〓 | 読書の虫、コリン・ウィルソンがたどり着いた人生観。それは、精神の集中からくる悟りの境地。なんて言うとうさんくさいが、実はけっこうおおらかで、健康的なんである。見たままの世界から踏み出せずに、厭世的な態度や思想を語る作家を叩く。自らが世界の眺め方を変えることにより、世界は変わるのだ。この志向性を強調する。そしてそのことが、<人類の進化への新しいステップのとば口に立つことを可能にしてくれる>、と著者は言う。ー読書によって狂い、また読書によって救われるー。このHPを立ち上げた時に、いろいろな検索ページに載せた文だ。自分自身、同著者の『アウトサイダー』によって狂わされ、この『超読書体験』によって救われた思いもする。非常に健康的な人生観。素直に頷ける。 |
〓 | 同著者の処女作でもある『アウトサイダー』を読んだのが約20年前。その本を読んで以来、アウトサイダー的な態度に囚われている傾向にあった。この世には本当に意味あることはない。てな態度である。まぁこんなことも日常の忙しさがあれば考えないことであるのかもしれない。暇をもてあました贅沢病とも言える。しかし、その手の本は魅惑的であるだけに困ったもので、読むにつれ、むなしくもなっていくのである。そして、エネルギーの放出先が見つからず、刹那的な快楽を求めたりしていくんであろうな。この本は、そういう感じ持ったことがある人こそに薦めたい。アウトサイダーからの脱出か?コリン・ウィルソン自身の読書を通しての思想史とも言える。人生の先輩として、意見の聞くことのできる人だ。上巻の最後に出てくるディビット・リンゼイ『アルクトゥルスへの旅』、面白そうだ。 |
■ ウィルソン・コリン アウトサイダー 紀伊国屋書店
〓 | この本を読んでヘルマン・ヘッセを読みたくなった。2段組の一見読みにくそうな本であったが、一気に読んでしまった。社会のルールからはずれた者へのあこがれが、この本あたりから芽生えてきたようだ。 |
〓 | 著者の哲学論はおもしろい。<哲学の目的は、思想の論理的な浄化である。4.112>つまり、哲学とは思想ではない、ということ。思想がどこまで正確かってことを検証するものであるということ。<哲学は、放置しておけば、いわば曖昧模糊のままである思想を明瞭にし、それに明確な輪郭をあたえる義務を負う。4.112>。論理学により、物事を明確に示そうとした気持ちはよくわかる。現代の記号論理学から見ればかなり誤解が多いらしいのであるが。思想は、何事かを主張するものであるが、哲学は何も言わない。哲学は道徳や、人生いかに生きるべきか、なんていうもんではない。これこそ純粋な哲学であると思う。<哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる。4.115>。で次のような結論になる。<語りえぬものについては、沈黙しなければならない。6.54>。最後の「哲学の正しい方法」の中では次のように言う。<哲学の正しい方法とは本来…他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。…6.53>。後半の『哲学探究』の中では、言語についての探究となる。自分が言う言葉はどこまで正確だと言えるか、そして相手が理解するとはどういうことなのか、等々。ほとんどが問題の提出で、解答を示している訳ではない。疑いだしたらキリがないような事柄が多いが、その疑問はよくわかる。ヴィトゲンシュタインは思想のない(いい意味で)、純粋な哲学者である、と思う。 |
〓 | <文章は、正しいテンポで読むときにだけ、理解することができる。そういう場合がときおりある。わたしの文章は、すべて、ゆっくりと読まれるべきだ>。残念ながら、全て正しいテンポでは読めなかったが、ヴィトゲンシュタインの書いているこの断章はかなり正確であると思う。しかし、生産的ではない。生きる喜びなんてもんでもない。いろんな方向から光りを当て、その考えはちょっとおかしい、と言うだけである。思想なんてものはない。それだけ、無色透明である。『論理哲学論考』ではどうだろうか? |
〓 | フロストシリーズの1作目。クリスマスっていうことだったみたいで、読んでみた。お話はほとんど関係なく、クリスマスの6日前に終わる。そして、世間がクリスマスの時には、フロスト警部は病院で生死の境をうろつく事になる。去年の10月に『フロスト日和』(フロストシリーズの2作目)を読んだ覚えがあるので、どうやらこの時は助かったようだ。2作目の『フロスト日和』にくらべると、キザなマレット署長への態度がいくぶんおとなしい。悪態つくのも署長の姿が見えない時だが、2作目のほうは面と向かってやってたような気がする。この1作目は、少女が行方不明になったり、32年前の事件の真事実が出てきたり等、休む間もなく事件が起きる。フロスト得意の感がさえたり、さえなかったりだが、最後はそれらがビシッと決まる。しかし、まあ何でも灰皿にするクセはよくない。 |
〓 | フロスト警部。このキャラクター気にいった。外見はまさに刑事コロンボ風であるが、推理はよくハズレる。無計画で、1つの事件を追うかと思いきや、別の用事を思い出す。上司には悪態をつき、部下はこきつかう。机の上は未処理の書類の山。言い訳の天才。よく警部までなったものだ。当然スケベで、仕事の最中も下ネタはかかさない。しかし、よく働く。不眠不休の大活躍である。本書の中でもほとんど寝ていない(まあ、主人公やから、しゃあないか)。担当した事件以外にも顔をだす。いろんな事件が起こり、それぞれが微妙に関連づけられていくところは刑事小説としてもなかなか面白い。けっこう長いがフロストの個性で読ませてくれる。英国風(?)の粋な小説である。 |
〓 | いや、おもろい。天才的犯罪プランナーであらせられるところのジョン・アーチボルト・ドートマンダー様である。こやつの考えるプラン(もちろん犯罪の)はいつも完璧。発想は大胆。依頼者にヘリコプターを用意させるなんて朝飯前。あげくの果ては、機関車まで用意させよる。但し結果がなかなかついて来ん。そうそう、あんたのせいやない。不運なだけや。おもわず涙が(笑いが)でてくる。またチームで行動しよるんやが、仲間もオタクみたいな奴ばかり。操縦オタクに鍵開けオタク。それぞれが専門家っちゅう訳や。しかし、こいつらなかなかめげん。っちゅうか結果が出すためにしぶしぶやりよるんやけどね。えっ、映画化もされてんのか。主役はなんとロバート・レッドフォード。イメージがちゃうなあ。まあええ。次は『強盗プロフェッショナル』やな。がんばれ!ドートマンダー御一行様。ってことで。 |
〓 | この古典、こんなに面白いとは知らなんだー、ああ、知らんなんだ。今年度フィクション部門でNo.1、早くも決定かな。時間旅行家(という言葉も何かプロっぽくていい)がタイムマシンに乗って未来に行くのだが、映画「バック・ツー・ザ・フューチャー」などのつっかけで行けるぐらいの近所未来ではないぞ。何と80万年後というから驚く。それだけ未来になると人間自体が、生物として変態している。人類の未来、この本では悲劇だ。スウィフト『ガリヴァ旅行記』の「馬の国」よりも辛らつだ。そして人類の未来だけではおさまらない。地球の未来まで行ってしまうから、さらに驚く。ここまでやると相当な科学的知識が要求されてくる。博学ウエルズならではであろう。時間旅行している時の描写は妙にリアルだ。というかリアルに感じる。本書は標題作『タイム・マシン』の他9篇の短編からなる。『タイム・マシン』ほどではないが、どれも面白い。 |
〓 | なかなか気合の入る一冊だ。「鬼十則」というのは、電通の4代目社長・吉田秀雄が、昭和26年に社員を叱咤激励する為に書き上げたという。電通というと広告業界のbPであり、現在企業のイメージが強い。しかし創業は1901年ということで、なんと100年以上も前からあったのだ。驚いた。その歴史ある電通のなかでも強烈な個性を発揮し、世界の電通にしたのが、この4代目社長・吉田秀雄だ。仕事は自分で創る。大きな仕事、難しい仕事を選べ。取り組んだら死んでも放すな。周囲を引きずり廻せ。摩擦を怖れるな等、かなり精神論ではあるが、今一番欠けているものであるような気がする。 |
〓 | 小説の副題には「キリストの物語」というのが付く。映画『ベン・ハー』で感心したのは、チャールトン・ヘストン演じるベン・ハーが戦車競争でメッサラと対決するシーン。セットの大きさと人数の多さ。人と金をふんだんにかけた超大作。アカデミー賞なんてのも11部門も独占だ。大作と言えば、この映画。生涯ナンバー1の映画と言ってもいい。本書でもその雄大さはある。しかし、もう1つのテーマ、というか本当はこっちが主題なのかもしれんが、それがナザレの人、イエス・キリストだ。映画でもボロボロの衣服で髪の毛伸び放題、身体は傷つけられ、ヨタヨタ歩いているシーンがあった。その時は、ああこれがキリストか、という感じだけであったが、本書でキリストの凄さが伝わってくる。己が思いを言葉少ないがしっかりと喋る。身体がズタズタになろうが意に介さず。死へ向かっていく時もその信念に揺らぎはない。肉体の人ではなく正に精神の人だ。新約聖書の中のかつての偉人、イエス・キリストではなく、今ここにいるキリストを直に見た思いがした。「ユダの王」(=キリスト)を探す三人の賢者からこの小説が始まる。ローマ人メッサラへの復讐に燃えるユダヤ人ベン・ハー。そしてベン・ハーのキリストへの帰依。映画とは別の面白さがあった。 |
〓 | 本書を太田光が絶賛していることを岡田斗司夫のYoutubeで知った。岡田斗司夫が推すSF小説3冊。残りはハインライン『月は無慈悲な夜の女王』とラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル『神の目の小さな塵』。登場人物は、地球の大富豪の若者マラカイ・コンスタント、妻となるビアトリスと息子のクロノ。時間等曲率漏斗に入り、時空を超えて存在できるラムファードと愛犬カザック、15万光年先のトラルファマドール星から来た生物・サロ(実は機械)等。活躍の場所は地球と月、火星、そして土星と土星の衛星の1つであるタイタン。火星人が地球を攻撃するという話が中心となるが、要所要所で面白い発想に溢れる。物事を推し進める為の最も重要な要素は?死の直前に幸せになるには?などが面白い。特に<人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待ってるだれかを愛することだ>というのはぐっときた。 |
〓 | 人類は仙骨が発達していることにより、歩行できる。この仙骨のバイブレーションを高めることによって、自分にとって有害なものは自然に受けつけなくなる。また仙骨から起動し、どこにも力をいれていないとき、すごいパワーがでるというもの。 |
〓 | 上海と言えば、今世界で一番活気のある街ではないだろうか。浦東国際空港から上海の街に行く高速道路から眺めると、やたら高層マンションが建設中で、それも中途半端な高さではない。大きな地震が来たら大変なことになりそうだが、大陸だから地震はないのかもしれない。巨大なネオンサイン、地面では背広を着て肉体労働をし、自転車が車の間をすり抜けていく。クラクションと排気ガスの街で、「蠢いている」という言葉がピッタリくる。裏社会も当然のようにある。黄(売春)、毒(麻薬)、賭(賭博)、蛇(密航)、槍(銃器の密売)陀(取立て)、拐(誘拐)と呼ばれる黒社会の連中だ。彼らはそれが職業ではなく、正業を別に持つ。この『上海迷宮』も黒社会に関係を持つ人間との抗争である。 |
〓 | NHKの朝ドラが終わると、次に「アサイチ」でイノッチとともに、キャスター有働由美子を観るのが常であった。しかし、紅白の司会も務め、NHKの顔であり、王道を歩んでいるような有働さんがNHKを退社した。親しみ易いアナウンサーというのが印象に残る。49歳独身で、このまま変わらずに続けていくことはやはり難しいのかも。そこは逆に、変えていかなければ続けられない、ということだろうとも思う。仕事のこと、結婚のこと、両親のことが語られる。なかでも「私の個性、私が思う個性」のところで<素が、いろんなものを兼ね備えたそのままの自分だとしたら、人に見せる個性は、そのごくごく一部だと、わたしは思っている>というところは納得だ。そしてジルに撮ってもらった写真というのは、なかなかカッコイイ。 |
〓 | 今のインターネットは速い。この速さゆえに物事を良く考えずに読んだり、書いたりしていることを諌めている。SNSにより個人の発信が簡単にできるようになった。誰かの意見に同調して「いいね!」をつけたり、あるいはアンチコメントをつけたりで承認欲求を満たしている。しかし世界を手で触れられてように見える人たちはごく一部だ。その人たちも巨大化することがゲーム化し、個々人の幸せに結びついているとは言えない。ウクライナでの戦争も、この速いインターネットによることが多いと分析している。では今後どうしたら?ということで遅いインターネットを提唱している。面白いのは、人と人ではなく、人と物とのつながりを強化するというところ。高価なものを買って満足することではなく、その物と接することで予期せぬ事が起ること。自分の思い通りにいくものではなく、居心地の悪いようなものとの付き合うこと。そこの快楽を覚えること。社会のプラットフォームは、アップデートされた情報技術と市民の成熟?どうなっていくかな? |
〓 | 『ニッポンのジレンマ』、論客メンバーの1人がこの宇野常寛。彼の最大の主張は、インターネットや、ゲーム、アニメ、アイドル等のサブカルチャー(これを<夜の世界>と呼んでいる)の日本的想像力が、現代社会の「表の顔」である<昼の世界>を変えていくというもの。サブカルチャーにおいて快楽を享受できるのは、与えられたソフトではなく2次創作できるソフトであること。例えば、楽曲を作れば歌って踊ってくれるボーカロイドの初音ミク。その作品(動画)をアップして、それをまた誰かが編集したりするという楽しみ方が大事であるという。そして日本文化の<夜の世界>としての象徴としてあげるのがAKB48のシステムだ。新聞やテレビではなくネットによって広まり、選挙によってメンバーが選ばれたりするところ。与えられたものではなく、自分たちがいっしょに作り上げていくという達成感、ワクワク感がそこにはある。<昼の世界>にそれはなく希望のない社会になっていることに警鐘を鳴らす。<夜の世界>のシステムを使って<昼の世界>をワクワクするものにしていこうというのは面白い。ワクワク感は大事だな。 |
〓 | なんとも壮大な勝負の物語だ。江戸時代、「大和暦」と言われた日本初の暦をつくった男、渋川春海の物語だ。渋川春海は囲碁棋士の家に生まれたが、囲碁よりも算術を愛した。当時算術の問題は絵馬に掲げられ奉納され、それに回答するのが慣わしであった。そこにはどんな難題でも解答してしまう、後に和算の大家と呼ばれる、関孝和という天才がいた。碁の実力、算術の力を認められた春海は、<天に不動たる北極星を、各地で測定し、その緯度を判明させる>という幕府のプロジェクトメンバーに選ばれた。これを切欠に春海の人生は大きく変わる。春海をメンバーに加えた張本人、徳川家光の異母弟で会津藩初代藩主・保科正之はこう言った。<どうかな、算哲、そなた、その授時暦を作りし三人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか>。黄門様と呼ばれた水戸光圀、そして何よりも前述の関孝和が深く絡んでくる。従来の暦を改め、新しい暦に変えるという人生を賭けた大勝負に魂が揺さぶられた。そして羨ましいとも思った。大変だが、こんな大勝負をしてみたい、と思った。2010年の本屋大賞第1位も頷ける。 |