結婚記念日
冷房の効いた店内は、残暑がおさまった今では少し肌寒かった。 現在九月三十日午後二時二十分。待ち合わせの時間より、二十分遅れていた。渋滞のせいでバスが思ったより動かなかったせい。もう一本前のバスに乗らなかったことを、私は後悔していた。 義兄はすでに来ていて、奥の席で煙草を吹かしている。私に気づき、軽く手を上げた。 「遅れて、ごめんなさい。待たせたかしら」 視線を灰皿にやると、たくさんの吸い殻があった。聞くまでもなく、待たせたらしい。 しかし、義兄は吸っている煙草を揉み消しながら、首を横に振った。 「いや、そうでもないよ」 そう言って、軽く笑う。 そうかしら。それならいいんだけど。そう答えながら、私は義兄の向かいに座った。注文を取りに来たウェイトレスに、コーヒーを二つ注文して、義兄に向き直る。 「急な呼び出しでごめんなさい」 「いや、別に構わないよ。で、話って何だい?」 「今日、役所へ行こうと思っているの。籍をぬこうと思って」 義兄を見ながら、淡々と言った。 「それを、直接会って伝えたかったから」 「そうか」 義兄は表情を動かさず頷く。言葉を続けたのはその少し後。 「ついに、上条君と結婚するんだね?」 「ええ」 「そうか。そいつはよかった」 義兄が笑顔を見せた。そして、もう一度よかった、と言った。 その笑顔に、私は問いかける。 「本当に、そう思っているのかしら?」 幸彦さんの家族と初めて会ったのは、つきあってから一年がたった頃だった。 兄貴だよ、と照れくさそうに、そして誇らしそうに紹介されたのを覚えている。私たちより五つ年上の義兄は、数年前までは幸彦さんの保護者も兼ねていた。そして唯一の家族でもあった。両親は早くに亡くしていたそう。 その幸彦さんとの結婚生活は、三ヶ月で終わりを迎えた。 交通事故だった。彼の両親と同じで。 それから、つきあってから終わりまでの延べ一年三ヶ月の重さが、私を直撃した。その重さをそれなりに受け止めるまでに、その四倍の時間を要した。 その長い間、私を支えてくれたのが義兄だった。 もっとも、直接励ましてくれたことはあまりない。当初、幸彦さんとの新居で、遺影に見つめられながら茫然と座っているだけの日々を過ごしていた時ぐらい。その時も、ほとんど言葉はかけずに、食事を作ってすぐに帰っていた。 義兄が私を支えてくれたのは、直接的なことではなく、むしろ私が立ち直る環境をつくってくれたことである。例えば、幸彦さんの死後、払える人間がいなくなった新居の賃貸料を払い続けてくれたから、私はそこに住んでいられた。結婚退職していた仕事を探す手伝いをしてくれたから、私は生活できている。そして、私が納得するまで幸彦さんの妻でいつづけることを了承してくれた。 私はその間に、心の再建をしつつ、新たな人生を歩み始めた。 上条洋一さんと出会ったのは、新しい職場に入ってすぐだった。交際を申し込まれたのは、それから一年後。私がそれに答えたのは、さらに三年後だった。 私が上条さんの気持ちに答えられたのは、義兄が常に相談にのってくれたから。 親身になって、というような相談ではない。義兄はそんな相談相手ではなかった。私にその時点時点での心情を吐露させるだけ。そして、その感想を言う。だが顧みれば、私が上条さんの気持ちに答えられる心境に落ち着くよう誘導していた。 私は本当に義兄に感謝している。 だが。 義兄はそれで良かったのだろうか。 私だけが、絶望から立ち直っていいのだろうか。 とりとめもない、それでいて深刻な疑問が、私の心中にわだかまりとなって残る。 それを聞いてみたい。そう思っていた。 「ん?」 義兄は、私の質問にわけがわからないといった風。眉根を寄せて、私を見返した。 「義兄さんは、本当に私が結婚してもいいの?」 義兄は、瞬きを繰り返す。頭の中で、私の言葉を反芻しているよう。しばらく、返答はなかった。 それは、と口を開いたのは、たっぷりと二十秒たった後。 「幸彦のこと……かな?」 自信なく聞いてから、多分そうだろう、という結論にいたったようで、安心させる意識が見え見えの口調になって言葉を続けた。 「君は幸彦を本当に愛してくれた。そして、今は上条君を愛している。それでいいんじゃないかな。幸彦の死後まで、弟かわいさに君を縛ることはしたくないし、その辺のことに私にはわだかまりはないよ」 その言葉に、私は首を横に振る。 義兄は、戸惑いの表情を見せた。 「そんなことじゃないの」 「というと?」 「義兄さん自身は、ということ」 「私、……自身?」 義兄が、ますますわからない、といった顔になる。 「義兄さんは、私の結婚をどう思いますか?」 「そりゃ、嬉しく思うよ。あの時の君は、冗談抜きでどうにかなりそうだったから」 「それだけ?」 今思えば、現実に向き直っていく過程で、私は義兄に惹かれていたのかもしれない。確信はないが、そのように思う。上条さんへの好意を私自身が認めた時、不意にそう思ったのだ。 では義兄はどうだったのだろう。 幸彦さんの生前も死後も義兄の態度は全く変わらなかったから、忘れがちになっていたが、幸彦さんを失った衝撃と痛みは義兄も受けているはずなのだ。 義兄は、一人で心を再建し立ち直り、私を支えた。その時、義兄はどのような思いで私に接していたのだろう。義兄が私のためにかけた時間は、もう戻らない。 「君は何を聞きたいと言うんだ?」 長く息をつきながら義兄は聞いた。 「あの時、義兄さんはどんな気持ちであたしといたのかしら……?」 どちらかがどちらかを求めていれば、違う今になっていたのだろうか。 「つまらないことを」 義兄はそう言いながら、手元の箱から煙草を取り出した。 ライターで火をつけ、一服する。 すぐに揉み消して、言う。 「結婚式の日、いい天気になるといいね」 「……え?」 「その日の天気ってわかるかな?」 「わかるわけないじゃない」 「そうか。じゃあ、こうしよう。その日の天気で私のあの時の気持ちを決めたらいい。多分、それだ」 義兄が微笑して立ち上がる。 「じゃあ、お幸せに」 そして、去っていった。 一年がたった。 九月三十日。 私は朝起きて、すぐにカーテンの前に立った。深い色のカーテンは外の景色を遮断している。 「ん、どうした?」 ベッドで眠っていた洋一さんが、寝惚けた声で聞いてくる。 ちょっとね、と答え、私はカーテンに手をかけた。そして、一つ間を置いてから、ゆっくりと開く。 「結婚式日和の、いい天気かい?」 「いい天気だわ。……でも、雨が降ってる」 へえ、と言いながら、洋一さんが私の隣から、窓の外に視線をやった。 空は晴れていた。 だが雨も降っていた。 「きつねの嫁入りってやつか。よくわからない天気だよな、これって。良いのか悪いのか」 洋一さんが顔をしかめる。 「そうね、わからないわね」 私は笑った。 そういうことなのかもしれない。そう思った。 「どうかした?」 洋一さんが、私の笑いに不思議な顔をする。 私は、首を横に振りながら答えた。 「違う今のことなんか考えても仕方がないということよ。私はあなたと生きていくってこと」 私は今日、洋一さんと結婚する。 だから、九月三十日は、結婚記念日となる。 それは即ち、義兄と無関係になった日でもある。 〈了〉 |