〓 | <彼は、考えてはならぬこと、不可能なことのみを考えた>。甘い誘惑の小説である。この重さがたまらん。ドフトエフスキーを読んで以来の重たさと饒舌さだ。思索のみでどこまでいけるか。場所はnowhere、主人公はnobodyで始まる、人類の存在を問う形而上学的小説である。著者の考えの1つが、三輪与志の考え(虚体論)であり、それが屋根裏部屋で思考する黒川健吉によって語られる。<宇宙の責任が真に追及された時、新たな形而上学が可能になるのです。…一切が死滅してしまった場所に身を置いて、一切を判定するのです>。そして悪魔的役割の首猛夫の思考が絡む。『死霊 I』、この序曲によってほとんど言いたいことは言っているような気もするが、ある意味、<無限の未来に置かれた眼>を持とうとする埴谷雄高の態度表明であるのであろう。『死霊 V』、第9章で未完のままとなったのが非常に残念であるが、この精神は永遠に受け継がれていくであろう。 |
〓 | <学術用語によらない日本語の哲学の文章、あるいは、学術用語から話し言葉への二重訳、本書はそんな試みである>とは著者の弁。ヘーゲルから始まり、カントで終わる西洋哲学史。というかそれらを通しての著者自身がどのように考えるのかがよくわかる。そして同時に、それら西洋の偉人たちの人間的気質まで迫る。精力家ヘーゲルに対し、病弱胃弱のカント。そして変人ヴィトゲンシュタイン。彼女は、ヘーゲルがお気に入りで、読むきっかけとなったのは、<メルロ=ポンティが、彼を語るときのその魅力的な語り口に食指を動かされた>のだそうだ。著者の語るヘーゲルもなかなかのもんである。で、私も胃袋の強そうなヘーゲルを読むことにする。 |
〓 | <私の命がもしこれまでのものだとしたら、私はせめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、なにかの形で残したいと願った。それも急いでやれることでなければ間に合わない。この目的に適なうものとしては、自画像をかき残すより他にはあるまいと思ったのである。>ダーウィンの進化論に真っ向うから異を唱え、今西進化論【棲み分け理論】なるものを構築した。 |
〓 | 知的探求において、既成の学問分野のような枠は必要ない。カイヨワは諸学問の領域にとどまらず、最も離れていると思われるところからの対話【対角線の科学】をもって、宇宙を解明しようとした。<反対称とは、平衡あるいは対称の破壊された後の状態をさす。> |
〓 | 人間のからだのイメージが変わる。人間のからだはまず骨格があって、そのまわりに内蔵や筋肉があるようなかたいイメージではなく、ほとんどが液体であり、皮膚という1つのズタ袋のなかに骨や内蔵が浮いているととる。その感覚をもって人の体の動きを考えた本。さかだちは、ぶらありである。最近岩波書店からも新刊されたようである。 |
〓 | <「犬」という語は、「狼」なる語が存在しない限り、「狼」をもさすであろう。…コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しないのである。>ソシュールの『一般言語学講義』が、いままで誤訳のまま紹介されていたとする著者の、徹底したソシュールの見直しが原資料をもとにはかられる。ソシュールを飲み込もうとした著者の熱気が伝わってくる。 |
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和道流空手術を基本とし、先先、交差法、体捌きに天王山を加えたものが柳川空手である。独自のトレーニング法をあみだし、特に受動筋力の大切さを説いた。また研究範囲は空手だけにとどまらず、多方面にわたる。本当は初著「空手道研究」を推したいが、非売品なのでこの「空手の理」と「続空手の理」をお薦めします。わが師匠であります。
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〓 | あなたが男性なら、異性を知る本。あなたが女性なら、自分を知る本。いろいろな状況における、からだの反応を刻銘に記述している。学生時代の心理学の教授推薦の本で、友人に貸してやったら、非常によろこんでいた。 |