話はなかなか凄い。勝つ人間は、どんな時も勝つ姿勢を失わない。ニクラスはエキシビションマッチでかつ途中で負けが決まった後でも、残りのプレーをおろそかにすることがない。まるで勝者のようなパットをしたという。これが後々ののプレーにつながるのである。「最後に勝つのは俺なんだ」という気持ちをいつも持っているのだ。


■ カーネマン・ダニエル ファスト&スロー(下)  ハヤカワノンフィクション文庫

 カーネマン『ファスト&スロー』の下巻は、上巻のプロの直感はどこまで有用なのか?というところから始まる。プロの直感が信頼できるものである条件とは、スキル習得の際に<十分な予見可能な規則性を備えた環境であること><長期間にわたる訓練を通じてそうした規則性を学ぶ機会があること>としている。<質の高いフィードバック><練習し、実践する機会>だ。そしてそのスキルの限界を知ってないと、自信過剰の根拠の薄い判断をすることになる。その他、覚えておきたいことがいろいろ。ベストケース・シナリオで計画を立てがち。不都合な要因の過小評価する。対応策の1つは死亡前死因分析を行う。利益を得る場合は手堅くいきたいが、損失の場合はギャンブルをしてでも食い止めたい。損失回避の強い欲求。ゴルフのバーディーとボギーの違い。めったに起こらないことの過大評価。事故、災害の確率等。サンクコスト。フレームを広げると、合理的な決定を下せる。並列評価。参照点を変更して、問題をフレーミングし直す。<経験する自己>と<記憶する自己>の違い。焦点錯覚によるしあわせの感じ方等。


■ カーネマン・ダニエル ファスト&スロー(上)  ハヤカワノンフィクション文庫

 直感による速い思考と論理的にじっくり考える遅い思考の対比を軸に、意思決定にどういうバイアスが含まれているかを解説してくれる本。4日間のゴルフの試合。1日目スコアのいい選手は、2日目は悪くなる。1日目は調子の良さ、幸運などがあり、2日目は平均の法則から実力通りになったに過ぎない。面白くはないがこれが平均の法則であり、予測する時はその確率が高い。人生に成功したように見える人も、運よくそうなったにすぎない場合が多い。そこに何かを因果関係を求めたくなるのが人間の性か。難しい問題も、ヒューリスティックな考えのもと、簡単な問題に置き換えて、つじつまが合うとそれで満足する。全体を表す統計から個別を考えることが苦手。プロの直感よりもアルゴリズムの結果が正しい場合が多い。後半はプロの直感はどこまで有用化なのか話が続く。


■ カフカ 変身/掟の前で 他2篇  光文社古典新訳文庫

 『変身』。ある日起きると虫になっていた、グレゴール・ザムザ。虫になった後も、献身的に兄の世話をしていた妹であったが、さすがに疲れた。虫になる前は兄が一家を支えてくれていたいのに、虫になったからは、父と母、妹で生活費を稼いでいたのだ。そしてついに妹は、父と母に<この怪物の前じゃ、お兄さんの名前、口にしないことにする。だから、はっきり言うけど、お払い箱にしなきゃ。わたしたち人間としてできることはやってきたでしょ>と言った。グレゴール自身も消えなければならないと思いつつ、衰弱死してしまう。残った父、母、娘はグレゴールが選んで住んでいた、その家を出て行った。その様子は前向きで明るいものであった。 『掟の前で』。<掟の前に門番が立っていた>。田舎から出てきた男は、掟の中に入ろうとするが、門番に入れてもらえない。男はついに命が尽きる前に門番に尋ねた。何故自分しかこの門に来ないのかと。門番は言った。<この入口はおまえ専用のだったからだ>。 『判決 ある物語 Fのために』。ゲオルグは、父の商売を引き継いで成功する。ロシアに逃げた友人に自分が婚約したことを手紙に書く。妻を失い、年老いた父はそんな息子を全く信用していない。<だから、よく聞け。これから判決をくだしてやる。おぼれて死ぬのだ!>と父に言われたゲオルグは、部屋から出て、橋の欄干を飛び越え川に落ちて行った。 『アカデミーで報告する』。人間になった猿がアカデミーで報告する。<どうして僕が人間になれたのか。かたくなに自分の生まれや若いころの記憶にこだわろうとしなかったからでしょう。自分にたいするあらゆるこだわりを捨てること。それこそが自分に課した至上命令だった>


■ カフカ 頭木弘樹 編訳  絶望名人カフカの人生論  新潮文庫

 カフカは1883年、プラハでユダヤ商人の息子として生まれた。大学で法律を学び、労働者障害保健教会に勤めながら、小説を書いた。34歳の時、喀血して退職。40歳の時、結核で亡くなった。本書は恋人や父に宛てた手紙や日記、メモ書きに対して、頭木さんが解説を加えたもの。内容はネガティブのオンパレード。自分の心の弱さに、親に、学校に、仕事に、夢に、結婚に、子供を作ることに、人づきあいに、真実に、食べることに、不眠に…、ほぼ全てのことに絶望する。しかし、病気になって、仕事や結婚などをしなくてもいいという理由ができ、気持ちは上向く。この気持ちはわかるなあ。死後、『変身』、『城』、『訴訟(審判)』等の作品で、20世紀最高の小説家とも評されているが、カフカ自身は常に絶望の中であった。そして、絶望をエネルギーとして小説を書いたが、小説の出来に満足できず、全て焼き捨てるように言い残す。だが、友人ブロートはその遺言を守らなかった。本を読むことについて、カフカはこう言っている。<必要な本とは、このうえなく苦しくつらい不幸のように、自分より愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない>


■ カポーティ・トルーマン  ティファニーで朝食を  新潮文庫

 表題作の『ティファニーで朝食を』。オードリー・ヘップバーンの映画もちゃんと見てないが、なんとなくオシャレな話かなと思っていたら、そうではなかった。主人公のホリー・ゴライトリーは奔放と言うか、波瀾万丈と言うか、孤独と言うか、つっぱってると言うか、戦ってるなあという感じがする。後悔もするが、自分で切り開いている。強くあろうとする女だ。そこがいい。『花盛りの家』のオティリーも戦うぞ。売れっ子の娼婦であったが、花盛りの家に嫁に行く。だがそこの姑にいやがらせをされるが怯まずに戦う。娼婦の仲間が連れ戻そうとするが思いとどまる。『ダイヤモンドのギター』。囚人農場にキラキラにデコされたギターを持った新人がやってきた。一目おかれた囚人シェーファーと共に脱走を試みる。だがシェーファーは途中で倒れ置いてきぼりになる。『クリスマスの思い出』。20年以上も前、当時7歳であった僕と親友であった60過ぎのいとこのおばさんの友情物語。2人でフルーツケーキを作り、クリスマスツリーを切り倒してきて飾った思い出話。子供のような彼女がかわいらしい。


■ 上温湯隆  サハラに死す  時事通信社

 猿岩石と違うところ…この人は途中で死にました。


■ 上温湯隆  サハラに賭けた青春  時事通信社

■ 唐沢俊一  トンデモ美少年の世界  光文社文庫

 シャーロック・ホームズ&ワトソン、バットマン&ロビン、俳優のクリストファー・リー&ピーター・カッシングなどの怪しい関係の話から始まり、三島由紀夫&澁澤龍彦、はては近代哲学の巨人ウィトゲンシュタインまで登場する。この辺りは同性愛という感じだが、美少年、耽美、となると、男女かわりなく、興味の対象となってくるようである。雑誌『JUNE』なども女子高生にけっこう人気があるらしい。『根南志具佐』は平賀源内作で、著者が超訳したという女形同士の捨て身の愛の話。著者は昭和33年生まれで、私と同い年であるが、『カルトに走る子供たち』の中で、昭和30年代生まれについてこう言う。<中途半端な世代であり、…世代の共通体験というものがない。…戦争も知らなければ、飢餓の記憶もない。…思想闘争すらわれわれに無縁である。挫折さえ知らない世代なのだ>。まったくその通りである。そして共通体験と言えば、著者の言うようにテレビなのだ。


■ 唐沢寿明  ふたり  幻冬舎文庫

 ブルース・リーに憧れる男は多い。あのオリックスのイチロー。ホームランを打った後、ホームベースに戻ってきたときにするお辞儀の仕方はブルース・リーを真似しているそうだ。唐沢寿明もそうであったらしい。5、6歳の頃映画館で見て、俳優になりたいと思ったそうだ。高校を中退した時には<身震いするほど嬉しかった>らしい。けっこう爽やか路線で売っていたが、実は○○××な男であることがわかる。その他、山口智子との出会いから結婚に至るまでなどを語る。嫌味なく、けっこうええ男や。本名、唐沢潔。1963年東京生まれ。


■ カリンティ・フェレンツ  エペペ  恒文社

 再読。ヘルシンンキでの「国際言語学会」に出席しようと飛行機に乗り込んだ言語学者のブダイ。着いた所はとんでもない国?であった。とにかく人が多く、その群集に流れにのみこまれたまま到着したホテルで、まったく言葉が通じないことが判る。なんとかして言葉のわかる人と連絡をとりたい。そして一刻も早くここを脱出したい。物語の始まりである。いろんな標識や、レストランのメニュー、お札などを見て、書いてある文字の意味を探り出そうとする辺りは、さすが言語学者って感じである。しかし、預けたパスポートも返してもらえず、やがて持ち金はなくなり、ホテルも追い出され、日雇人夫にまじって働いたり、最後には乞食のような姿になってしまう。。。まさに不条理の世界。この状況をいかに切り抜けるか、まるごと一冊、その戦いが続く。その中で心暖まるのが、ホテルのエレベーターガールの女性、エペペとの交流。このエペペという名前も実際には、エペペなのかどうかはわからない。しゃべっている言葉が「エペペ」というように聞こえるのだ。コミュニケーション不可能な世界、正気を保つのでさえ大変だ。


■ カルヴィーノ・イタロ  レ・コスミコミケ  早川書房

 宇宙誕生と生命誕生に立ち会った老人のお話。その時の様子を克明に解説してくれる。時間も空間もなかった時、皆がただ一点にいたことをなつかしそうに話す。<もちろん、だれもかれも、みんなそこにいたとも…>宇宙大の大風呂敷におもわず納得させられてしまう。


■ 川上弘美  蛇を踏む  文春文庫

 川上弘美の「うそばなし」集。<「踏まれたらおしまいですね」…「踏まれたので仕方ありません」>と蛇は言って、人間になった。そしてヒワ子(主人公)の母親だと言いはる。ということは、踏まれなかったら、そのまま蛇やったのか。そんなことはない。絶対に踏んで欲しかったに違いない。というか、自らヒワ子の足の下に潜りこんだんではないか。ヒワ子もヒワ子だ。「ヘビを踏んでしまいました」なんて、なんか知らんけど、ちょっとうれしそうな感じがする。(『蛇を踏む』芥川賞受賞作)
 消えいく家族と縮んでいく家族。これと反対に増えていく家族と大きくなっていく家族やったら。詩的ではなくなる。。(『消える』)
 <「だって、曼陀羅、つまらないですよ」>。相手の苦労?を無視して、へらっと正直に言うところがいい。そんな命令口調で言われたら誰だって、か?(『惜夜記』)


■ 川上弘美  センセイの鞄  平凡社

 非常に心地良かった。じっくりと流れる時間。モノクロ映画を見ているようでもある。なつかしく、うれし悲しい。恋愛に大人も子供もないなあ、とも思った。袖すりあうも多生の縁。おおおこの身も駆けるよ駆ける〜。


■ 川島誠  800  角川文庫

 ぼやーっと読んでいて、なんか話がわかりにくいなあ、と思っていたら、主人公は2人いて、交互に語っていたのであった。それがわかってからは、すいすい読めて、なかなかおもろいんでやんの。2人の性格は陰と陽。陽の中沢は、女の子に軽口をたたくが、陰の広瀬の方が実際には、ふれあいが多かったりする。共通点は陸上の800m走者ということ。合宿での練習の夜、プールに忍び込むあたりは昔を思い出した。おきまりのパターンてな気もするが、青春してるって感じでいいんじゃないですか。にしても、陸上競技って男女一緒に試合をするってか。陸上やっときゃよかったかなあ。いや水泳かな。


■ 川西蘭  ボディ・コンシャス  ベネッセ

 ダイエットをテーマにした本で、主人公は拒食症に陥り、そこから立ち直る。痩せようと思ったきっかけについて、<自分を変えたいと思ったんです。今の私は本当の私じゃない>と主人公は言う。それに対して、野菜ジュースで健康を維持する方法について研究している老人は言う、<本当のあなたはいない、と思います。…あなたが言う本当のあなたになれたとしてもそれは一瞬にすぎない。次の瞬間には、あなたはもう本当のあなたではなくなっている>。逆に言えば、今の姿が本当のあなたである、ということ。結果、主人公は自分探しを止め、今の生きている自分に満足する。まあ、この主人公も拒食症で、死ぬような目にあったからこそ、生きたいという欲望が湧いてきたのだろう。人間は、ジタバタしなければ「青い鳥」は見つけられない、ということか?


■ 川西蘭  バリエーション  集英社文庫

 読後は、何故か肩凝りがとれたような感じになった。あんまり、恋愛小説なんて読む気はせんが、この本はOK。まあ著者と年齢も近いせいもあるんやろうけど、感覚的についていける。頑張らずに読める本。ええ感じ。著者は1960年広島県生まれ。


■ 川端康成  眠れる美女  新潮文庫

  男性機能を失った老人の癒し。裸で眠らされた若い娘とともに一夜を過ごす。眠らされた娘は絶対に眼を覚ますことはない。主人公の江口老人は、若い娘に触れて、過去の女性を思い出す。この秘密の遊びの最中に死んだ老人がいた。そして事を隠蔽する為に、死んだ老人は近くの温泉宿に運び込まれる。ある時、江口老人が2人の娘と添い寝した時、一人の娘が死ぬ(『眠れる美女』)。2作目の『片腕』。これは完全にSFだ。彼女の片腕を貸してもらう男。本当の彼女の肩から外した片腕なのだ。こういう小説も書くことに驚いた。3作目の『散りぬるを』は、娘のような存在だった女性2人が、寝ている時に襲われ、殺された過去を振り返る。その殺人犯人の??な調書を読み、彼の心の中に入っていく。3作とも面白く読めた。


■ 川端康成  雪国  新潮文庫

  『雪国』と言えば、吉幾三。ではなく川端康成だ。ノーベル文学賞受賞作のこの小説、冒頭の<国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。>というのはあまりにも有名。金持ちで遊んで暮らす男・島村と芸者・駒子の恋愛物語だ。駒子は師匠の息子の為に芸者にでているが、その男は死に瀕している。その看病をする葉子という女。2人ともその男を愛している訳ではない。島村にはそれらが「徒労」と感じる。報われないが、精一杯の生活する女たち。そして全く違う境遇の島村とが惹かれ合い、2人の女は牽制し合う。頬が赤く快活な駒子と声が綺麗で<刺すように美しい>葉子が、雪の国に映える。


  再読。新潮文庫のPREMIUM COVERの綺麗さに魅かれて買ってしまった。『雪国』にふさわしいライトブルー。島村は東京下町育ちで、文筆家の端くれで妻子持ち。1人旅の雪国で<不思議なくらい清潔>な駒子に出会う。島村は駒子に対しては、最初は言いしゃべり相手で、友情のようなものを感じたが、やがて2人は深く惹かれあっていく。そしてもう1人の女性、<悲しいほど美しい声>の葉子も気になる。島村と駒子が一緒の時に、時々現れる葉子。葉子と駒子は、病人の行男(駒子の師匠の息子)に対して、運命共同体のような知り合いであった。奔放な駒子と真剣な葉子。やがて行男も亡くなり、すっかり芸者になった駒子。東京へ連れて行ってくれと願う葉子。雪深い村と山並みの風景、温泉と芸者で日本を描写した小説。ラストは悲劇と天の川の雄大さと深遠さが相俟って心打たれる。 (2024.1.12)


■ 姜尚中  悩む力  集英社新書

 漱石のやれなかった事をやる、という文章をちらと見たので、何をやるのかと思いきや、「横着ものになる」ということであった。しかし、それは真面目に悩んだ末に横着になるということで、初めから横着者である訳ではない。夏目漱石の作品に触れながら、自分自身と現在の人間に共通する悩みを浮き上がらせる。何の為に働くのか、生きる力とは、というストレートな問いに真面目に答えている。著者の考える働く意味とは、「他人からの※アテンション」と「他人へのアテンション」であるという。(※アテンション:ねぎらいのまなざしを向けること)。また生きる力とは、他人との「相互承認」にある、と言っている。真面目な著者が非常にいい。


■ カント  純粋理性批判5  光文社古典新訳文庫

 ようやく5冊目を読了。4つの理念について二律背反の抗争を解説する。その1:世界は時間的な端緒をもち、空間にも限界がるかどうかの問題。その2:世界において、合成された実体はすべて単純な部分で構成されているかという問題。その3:自然法則に基づいた因果関係だけでなく、自由意志に基づいた因果関係もあるのかという問題。その4:世界にはその原因であるような絶対に必然的な存在者が存在するのかという問題。その1については、そのどちらも間違っているというと言う。時間と空間の絶対的な限界を知ることはできない。また、空間の外の空虚な空間は認識できないし、時間が始まる前の空虚な時間も認識できない。<すべての場所が宇宙にしか存在しないのだから、宇宙そのものは、いかなる場所にも存在しない>。(弁証論的対立で、矛盾対当的な対立ではない)。その2、<…物体は無限に分割できるのだが、だからといって物体が無限に多くの部分で構成されているということにはならない>、物体は現象であり、分割してゆくときには<この現象の性質にしたがって、経験的な背進を絶対に完結されたものとみなしてはならない>。その3の因果関係は自然法則によるものだけではなく、理性によって自由意志による因果関係の「原因」を作ることはでき、またその「結果」は現象としての自然法則と両立できる。その4の世界の原因となる絶対者については、考えることが強く促される問題であり、詳細は次巻で語られることになる。


■ カント  純粋理性批判4  光文社古典新訳文庫

 面白いのは真理について。<カントは真理とは、認識と対象が一致することではなく、人間が認識した像が経験的な規則にどこまでしたがっているか、そして認識された他の像とどこまで矛盾なく共存することができるかにあると考えているのである>。まさに<経験が真理の源泉である>ということだ。ということは、経験値が高まれば、真理も変わっていくことがある、ということか。またデカルトの二元論(心と体)には批判的で、考えるのも、体の器官を使い認識するからなので、考え、処理することと体という入力システムを分けること自体がおかしいとする。そもそも何も入力されなければ、何も考えることはない。


■ カント  純粋理性批判3  光文社古典新訳文庫

 やっと3巻目を読み終えた。デカルト、スピノザ、ライプニッツなどを例に挙げ、自らの哲学の優位性を語っているところは面白く読めた。カントはある意味、人間の能力の限界を示し、それ以上は語れないというところの線引きをしている、と感じた。語れないところは安易に語ってはいけない、と諌めているようだ。


■ カント  純粋理性批判2  光文社古典新訳文庫

 <知性とは、規則を与える能力である>。そして、自然の現象に規則を与えたのは人間だということである。<わたしたちが自然と名づけている現象には、秩序と規則正しさがそなわっているようにみえるが、それはわたしたちが自然のうちに持ち込んだものなのである>。ということ。変な感じもするが、考えてみたらあたりまえ、と思える。自然から本当はこうである、という訳はないし、人間がこうであろうと決めた事に他ならない。自然の中に真理があって、それを究明するというよりも、われわれがどれだけ詳細に、自然現象に規則を与えることができるか、というほうがいいのかもしれない。そして、誰もが同じ答えとなる客観性を持てるかどうかが鍵になる。


■ カント  純粋理性批判1  光文社古典新訳文庫

 この光文社の新訳で読み直し。先ずはアポリオリとアポステオリ。経験がなくてもわかることと経験によってわかること。本書ではその違いについて語る。時間と空間、これは経験がなくてもわかること。これが直観的にわかった上で、物事が認識できるからである、ということ。


■ カント  純粋理性批判(上)  岩波文庫

 やっと読み終わった。と言っても上巻だけであるが。しかもわからんとこは読み飛ばしまくり。読めたと思えるところは、この世には理性で説明が可能なことと不可能なことがある、ということだ。考えられることと、それが説明できることは別物だということだ。例えば、純粋な時間、純粋な空間というのがそうだ。対象があっての時間であり、空間であるのだ。時間とは対象の変化なのだ。あることが始まり、そして終わる。そこにはどれくらいの時間の長さがあるか、ということはわかる。そしてそれがどんなに長くても、始まりと終わりがあれば時間の制限ができるのだ。それがどんなに長くても、というところがミソだ。単に時間が無限だ、と言っているのではない。また、なにもない空間というのもないのだ。あるように思えることと、あることは違う。その辺りをカントはある意味、宙ぶらりんにさせている。というか、わかろうとすることを諌めている。説明することが不可能であるからだ。可能なことと不可能なことの見極めをしっかりしろ、と言っている、ようだ。成熟した考えとはこういうものか、とふと思った。わけわからんとこはバンバン飛ばしていったので、十分理解できていないとは思うが。とりあえずこの調子で、中巻、下巻を続けて読みます。




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