鞠をつく少女






 夏の深夜。
 ヒロシは車を止めた。
 窓を開けると、熱風が夜風に乗って車内に流入してきた。
 その鬱陶しさに顔をしかめながら、ヒロシは前後に視線を巡らせた。
 そこは住宅街というには、あまりに民家が少なかった。街灯はなく、民家の窓からこぼれる光もない。ところどころに田畑や空き地があって、それが寂寥感を煽っていた。
「それっぽい場所ではあるな」
 ヒロシはそう呟いた。
 ヒロシはこの辺りの人間ではない。
 それがどうしてこんな所にいるか。それは、あるHPに鞠をつく少女のことがのっていたからだ。
 その少女は深夜、一人で鞠をついているのだという。和装で童謡を謡いながら、鞠をついて遊んでいる。
 その少女は、人に気づくと、近づいてきてこう言うのだそうだ。
「あそぼ」
 断っても、断っても、そう言う。無視してどこかに行っても、どこに行っても、気がつくと後ろにいて、鞠をついているのだ。そして言う。
「あそぼ」
 ずっとずっと言い続ける。その人が逃げなくなるまで。
 だから、そこには近づかないように。HPにはそう締めくくってあった。
 夏にありがちな、ひねりのない怪談である。場所が近いので、ヒロシはいってやろうという気が起こった。
 別に信じたわけではない。話のネタになるだろうという、興味だけだった。
 しかし。
 不意に、連続的な音が夜風にのって、耳に届いてきた。
 慌てて耳を澄ます。
 確かに、聞こえる。
 ボールか何かが、連続的に地面に跳ねる音。その音の向こうに、さらに可愛らしい歌声が聞こえる。

 きた しめ あさ くら ご てら かみ
 いま むしゃ いち なか じょう ちゅう げ
 でみず しもたち さわらぎちょう
 まる たけ えびす に おし おいけ
 あね さん ろっかく たこ にしき
 し あや ぶつ たか まつ まん ごじょう
 ようばい かぎや まとば ろく
 はな かみ しょうめん しも しちじょう 
 きずやばしにしおこうじ
 ……

 そして、角から和服姿の少女が現れた。
 年の頃は、十歳を越えてはいないだろう。色白でおかっぱ頭の愛らしい少女だ。
 謡いながら、鞠をついている。
「お、おいおい……」
 ヒロシは声を絞り出した。
「ちょっと、マジか……」
 声には驚きと恐怖が混ざっていた。
 少女はゆっくりと近づいてきた。
 その間、ヒロシは茫然と少女を見ているだけだった。
 やがて少女は鞠を両手で抱え、謡うのをやめた。視線は車内に向けられている。
 にっこり笑って、少女が言った。
「ねえ、お兄ちゃん。あそぼ。うち、暇なんよ」
 ヒロシは我に返る。
「ま、また今度な」
 慌てて答えて、車を発進させた。
 しばらく行って、止める。
「気味が悪いな」
 そう呟いて、ふとミラーを見ると少女が鞠をついている姿が映っていた。
 驚いて振り返ってみると、確かに少女が鞠をついていた。
 うわっ、と叫び声をヒロシはあげた。そんな馬鹿な、と思った。あそこからどれだけ走行したと思っているのだ。人の脚でこんなに早く追いつけるはずがない。
 少女は鞠をつきながら近づいてきた。
「あそぼ」
 ヒロシは迷わずアクセルを踏んだ。
 車は急発進して、駆けていく。途中、ミラーをのぞく。
 そこに、通常ではあり得ない光景を見て、ヒロシは思わず悲鳴を上げた。
「うわああああああっ!」
 ミラーには、鞠をドリブルしながら走って追いかけてくる少女の姿を映していた。少女は髪と裾を振り乱し、必死の形相で車を追いかけていた。
 少女のドリブルは早く、彼女からインターセプトスチールするのは至難の業であろう。
 そして、少女は走っている車の真横に追いつき併走する。
「お、……お兄ちゃん……、はあ、はあ、はあ……、……あ……あ……そぼ」
 ぜえはあ、ぜえはあ、と息をこぼしながら少女は言った。
 ドリブルで走りながら。
「うわあああああっ、よ、よるな! 近づくな! 来るなあああっ!」
 ヒロシはまたもや悲鳴を上げつつ、車のスピードをあげた。
 無茶苦茶に運転したから、どこをどう走っているのか全くわからない。
 それでも少女を引き離せなかった。
 少女は、左右に分かれたカーブでは巧みにピボットをふみ車を視界に捉え、直線上にある障害物はマイケル・ジョーダンばりのエアで飛び越えた。それどころか、車を追いこしてしまい、フロントターンで返る余裕も見せつけていた。
 恐怖の追走は永劫に続くかと思われた。少なくともヒロシはそう思った。
 しかし、終局は突然やってきた。
 何度目かの併走をはたした少女が、不意に思い出したように呟く。
「あ、もう時間やわ」
 そして、立ち止まったのだ。当然、車はあっという間に少女を引き離していった。
 しばらくして、落ち着きを取り戻したヒロシは、ミラーをのぞく。
 少女はいない。
 安堵の溜息を吐いて、ヒロシは車のスピードを落とした。
 しばらく走って、車の往来や街灯が視界に入り、その中にはいると、今までのことが妙な夢のように思われた。つい先ほど自分の身に起きた恐怖の体験なのだが、あまりにも現実味が薄い。
 だがどうしても少女の最後の言葉が耳から離れなかった。
「衛星でNBA、始まるやん」
 とりあえずは、怪談とバスケットボールは嫌いになったことをヒロシは自覚した。

                                                 〈了〉

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