1

 最初からそういう予感があった。
 それは啓示にも似た感覚で、確信に変わるまで一秒と時間を要さなかった。

 平田大紀はずっと右手を見ていた。それも甲の部分をだ。
 特にどうということもない右手である。強いていうなら、男にしては小さめといったところか。だが気にするほどではない。
 実際、大紀も手を気にしているわけではなかった。見ていることは見ているが、考えているのは別のことである。
 大紀の脳裏を占めているのは、今日学校で起こった些細な出来事であった。
 隣の席に座っていた女子がペンを落とした。たまたま上履きの紐を結び直していた大紀が、それを拾ってやろうと手を伸ばしたとき、彼女も手を伸ばした。その彼女の手が大紀の手に触れた。それだけのことである。
 偶然が引き起こした些細な出来事。たいしたことではない。
 しかし、そのシーンがずっと大紀の脳裏に流れているのだ。右手はそれを連想するための道具に過ぎない。
 大紀は、自分がどのような状態になってしまったか自覚していた。
 どうやら、手が触れた隣の席の女性を好きになってしまったらしい。
 隣の席なのだから、それなりに会話があった。だから、クラスメイトの女子の中では親しみやすい女性であったことは否めない。
 秀麗で成績もよく、クラスの信頼も篤い。明るく颯爽としていて、接しているのが心地よい女性である。
 しかし、恋愛の対象として意識したことは全くなかった。
 今日、手が触れるまでは。
 突如感情のスイッチが入ったようで、その瞬間から、まともに彼女の顔が見られなくなってしまった。
 どうしようか、と大紀は思う。
 好きになってしまった相手、古賀夏子には彼氏がいるのだった。
 本来なら諦めるべきだろう。
 大紀もそう思っている。だが感情がそれで納得するかどうかの自信はなかった。
「やってしまった」
 低く呻く。
 好きになってはいけない相手を好きになってしまった。その後悔が心中に押し寄せるが、もうどうしようもない。
 嫌うことができればそれにこしたことがないのだが、今のところ、彼女のひととなりに嫌う要素が見当たらない。少なくとも、好きになってしまった以上、嫌うのは並大抵の努力では到底かなわないことに思えた。
 大紀は溜息をつきながら、右手をおろした。
 その時、携帯電話が盛大に鳴り響いた。
 大紀は、鬱陶しげに携帯電話を睨んでから手に取った。
 ディスプレイは電話番号表示。登録されている相手ではないらしい。いったい誰だ、と思いながら電話に出ると、平田君? と尋ねる女性の声が耳を直撃した。
『古賀だけど』
 げっ、と大紀は呻く。
『げっ、て何よ、げっ、て?』
 古賀夏子が、大紀の呻きを聞きとがめた。
「い、いや、気にするな。たいしたことじゃない」
 動揺を悟られないように声を抑えながら、大紀は答えた。
『あたしが電話をかけるとまずかった?』
 電話の声はおどけた調子なので、夏子が本気で大紀をとがめていないことはわかっていた。だが今の今まで彼女のことを考えていた大紀は、思わず声を上げてしまう。
「そ、そんなことはないぞ!」
 声を上げてから、はっとして、気恥ずかしさに黙ってしまう。
 電話口の向こうからは、くすくすと笑い声が聞こえた。
「で、いったいどうしたんだ? 俺んとこなんかに電話をかけてきたりして」
 今まで一度も夏子から電話がかかったことはない。珍しいことと言える。そもそも、夏子からの電話を大紀は想定していなかった。
 ああ、そうそう、と夏子が笑いをおさめる。
『矢島千紗のチケットが手に入ったの。どうする?』
「は?」
『は? ってねえ……。平田君、昨日、矢島千紗のコンサート行きたいって言ってたでしょ?』
 夏子が呆れた口調で言った。
「あ……、あー、あー」
 そういえば、言った気がする。大紀は昨日の記憶を手繰った。
 矢島千紗というのは知る人ぞ知るといった感じのシンガーソングライターで、大紀は昔から妙に気に入っていた。だから、夏子との他愛のない会話の中で、そのようなことを言ったのかもしれない。
「え、手に入ったのか?」
『うん。特別招待券』
「ええと……」
『ほしい?』
「そりゃね」
 大紀は苦笑した。
 矢島千紗は知名度の高くない歌手である。コンサートチケットぐらい、その気になれば今からでも簡単にとれる。それをしなかったのは、単純にチケット代がなかったからだ。
 その辺の事情を察しているのか、夏子が言う。
『あげよっか』
 え、と大紀は言葉に詰まる。
『あたしもこれ、無料で手に入れたから』
「いや、でも、いいのか?」
『そりゃあ、いつもお世話になってる平田君だもの』
 夏子がおどけて笑った。
『じゃあ、明日学校に持って行くね』
「あ、ああ。サンキュー」
『んじゃね、また明日学校で』
「ああ」
 電話が切れた。
 大紀はしばらく携帯電話を見続ける。
 通話時間二分と少し。用件だけの他愛のない会話である。それだけなのに、心臓が早鐘を打っているのがわかる。
 重症だな。大紀は自身でそう分析した。だからといって、効果的な療法は全く思いつかない。
 携帯電話を鞄の上に放り捨て、長い息をつく。椅子の背もたれにもたれかかり、天井に視線をやった。
「明日の朝になれば、冷めてるかもしれない。一時的な思い込みかもしれないから」
 大紀は自分自身に言い聞かせるように、考えを声に出した。もっとも、それが期待薄なことは明白である。先程の電話が致命的だった。
 どうせ明日学校で会うのだから、そこで言ってくれればよかった。大紀はそう思い、その後、何故今なのかを考え始めている自分に気がついて、自己嫌悪に陥った。
「どうも、自分の都合のいいように考えている気がする」
 夏子は、単純にチケットを手に入れたから知らせただけなのだろう。そこに意味などない。冷静に考えれば、すぐにわかることである。
「駄目だ、俺」
 搾り出すように呟いて、大紀はベッドに転がり込んだ。今日は悶々とした一夜を過ごすはめになりそうだった。


   2

 寝不足気味の目を擦りながら教室に入ると、自分の席に着いていた夏子が手を上げて笑顔を見せた。
「おっはよ!」
 大紀は軽く会釈を返しながら、昨日より症状が進んでいることを実感した。
 これからどうしよう。大紀はそう恐怖に似た感覚を覚えた。戦慄が体中を駆け巡り、それを治めるまでに時間にして三秒の時を要した。
 大紀は軽く息をついてから、自分の席に向かう。
「えらく眠そうね。また夜更かししたの?」
 夏子が大紀を見上げた。
「ちょっとな」
 夏子のことを考えていて眠れなかったとは、とても言えない。大紀はできるだけ夏子の方に視線をやらず、自然な調子を心がけて答えた。
 ふうん、と夏子は幸い気づかずにすんなり受け流してくれた。彼女は机の横にかけてある鞄を開け、中から封筒を出す。
「これ、昨日電話したやつ」
「ああ、サンキュー」
 大紀は封筒を受け取った。見ると封がしてあり、開けられないようになっていた。おや、と思って眉根を寄せると、それに気がついた夏子が説明してくれた。
「ああ、落としちゃいけないと思ってしめちゃった。心配しなくても、ちゃんとチケットは入ってるから」
「いや、別に疑ってるわけじゃないんだけど」
「どうかなあ、平田君疑い深いからなあ」
 そう言って夏子がくすくすと笑う。
「勝手なこと言うなー」
「ふふ。ま、家帰ってから確かめて」
「そうさせてもらうよ。しかし、本当に無料でいいのか?」
「貰い物だもの。そうね、平田君がそんなに気になるんなら、今日『まるぽち』のストロベリーサンデーをおごらせてあげよう」
「無料なのか。ありがとう」
 大紀は封筒を自分の鞄に仕舞おうとする。
 それを夏子が手を伸ばして掴み、にっこり笑った。
「ストロベリーサンデーね」
 大紀は掴まれた手の感触にどぎまぎしてしまう。たかだか手を掴まれただけなのだが、鼓動が爆発的に打ち始めた。こんなに純情だったっけ。そう自身を嗤って冷静になろうとするが、あまり効果はない。
「あ、ああ……」
 自分でもぎこちなさすぎる声で頷く。そのぎこちなさをつっこまれたりしたらどうしようと不安になったが、幸い夏子はおごられる約束に満足していたようで、大紀の様子など気になっていないようである。
 もうけっ、と嬉しそうに指を鳴らした。
「ねえねえ、何の話?」
 不意に近くにいた女生徒が話しに割り込んできた。
 せっかくの夏子との会話を、と一瞬大紀はむっとしたが、同時にほっとしたのも事実であった。もう一人の存在が緩衝剤となって、緊張を和らげてくれるはずだ。そう思った。
「今日の放課後の話」
 夏子がその女生徒の方に視線をやった。
「放課後? 放課後どっか行くの? そういえばさっき、封筒を平田君に渡してたわね。あれなに?」
 その女生徒は好奇心旺盛なようである。
 ふふ、と夏子が含み笑いをする。
「放課後デートするの。渡したのはラブレターよん」
「ラブレター?」
 女生徒が鸚鵡返しに問い返した。視線が夏子と大紀を行き来する。
 すぐに夏子が堪えきれなくなって声を上げて笑った。女生徒は、それで今のが冗談だと理解して、つられて笑う。
 大紀も勿論それが冗談だとはわかっていた。だがデートとかラブレターとかの単語に、身体が反応してしまい、とても焦った。恐らく、女生徒が注意深く大紀を見ていれば、その態度が明らかにおかしく、何かあると容易に推測できたはずだ。
「でもいいの? 谷津君ほっといて」
 谷津君。谷津久伸。夏子の恋人である。
「いいの、いいの。あんな奴ほっとけば」
 夏子が拗ねたように答えた。その態度が、かえって二人の関係が良好なことをうかがわせる。
 大紀はがっかりした気分になった。次いで、その気分に自己嫌悪する。
 どうもこの症状は、心の変化が嵐のようにめまぐるしいようだ。それがとても苦しい。どうしようもないという逼塞感が、それに拍車をかけているようだった。
 知らず、大紀は机の上に突っ伏した。
「どうしたの?」
 頭上から夏子の声がかかる。
 心配そうな感じがするのは、大紀の症状のせいだろうか。その判別はつかなかった。どちらにしろ、気づかれるわけにはいかないのだ。大紀はまず表情に動揺がないことを確認してから、顔を上げた。
 いや、眠くて。そう嘘の欠伸一つ、答える。
「深夜映画の見すぎかな」
「そんなに見たきゃ、ビデオをとればいいのに」
「そこまでして、見たいものでもないからな」
「じゃあ、早く寝なさい」
 夏子が腰に手を当てて言う。説教臭く言うのは彼女の愛嬌だ。
「努力するよ」
「なんなら、早く寝なさいって、毎晩電話でもかけてあげよっか?」
 夏子が笑顔を見せながら提案した。
 考えるまでもなく、冗談である。
 笑って、頼むよと言うか、そんなことはやめてくれー、と嫌そうに答えれば、そのまま流れていくことはわかっていた。前日の手が触れる以前なら、そのどちらかで話を流していたはずだ。
 しかし、症状が悪化している大紀は、一瞬言葉に詰まってしまった。本気で、毎晩夏子と会話ができる可能性に期待している自分がいて、慌ててそれをうち消す。
「ば、馬鹿言うなよ」
 声が上擦っている気がした。
 ん、と夏子が眉をよせる。
 大紀は狼狽して、焦って言葉を繋げようと口を開くが、言葉がすぐに出てこない。気ばかりが焦って上手く言葉にならない。
 そのままの状況が続けば、少し危険なことになっていただろう。それを救ったのは、始業のチャイムであった。
 担任が教室に入ってきて、ホームルームを始める。それで、直前の出来事はうやむやになった。

 授業はまったく耳に入らなかった。
 普段入っているかといえば、決してそんなことはないのであるが、今日はいつものぼーっとしている状態とは一線を画している。
 隣に座る夏子の一挙手一投足が気になって仕方がないのだ。そのくせ、彼女の視線をまともに受けるのが怖くて、目が合いそうになるとさり気なくそらしてしまう。
 そんなぎこちない状態をひたすら続けてしまった。挙げ句の果てに、夏子から、トイレでも我慢してるの? とか聞かれてしまったりした。
 情けない。
 大紀は自己嫌悪に陥る。そのくせ、夏子の隣に座っている時間が、とても貴重に思えて仕方なくもあった。
 この症状は矛盾した感情をいくつも抱えてしまうようで、それの整合がとても大変である。
「さて、行こうか」
 不意に隣に立った夏子が声をかけてきた。
 え、と大紀は戸惑う。
「どこに?」
「もう忘れてるの? まるぽちのストロベリーサンデーよ」
 夏子が呆れた声を出した。
「あー、あー」
「行こうか」
「いいけどさ」
 大紀は仕方ないな、という表情を作って席から立ち上がった。だが内心では嬉しさが溢れていたから、足取りは軽かった。
 学校からまるぼちという名の喫茶店までは、徒歩で十分少々の距離だ。
 学校と自宅の間に存在するから、放課後、友達と長話をするときはよく利用する店である。夏子とも何回か入ったことがある。ただその時は、他に何人か友人がいたし、二人きりというのは、これが初めてである。
 店内に入り、席に着く。夏子は早速ウエイトレスにストロベリーサンデーを注文した。
「平田君は?」
「コーヒー」
「遠慮しなくていいのに」
 夏子が笑う。
「してねえよ」
 大紀はぶっきらぼうに答えた。
 もともと喫茶店でコーヒー以外のものを頼んだことはない上に、今回の支払いは大紀持ちである。コーヒー以外のものを頼もうという意志はどこにもなかった。
 待つほどもなく、注文した二品が運ばれてきた。いただきます、と夏子が大紀に視線をやってから、ストロベリーサンデーの攻略にとりかかった。
 ガラス製の大きい器に、生クリームと苺がたっぷりと詰め込んである。他にいろいろな食材も使われているようだが、大紀には区別はつかない。
「そんな甘いもののどこがいいんだか」
 大紀は眉を寄せて呟いた。
「あら、平田君って辛党?」
「違うけど。でもどっちかというと、甘いものより辛いものの方が好きかな」
「お寿司にもわさびをたっぷり入れる方なんだ」
「まあ、入れるね」
「あたしは駄目だな。辛いのは全然ダメ」
 その味を想像したのか、夏子が顔をしかめた。
「甘いものなら、いくらでも入るけどね。ケーキでもチョコレートでもアップルパイでもお饅頭でも羊羹でも」
 今度は大紀が味を想像して、顔をしかめる。
 その表情を見て、夏子が悪戯っ子のように瞳を光らせた。
「今度、平田君のためにケーキを焼いてあげよう。うーんとあっまいの」
 え、と大紀は言葉を詰まらせる。
「心を込めて作るから、嫌な顔せずに全部一人で食べてね」
 夏子がにっこり笑った。
 大紀はどう答えていいかわからない。大紀をからかっているだけだとはわかっているが、夏子からのその提案を受けてみたいという思惑もあって、どう答えれば自分にとってベストに進むのか判断に迷う。
 半瞬迷った末、努力しよう、と答えようと決意する。
 しかし、それは音になって夏子に伝わることはなかった。
 急に聞き覚えのある音が、夏子から聞こえてくる。矢島千紗のヒット曲だ。携帯電話の着信メロディらしい。夏子が、ちょっと待ってね、と口を開けかけた大紀を制して、携帯電話を取り出した。
 巡り合わせが悪いなと、その誰だかわからない携帯電話の相手にとりとめもないむかつきを覚えながら、大紀は夏子を見ていた。
 夏子は携帯電話のディスプレイを見て、少し眉をしかめた。
「もしもし、――うん、――うん、――えっ、今? まるぽちにいるよ。――誰でもいいじゃない、そんなの。なにやきもちやいてんのよ。友達よ、友達」
 彼氏かな。大紀は電話の相手をそう推測した。
 いいようのない嫉妬を覚えるが、それはこちらの勝手な感情だろう。大紀は嫉妬の炎を消そうと努力する。
「今から? ――うん。わかったわよ。待ってたらいいんでしょ。じゃあね」
 夏子は携帯電話を切った。口がへの字に曲がっている。しばらくそのまま黙っていたが、大紀がいることに気づいたようで、表情を改めた。
「あ、ごめんごめん」
「いや、いいけど。――谷津?」
 うん、と夏子が頷く。視線が少し泳いでいる。
「なんて?」
 大紀は聞いてから、しまったと思った。何の理由があって、つきあっている二人の会話の内容を聞くのだ。さしでがましいこと甚だしい。
 だが夏子は意に介さなかったようだ。
「ここに来るって」
 ここに? と大紀は聞き返した。
 すまなさそうに夏子が頷く。
「えと、俺、帰ろうか?」
 さすがに、夏子と谷津が会う場面にいるのは場違いな気がした。それに、今の症状のまま、二人が並んでいる姿を見るのはとても辛いと思う。惨めであるが、大紀は夏子の友人でしかないのだ。去るのが一番いい。
 大紀は立ち上がりかける。
 しかし。
「もう少しここにいて」
 夏子がか細い声で言った。
 え、と大紀は夏子を見返す。
 夏子は心中を読ませない表情で大紀を見つめていた。
 大紀はどう答えていいかわからない。だが動きは止まったままである。
 やがて、夏子が視線をそらした。
「……古賀?」
「ごめん。冗談」
 ということは、帰れということなのだろうか。大紀は少し逡巡する。そして、数瞬迷った末、答えてみる。
「そうか。じゃあ」
「うん。また明日」
 どうやら、正解だったようだ。大紀は落胆した心中を表情に出さないように多大な努力をしながら立ち上がり、請求書を手に取った。
「いいよ。あたしが出すから」
「いや、俺が出すよ。そういう約束だから」
 そこまでされるのは、さすがにプライドが許さない。つまらないプライドだが、今はそれに従いたい気分だった。約束といったのもその表れで、これは自分と夏子とのことで谷津は関係がないという、無言の意思表示のつもりである。もっとも、そのことを気づかれても困るのであるが。
 大紀はレジで精算を済ませ、店を出た。店の前で一つ溜息をついてから、とぼとぼと自宅へと歩き始めた。


   3

 それからの学校生活は、相当に苦痛だった。
 症状は悪化の一途をたどり、いつ爆発してもおかしくないところまできていた。
 隣の夏子はいつもと変わらない調子で接してきて、それが症状の悪化に拍車を掛けていた。心中を告白できない辛さが、致命的だった。
 結局、横恋慕なのだ。最終的には諦めねばならないだろうという、認識がある。だがそれを完全に認められないのだ。症状が進んでいる証である。
 たかだか恋愛によくここまで悩めるな。そう自嘲することができるのが、まだ救いであった。まだ冷静さは少し残っているらしい。
 そんな日々が、三日ほど続いた。
 その日もいつもと変わらない日であった。
 教室に谷津が来るまでは。
「あれ?」
 夏子が驚いた声を上げた。
「やあ」
 谷津が照れたように笑顔で会釈して、近づいてくる。
「どうしたの?」
 ん、と照れたまま谷津が微笑する。
「久しぶりに一緒に帰ろうかと思ってさ」
「クラブは?」
「今日は休み」
「そうなんだ。珍しい」
「それで、帰りに映画でもどうかなって?」
 映画ねえ、と夏子が顎に指を当ててしばらく思案する。
「帰りに食事もおごってくれるなら、行くよ」
「高くつくなあ」
 谷津が苦笑する。
「いつものファミレスならな」
「おっけ」
 夏子が嬉しそうに頷いて、そそくさと帰る用意を始めた。途中、手を止めて大紀の方を見る。
「そうそう、平田君」
 うん? と大紀は視線だけを夏子の方にやった。
 実際のところ、この状況下で夏子に話しかけて欲しくなかった。辛さが倍になって襲いかかってくるようである。特に、デートに嬉しげな夏子の様子を見ていると、自分が泥沼にはまっていくような感覚になって仕方がない。
 しかし、しばらく夏子は何も答えない。
 大紀は訝しんで、夏子の方に顔を向けた。
「何?」
「ごめん、いいや。また今度」
「え……?」
「じゃ、また明日」
 夏子が手を振ってから、谷津とともに教室を出ていった。
 大紀は茫然と二人の背中を見送る。
 夏子は何を言いかけたのだろう。全くわからない。どうせたいしたことではないだろう。そういう推測は容易に成り立つが、あの場面でわざわざ言いかけたことに意味を持たせたかった。
 勝手な思い込みか。そう大紀は何度目かの自己嫌悪に陥った。

 喫茶店で谷津から電話がかかってきた時の夏子の態度は、嬉しそうな感じとはほど遠いものだった。
 しかし、谷津が誘いに来たときに見せた態度は、とても嬉しそうだった。
 どちらが本当の夏子の気持ちを表しているのか。大紀はそんなことを考えてしまう。だがそう考えること自体に、問題があることもわかっている。
 夏子と谷津の間に何があるのかはわからない。だが長いつきあいの彼女たちが、常に幸せに満ちているとは思わない。喧嘩もするだろうし、お互いに不平もあるだろう。
 だが二人は好き合っているから、つきあっているのである。夏子が谷津に対して少し不満を見せたからといって、二人が上手くいってないと考えるのは早とちりを通り過ぎて、妄想でしかないだろう。
 大紀は長い溜息をついた。
「平田君、最近溜息ばっかり」
 そう隣の夏子が声をかける。
 大紀は視線を横に向ける。自分のことをさぐられたくないから、話題を変える。
「昨日、映画は何を見に行ったんだ?」
「伐竜の剣ってやつ。結構、おもしろかったよ」
「そうなんだ」
「今度見に行ってみたら。平田君は楽しめると思うけど」
「映画館は高いからなあ」
「そんなに金欠なの?」
 夏子が呆れた声を出した。
「もともとの所持金が少ないんだ。ちょっと使えばすぐになくなる」
 大紀は、仕方ないよと首を横に振った。
 貯めとけばいいのに、と夏子が言った後、不意に思い出したように、そうそう、と話題を変えた。
「今日、暇?」
「は?」
「家に来ない?」
「ええっ?」
 大紀は思わず声を上げた。
 そんなに驚くことかな、と夏子が苦笑する。
「前に言ったでしょ。ケーキを焼いてあげるって。できたから、食べに来ない?」
「え……」
 大紀は驚きでうまく声が出ない。
「来ないの?」
 夏子が問うた。
「い、いや、行く」
 慌てて答えたために、少し語気が強くなってしまったのは否めない。だがすぐに我に返って、でも、と言葉を続ける。
「でも、なに?」
 夏子がまっすぐ大紀を見つめる。
 いいのか、という言葉を大紀は飲み込んだ。谷津の姿がちらついたが、それを無理矢理抑え込んだ。
「なんでもない」
「そう。じゃあ決まりね。早速行こう」
「ああ」
 大紀は夏子に続いて、教室を出た。
 夏子の家に行くのは初めてだった。行くなんてことを考えもしなかったし、中に入るなんて、想像だにしなかったことだ。
「どうぞ」
 夏子に誘われるまま、彼女の家に入る。そして言われるまま二階に上がり、彼女の部屋に入った。
 入る瞬間、いいのかな、という思いが頭をよぎったが、ここまで来てしまった以上、何を考えても説得力はありはしない。
 夏子の部屋は、想像以上にあっさりしたものだった。人の部屋、それも相手のいる女性の部屋をきょろきょろと眺め回すのはマナー違反だろう。そう思い、大紀はなるだけ部屋の家具や装飾品に視線をやるのを避けた。
 ややあって、夏子がケーキを持って部屋に入ってきた。
「じゃーん、これよ。会心の出来なの」
「甘そうだ」
「ケーキなんだから、あたりまえよ」
 そう答えながら夏子がケーキに包丁を入れて切り分ける。そして、皿に載せて大紀の前に出した。
「どうぞ」
「あ、ああ……」
「どう?」
 夏子が頬杖ついて、じっと大紀の様子を見ている。
 こんなに見られて、味なんかわかるわけがない。甘さだけが妙に際立っている気がした。
「おいしいと思うけど」
 大紀があたりさわりのない感想を述べる。
 そう? と嬉しそうに夏子が微笑した。
 その後、しばらく他愛のない会話を交わした。
 だが大紀の心中は落ち着かない。二人きりで夏子の部屋にいるというシチュエーションが大紀の理性を蝕んでいた。だから、会話中、とんちんかんな返答を何回かしていた。
 不意に、夏子が会話を止めて、じっと大紀を見る。
 え、と大紀は茫然と夏子を見返す。
 平田君、と夏子が大紀から視線を外さず呼びかけた。口調は先程までとは打って変わって真剣だ。
「最近、おかしいよ。何かあったの?」
「え……」
「授業中でもそわそわしたり、溜息をついたり。喋ってても上の空って時が多いし。何か悩みでもあるの?」
「そ、そんなものは……ない……」
 うそ、と夏子が言い切る。
「ずっと隣の席だったから、あたしわかるの。ここ一週間ぐらいの平田君、明らかに様子が変だった」
 そんなことはない、と大紀は答えるが、口調に力はなかった。
「言ってみてよ。相談にのるよ。あたしじゃ頼りないかもしれないけどさ」
 夏子の口調が優しくなる。
 どうやら夏子は、大紀を気遣ってこの席をもったようだ。
 だったら逆効果だ。そう大紀は思った。
 鼓動が強く打ち始める。夏子そのものが、大紀の精神を圧迫しているように感じた。
「…………」
 大紀が答えないでいると、夏子が鋭い言葉を吐いた。
「恋の悩みでしょ」
 表情を変えないように努力したが、無駄であった。
 やっぱりね、と夏子が一つ溜息をついた。
「平田君、誰か好きな人ができたんだね。それで悩んでる」
 違う、と大紀は答えはする。だが夏子の目を見ると視線をそらしてしまった。
 知らず身体が緊張で汗ばんでいた。理由のわからない興奮もある。
「何でも悩むタイプだから、平田君。そんなに悩むことはないのに。百の思案より一つの行動が解決の糸口を掴むものよ」
 このまま心配され続けると、自分がどういう行動に出るか、大紀は予想がつかなかった。普段ならともかく、症状が悪化している今は、理性の歯止めは多分脆い。
「あんまり、俺のことは気にするな」
 大紀は俯き、声を搾り出すように言う。
「ほっといてくれれば、ありがたい」
「ほっとけないわよ」
 即座に夏子が反論する。
 彼女がそういうおせっかいな性格なのは知っているはずだった。だが、今そのことは、記憶の片隅に追いやられ、念頭になくなっていた。
「こういうのは一人で悩んでいるより、誰かに聞いてもらった方がいいのよ」
 もう駄目だと思った。
「……そうか」
「あたしは恋愛に関しては、平田君より知ってるつもりだからね。何でも相談してくれて構わないのよ。本人に言えない恋なのかもしれないけど、あたしになら言えるでしょ?」
「……そうかもな」
「恋っていうのはため込んで悩んでいるより、吐き出しちゃった方がいいものよ。あたしにできることなら、何でもしてあげるから」
 そうか、と答えつつ大紀は、理性が弾き飛んだ音を聞いた。
 え、という夏子の驚愕の声が耳に入る。それを無視して、大紀は夏子を抱きしめ、押し倒した。
「ひ、平田君……! うそ、……いやっ!」
 大紀は夏子の顔を見ず、彼女の制服の襟首に手をかけた。
 やめて、という叫び声が聞こえる。それを無視して手に力をこめる。


   4

 ことが全て終わってしばらくたった後、大紀が茫然と言葉を絞り出した。
「……ごめん」
 その表情には、恐怖と後悔と罪悪感に染まっていた。
 夏子は答えず、大紀に視線もやらない。
 のろのろと上体を起こし、胸をかき抱く。
 ごめん、と大紀がもう一度言う。彼も夏子の方を見ない。
「ごめん。……謝って済むことじゃないけど……」
 彼にしてみれば、何度謝っても足りないのだろう。何度もごめん、と繰り返した。
「帰って」
 夏子は静かに、それでいて強い口調で言った。
 ああ、と大紀が慌てて身支度を整え始めた。その間中、夏子は微動だにせず、部屋の一点を見つめていた。
 服を着終えた大紀がもう一度、ごめん、と謝って部屋から飛び出すように出ていく。
「平田君」
 夏子は背中越しに声をかけた。
 大紀の足が止まる。
「明日、学校にちゃんと出てきてね」
「え……?」
「このこと、誰にも言うつもりはないから……。ちゃんと出てきて」
「いや、しかし……」
 大紀が戸惑った声を発した。
 放っておけば、犯した罪の重さに耐えきれずこのまま自殺しそうな大紀である。遺書すら書かず、このことを墓に持っていこうとするだろう。夏子の名誉のために。
 そうなってもらっては困るのだ。
 しばらく、大紀が夏子に視線をやって、その真意を探ろうとしていたが、やがて諦めたのか、ああ、と短く答えて去っていった。
 大紀が家から出ていく音を聞いた後、夏子は一人笑みを洩らした。
 それは、勝利の笑みであった。

 最初からそういう予感があった。
 それは啓示にも似た感覚で、確信に変わるまで一秒と時間を要さなかった。
 あたしは彼を好きになり、彼もあたしを好きになる。
 それは最初からわかっていたことだ。
 しかし、彼は自分が好意を受けていることに気づく人間ではない。自分から好意を感じさせねばならない。そのためには、あたしを好きにさせねばならない。
 二年に昇級し、クラスが一緒になったのは本当に僥倖だった。あたしはその時、運命を感じた。
 あたしは注意深く彼に接した。親しみやすさを強調して近づき、お節介を焼き、彼のテリトリーに少しずつ入っていった。
 彼との友人という立場を得るために、あたしは谷津君の告白を受け入れた。彼はあたしがフリーの立場だと、少し遠慮するから。席替えの時、隣の席になるように少し細工したのもその一環。
 彼のテリトリーにあたしの居場所を見つけた後、あたしは本格的な行動に切り替えた。
 靴紐を結んでいる彼の前にペンを落とし、それを拾おうとする彼の手に触れた。手を触れさせたのはそれが最初。この時のために、今までわざと触れることは避けていたのだ。
 彼にはそれが起点になったはずだ。それを確定させるために、その夜、電話をかけた。
 喫茶店では家に誘う伏線を敷いておいた。そこで谷津君から電話がかかってくるのも、計算済みだった。ちょっと電話をかけないでいると、谷津君は堪えきれなくなって、部活中でも自分からかけてくるのだ。
 映画の話もそう。デートの時、映画が見たいと言っておけば、谷津君は必ず部活が休みの時に誘いに来る。
 それぞれで違う態度をとったのも、後のための伏線だ。
 家まで誘い出せれば、後はもう簡単だった。
 たくらみは全て上手くいった。これからも、うまくいくだろう。
 それは、あたしがその予感を感じたときから決まっていたことだ。
 明日からも、あたしは彼と変わらない態度で接する。そうすれば、近いうちに、彼は玉砕覚悟であたしに告白するだろう。
 もう彼はそうするしかないのだ。あたしを抱いた責任を、彼は感じているだろう。それはあたしが好きだったから、と。それを告げにくるのだ。
 ここまでくるのに、本当に長かった。あの予感を得てから一年半。全てをこのために捧げてきたのだ。それももう終わる。
 そこで、あたしはこう言うのだ。
「いいのね?」

 そう言われた時、大紀は夏子が何を言いたいかすぐに理解した。
 これは谷津から夏子を奪うことに他ならない。その非難を浴びることになるだろう。そのことを彼女は聞いたのだ。
 大紀は頷いた。
 もうその非難は受けてしかるべきだし、それに堪える自信もあった。
 夏子がいれば。
「ああ」
 大紀はもう一度頷く。
 すると、夏子が飛び込んできた。大紀の胸に顔を埋めて強く抱きしめた。
「明日、谷津と会う」
 大紀は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
 胸に顔を埋めたまま、夏子が頷いた。その表情は見えない。だから、彼女が万感の想いを込めた呟きは聞き取れなかった。
「やっと捕まえた」

                                                〈了〉

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