烈女・畠山勇子さんを知っていますか?

2007年6月11日



私、5月6日の日に「末慶寺」に畠山勇子さんのお墓をお参りしてまいりました。

この方は「大津事件」の時にニコライ皇太子への謝罪の遺書を残して自決した女性です。

簡単に説明しますと、ロシアの皇太子ニコライが来日している時に警備に当たっていた

警官が突然切りかかり、ニコライはその時に負傷してしまいます。

幸い、人力車を押していた人達などがその警官を取り押さえて大事には至りませんでしたが

その後、明治天皇が急遽お見舞いに奔走するなど日本中が大騒ぎになりました。

当時、日本はロシアから見ると弱小国であり、これを口実に戦争やら賠償やらと

どのような要求を突きつけられるか?

その対応を誤れば日本の存亡すら危うくなる大問題でした。

ロシアはその犯人の死刑を日本に望み、死刑でない場合は破滅的な結果を

招きかねないという趣旨の圧力をかけてきましたが、ここで日本は大日本国憲法を

すでに作っており、その法の厳正な適応をすれば、犯人を死罪にする事は出来ないと

いう事になったから、大問題になってしまいました。


が、結果的には三権分立の立場から、司法への行政の干渉を遮り、司法は厳正な

法の適応を貫いて、犯人を死刑にしませんでした。

この判決によって、ロシアと戦争になって、何百万人もの死傷者を出し、ロシアの

植民地として奴隷として生きて行かなければならなく事も覚悟の判決でした。

「この判決でロシアと一戦交える事となれば、責任を取って我々が最前線で銃を握ろう」

と、当時の最高裁判官に当たる児島惟謙(こじま これかた)は覚悟の程を見せたといいます。


この事件は日本が「法律」を整備して、その「法律」に則って行動していく、先進国の

必要条件である「法治国家」を貫いた事を意味します。

自国の自存を賭けてまで、「法治国家」を守ったのです。

その事は、後に大きな意味を持ってきます。


もしも、安易に法を捻じ曲げて、ロシアの顔色を伺う為に犯人を死刑にしていたら

日本は、ころころと法の解釈を都合よく捻じ曲げる国で、「野蛮な国」であると、

とても先進国の仲間入りを果たしていないと、国際社会に受け取られしまうところでした。

そして、その後に日本はそれまでの不平等条約を対等な条約へと改正して行きます。


しかしながら、この犯人を死刑にしない事でロシアと一戦交えていたら、当時の日本では

とてもロシアに歯が立つはずもなく、日本の命運は風前の灯火にも等しかったでしょう。

この判決を受けてもロシアと戦争にもならず、領土や賠償金の要求も無かった事は

当時のロシアが日本に対して友好的であった事も大きいとは思いますが、

畠山勇子さんの命を賭しての償いや日本国中からよせられた謝罪とお見舞いの

言葉、明治天皇の誠意ある対応なども大きかったと思います。


この国の歴史の中には、そうやって、祖国「日本」を愛し、そして守ってきた多くの

人々がいて、初めて成り立っているのです。


私も現在の日本の危機に際して、今一度「烈女・畠山勇子」の勇気を見習いたく

お墓参りにいかせて頂きました。