手紙






 私にはつきあって三年になる男性がいる。同じ会社の人で、同い年。私と違い大卒で幹部候補。だけど最初の印象は無きに等しかった。それほど、接点のある人ではなかった。
 つきあい始めたきっかけは、彼が私に告白してきてから。後に彼に聞いたところによると、彼のミスを私がフォローしたのが、私を気にしだした嚆矢だったらしい。ありふれてるといえばありふれているが、気持ちの変わり目なんてそんなものだろう。
 その彼が、最近そわそわしていた。一緒に話しているときも、食事をしているときも心ここにあらずといった風。そのくせ、二人の時間を頻繁に作っていた。
 理由はわかっている。
 彼は私にプロポーズしたいのだ。躊躇しているのか臆病なのか、それとも全く別の理由からか、まだそれらしき言葉すらかけてもらってないけれど。
 結婚ということに私は戸惑っていた。結婚したくないというわけではない。それに夢を見るほど浮かれてはいないつもりだが、いずれは誰かとするだろうとは漠然と考えている。ただそれが現実として迫ってくることを受け止められないだけ。
 そもそも、私は彼が好きなのかどうかわからない。つきあっているのは、そう彼から誘われたからで、三年の月日はある意味惰性の結果でもあった。
 彼のことは嫌いではない。好きになれそうだと思ったからこそつきあうことに諒承したわけで、彼の性格やちょっとした仕草など、つきあってから気に入ったものもたくさんある。
 でも愛してはいないと思う。
 恋愛について語れるほどたくさんの経験をしたわけではないが、少なくとも比較ということでいえば、前につきあっていた男性に対していたときの方が、自分の恋愛感情がより盛り上がっていたと思う。高校卒業後、就職のため私は上京してしまい、そのままうやむやになってしまったけれど、あの時の熱さは覚えている。
 私は彼と結婚しても良いのだろうか。
 彼はいい人である。為人も財力も、私には申し分がない。多分、結婚すれば私を幸せにしようとしてくれるだろうし、私の努力次第でいくらでも幸せになれるだろう。
 しかし、それでいいのだろうか。好きかどうかもわからない人と一緒になって果たして良いものだろうか。その戸惑いが私をすっぽりと包みこんでいた。
 それに耐えきれなくなったとき、私は逃げ出していた。
 故郷へ。

 七年ぶりの故郷は、乾いていて寒かった。
 別に喧嘩をして出ていったわけではないが、実家に帰ったときはとても気恥ずかしかった。真正面から見て話すというのは、電話でのやりとりとはやはり違う。
 不意の帰郷に何故と聞かれなかったのは幸いだった。聞かないと言うことが自体が、案外、察している証拠なのかもしれないけれど。だからといって気恥ずかしさがすぐに消えるわけではない。私は翌朝から、目的もなく出歩いた。
 町並みは七年前とほとんど変わらない。大通りに出ればさすがに開発されて昔の面影は見る影もないが、実家付近はほとんど変わらない。悪く言えば田舎だからではあるが、いい意味で故郷とはこのようなものだという感じを抱かせる。
 小さな公園に面する細い通り。私はこの道を歩くのが好きだった。ここで一人歩いていると、きまって声をかけてきた人がいた。危ないから送っていくと。昔はそれを楽しみに歩いていた。
 過去の記憶に微笑を洩らしたとき、不意に名を呼ばれた。一瞬、それが記憶の中からなのか現実なのかわからず混乱する。
「諒子」
 再び呼ばれて現実なのだと悟った。
 後背から小走りにやってきたのは、七年前も私の名を呼んでいた人物だった。
「笠原君」
 驚愕して目を見開く。
 向こうも同じよう。驚きの表情を浮かべながら近づいてきた。
 七年は笠原君をとても大人にさせていた。背が伸びたよう。声も穏やかだ。でも暖かい雰囲気は以前のまま。背広姿がよく似合っている。
「帰ってきたのか?」
「うん。まあ、ちょっとだけの里帰りだけど」
 そうか、と笠原君が微笑した。そこに昔の幼さを見て、とても懐かしくなる。
「笠原君はどうしてここに?」
「家へ帰るとこ。仕事帰りだよ」
「そうなんだ」
「しかし、懐かしいな。諒子はちっとも変わってないよ」
「それは失礼な言い種ね」
 私は口を尖らせてみせる。
「いや、雰囲気とかがさ。勿論、女っぽくなってるよ」
「それはさらに失礼じゃない? 前は女っぽくなかったってこと?」
「そうか。ごめんごめん」
 笠原君が笑いながら私の横に並ぶ。
 七年前の定位置。横を向けばすぐそこに笠原君の肩が見える。
 だが不意に違和感を感じた。
 何かが違う。前と違うのは当たり前なのだが、そういうことではない。もっと根本的なところで、心が違和感を訴えていた。
 その理由を探しているとき。
「で、向こうではどう?」
 そう笠原君が尋ねてきた。
 ちょっと考えてから、私は答えた。
「それなりかな」
「そうか」
「うん」
「……東京は遠いな」
 笠原君が苦笑する。
 そうね、と私も苦笑した。
 別れの喧嘩も言葉もなく、ただ距離と忙しさの前にうやむやになって別れた二人。後悔はやっぱり心のどこかに存在していた。
 もっとも、後悔というぐらいだから、やっぱり笠原君とのことは過去のことなのだ。
 その時、私は先ほどの違和感の正体を知った。
「笠原君は、どう?」
「……ん?」
「仕事は順調?」
「うん」
「彼女はいるの?」
「一応ね。諒子は?」
「いるよ。多分、その人と結婚すると思う」
「そうなんだ。幸せにな」
「うん。笠原君もね」
「そうだな」
 そして、言葉がとぎれた。
 しばらくの沈黙。ややあって、笠原君が笑う。
「じゃあ、ここで」
 うん、と私は頷く。
「今度はいつ帰ってくるんだ?」
「わからないわ。でもそう遠くないと思う」
「そうか。じゃあ」
「さようなら」
 私は手を振り笠原君の背中を見送る。
 笠原君が見えなくなって、私は今しがたまで笠原君が立っていた所に視線をやる。
 私の横。彼はそこには立たない。半歩遅れのところに立っているから。今の私がしっくりくる場所。ちょっと振り向けば、彼の顔が見えるのだ。それで私はとても安心する。
 私が帰らなかった七年。確かに仕事は忙しかった。でも帰ろうと思えば帰れたと思う。帰ってきていれば、笠原君との関係は今とは違っていただろう。でもそれをしなかったのは、やはり私自身が帰る必要を認めなかったからかもしれない。
 それは、東京での生活が充実していたのだ。そしてその一番の理由は考えるまでもなく彼。
 私は、知らぬ間に彼とのつきあいを重要だと思っていたのだ。その思いは燃え上がるような激しさはない代わりに、静かに大きく大きく広がっていた。実家に帰る時間を惜しむぐらいに。
 気がつくと単純なことだった。人を思う状態にもいろいろなものがあるだろう。熱い思いもあれば、安心する思いもある。どちらが上か正しいかの問題ではない。
 どうやら、と私は苦笑する。
「私の方が彼を必要だったみたい」
 少なくとも、彼から与えられる安心に私は夢中になっている。その安心感が大きすぎて、それが見えなくなっていたけれど。
 不意に思い浮かぶひらめき。
 実家に帰ったら彼に手紙を書こう。今の私の思いを全部書き留める。それをすぐに郵便局に出す。私は明日の朝帰る。
 どちらが早く彼の元に着くだろうか。
 手紙が早かったら、そういうこと、と言って笑ってやろう。逆に私から彼が必要なことを告げる。
 私の方が早かったら、手紙を破り捨て、何食わぬ顔で彼からのプロポーズ待つのだ。答えは決まっている。
 私はそのひらめきに夢中になった。その時の状況を思い浮かべては笑ってしまう。どちらでもいい。とにかく手紙を書こう。そう思った。
 私の帰る足取りは自然に速くなった。

                                                 〈了〉       

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