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寺田悳英牧師/説教の概要 説教音声
【6月23日の説教の概要】
 「律法の完成」マタイによる福音書5章17節〜20節
 教会の中に「律法」を軽んじる空気が出て来ました。パウロは云いました。「律法は神から与えられてた戒めとして、それ自身は正しいものである。しかし律法を完全に守ろうとすると人間はみな行きづまってしまう。律法は人間の罪をあばき出して地獄の底に落とすことしかできない」。これを聞いた人達は「だから律法は守れる範囲でまもればいいのであって、これをまともに相手にする必要はない」と云いました。そういう風潮に対してイエス様は「わたしは律法を廃するためではなく、完成するために来た」と云われました。これは律法の戒めを完全に守れとおっしゃっているのではなく、律法の前にうめくしかない私達に、ご自身が代わって律法を守るから、この私により頼みなさいと云われたのです。私達が苦心して律法を守る義よりも、イエス様が私達の分まで守って下さる義のほうがはるかに完全な義なのです。
 
【6月16日の説教の概要】
 「世の光」マタイによる福音書5章14節〜16節
 「あなたがたは世の光である」。イエス様は私たちにそう云われました。なんと嬉しいことでしょう。しかし、ひるがえって考えた時、私たちは果して世の光となれるでしょうか。この世は厳しく、せちがらい世です。少しでも厳しい風にさらされると、私たちは周囲を照らす光どころか、反対にシュンとなっていじけてしまいます。しかしそれでもイエス様は「あなたがたは世の光である」と云ってくださいます。何故でしょうか。これはイエス様が私たちを世の光へと造り変えて下さるからです。そもそも私たちは光ではありません。光はイエス様お1人です。いわばイエス様は太陽であり、私たちはイエス様の光に反射して輝く月のようなものです。ザアカイは町のみんなから嫌われていましたが、イエス様の愛の光に照らされて全財産の半分を貧しい人々に捧げました。彼もイエス様の光に照らされた1人です。
 
 
【6月9日の説教の概要】
 「一番強い人」マタイによる福音書27章38節〜40節
 イエス様が十字架にかけられた時、そこにむらがった人達はイエス様に云いました。「おまえが救い主と云うなら十字架からとび降りて見よ。人をすく前に自分を救え」。イエス様は十字架からとび降りることはわけなく出来ました。ガリラヤ湖の嵐を一言で静めたお方です。しかしイエス様はとび降りられませんでした。それはイエス様がご自分の命を捨てて私達が神の前に犯している様々なよくない考えやしている罪の身代わりとなるためでした。そして私たちを神の国に導かんとして下さったのです。ですから十字架からとび降りなかったところにイエス様の救い主たる所以があるのです。イエス様の考えて下さる救いとはこの世でお金をもうけたり、立身出世をしたりすることではありません。私たちを神の国の勝利に招くことなのです。イエス様を信じればどんな人もイエス様の功によって神の国へ行けるのです。
 
【6月2日の説教の概要】
 「地の塩」マタイによる福音書5章7節〜13節
 「あなたがたは地の塩である」。この聖句は日曜学校でよく説教箇所に取り上げられました。先生は生徒に尋ねます。「塩はどんな働きをしますか」。生徒たちが「料理の時、よい味付けや食べ物が腐らないように防腐剤の働きをします」と答えると、「ハイ。よく出来ました。皆さんも社会の中でよい味付けをする人、また世の中が腐らないよう防腐剤の働きをする人になって下さい」。そう云って説教は終わります。しかしよい味付けをすること、また防腐剤の働きをすることはどういう働きをすることでしょうか。これが分かるには今日の聖句の前の聖句に注目しなくてはなりません。5章11節。「わたしのためにののしられる時、あなたがたは幸いである」。イエス様につながって歩む時、どんな困難もそれは神の恵みを証する時となるのです。この不動の平安と喜びこそ「地の塩」の働きなのです。
 
 
 【5月26日の説教の概要】
「幸いな人」マタイによる福音書5章1〜6節
 「心の貧しい人々は幸いである」。「幸いである」は現在形です。現在形には現在のことを云い表わす用法と永遠のことを云い表わす用法があります。イエス様は永遠のことを云っておられるのです。どんな困難があろうと、またどんな苦しみ、悩みがあろうと、そうしたことでは決して消え失せはしない幸いを云われたのです。それは神がいつも共にあって下さるという幸いです。「心の貧しい人」を「心が謙遜な人」と理解する場合があります。イエス様はそういう美徳を云われたのではなく、無力で神に頼る以外なにもない貧しさを云われたのです。そういう人としてパウロをあげることができます。パウロは「貧に処する道も、また富に処する道も知っている」と申しました。それはどんな境遇にあっても神が共にあって自分を守って下さるという信仰がある幸いです。私達もこの幸いに歩んでいきたいです。
 
 【5月19日の説教の概要】
「だれでも弟子に」マタイによる福音書4章18節〜22節
 イエス様がガリラヤ湖の岸辺を歩いていた時です。ペテロとその兄弟アンデレが漁をしていました。イエス様は彼らに云われました。「私について来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。すると2人は「すぐに網を捨てて従った」とあります。私はペテロたちの勇敢な決断力に感心しました。しかしその一方で「こんなに即座にイエス様に従っていいものだろうか。あとから後悔するのではないか」とも思いました。この場面を記したルカによる福音書を読みますと、ペテロはやみくもにイエスに従ったのではないのです。イエス様の説教を聞き、また素晴らしい大漁の奇跡にもあずかって「このお方に自分の人生の指導者になっていただこう」と思って、イエス様に従ったのでした。私達も自分の決断力を中心にするのではなく、どこまでもイエス様のお言葉と御業にあずかって行きたいと思います。

 
 【5月12日の説教の概要】
「誘惑ーその3−」マタイによる福音書4章8〜11節
 イエス様は悪魔の誘惑を受けられました。しかし悪魔は存在するのでしょうか。漫画に黒装束に身をまとった悪魔が登場しますが、あんな姿を見た人は1人もいません。ですから悪魔は人間が勝手に考え出した作り物だと云う人もいます。以前私は「40日40夜の試練」と題した絵を見ました。そこには荒野に1人イエス様がひざまづいて祈っている姿だけがかかれていました。私は思いました。悪魔は人間の目には見えないけれど確かにいると。決して人間の想像上の産物ではない。私達を誘惑してやまない者が確かにいる。悪魔は三度イエス様を誘惑しましたが、いずれも失敗します。しかしそれで終わりではないのです。時を見計らってまたイエス様を誘惑して来ました。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように神の武具を身につけなさい」(エフェソ6・10)私達も油断なく、一生涯御言葉と祈りで誘惑を退けねばなりません。
 
 【5月5日の説教の概要】
「神を試すな」マタイによる福音書4章5〜7節
 神の愛が分からなくなる時があります。そんな時私達は神がこの自分を愛してくれているか証拠がほしくなります。そしてしなくてもいい危険なことをしてその危険から自分を助けてくれるか調べようとします。しかしイエス様は「神を試してはならない」と云われました。では神の愛が分からなくなった時、私達はどうすればよいのでしょうか。そんな時はあせらず、あわてず、しずかに心を神の御言葉に向けることです。御言葉に耳を傾けると危険なことをして神の愛を確かめるよりもっと明確に、もっと確かに神が自分を愛していて下さることが分かります。私は夜中に目が覚めて一人ふとんの上に座っていると云いようのない不安におそわれることがあります。そんな時は静かに神に祈ります。すると「安心しなさい。私である」というイエス様のお声が聞こえて来るのです。平安が与えられてまた寝るのです。
 
 【4月28日の説教の概要】
「神の口から出る言葉」マタイによる福音書4章1〜4節
 イエス様は伝道活動を開始される前に悪魔の誘惑を受けられました。誘惑には2つのケースがあります。1つは受ける必要がないのにこれを招き入れるケースです。最初はほんの出来心で乗っかってしまっても後から大変な苦しみを負うことになります。ですから受ける必要のない誘惑には最初から乗らないようにすることが大切です。もう1つのケースはどうしてもその誘惑と闘わねばならないケースです。イエス様がここでお受けになった誘惑はこのケースでした。イエス様は人々を神のもとへ導くことが使命です。それに対し悪魔は人々を神から引き離そうとすることが使命です。イエス様と悪魔はどうしても闘わねばなりませんでした。イエス様は神の御言葉と祈りをもって悪魔と闘われました。私達も自分の力で悪魔を倒せると思うのではなく、御言葉と祈りをもって悪魔の誘惑を退けねばなりません。
 
 【4月21日の説教の概要】
『主イエスの復活』マルコによる福音書16章1節〜8節
 この世はいつ何が起こるか分かりません。「こうして」「ああして」と人生設計を立てていても、ある日思いもよらぬ患難がおそってきてその計画を破壊してしまいます。このような人生においてなお確かな希望を持って歩めるとしたら、それはどんな希望でしょうか。それは私たちに復活の希望が与えられていることです。イエス様は云われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」。
 ある牧師はイエス様の復活が信じられなくって困っていました。ある日一人の長老が「復活はあります」と云われました。長い間、復活が分からなくて困っていた牧師は「どうしてそんなことが云えるのか」と思いました。するとその長老の方は「聖書に復活はあると書いてあるから復活はあるのです」と云われました。それが聖書を信じるということであります。
 
 【4月14日の説教の概要】
「神の愛」 ルカによる福音書15章11〜24節
 放蕩息子のたとえ話です。父親の財産から自分の相続分を今ほしいとねだった息子はそれをもらい都会に出ました。しかし都会で遊び暮らす内、持ってきたお金を全部使い果たしてしまいました。そして明日食べる食事代にも困るようになりました。今さらお父さんの所に帰れるはずもないし、息子は困り果てました。そこで息子は息子としてはダメでも、雇人の一人としてなら受け入れてもらえるかもしれないと故郷に帰ります。一方お父さんは息子が帰ってくるのを一日千秋の思いで待っていました。息子を遠くに見つけると自分のほうから走り寄って息子を抱きしめました。これはイエス様が聖書の神はこのような方であると教えてくださったのです。私達が神と共に歩んでいくこと、そして最後は神の御国に迎えられることこそ私達の幸せです。毎週の主日礼拝で私達はこの神の愛を確認し、世の歩みへと送り出されて行きます。
 
 【4月7日の説教の概要】
「神が共に」 出エジプト記14章1〜4節
イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷生活を送っていました。仕事は厳しくイスラエルの民は他国へ移住したいと思いました。しかしエジプトの王ファラオは容易に解放してくれませんでした。それどころか益々厳しい重労を課したのです。イスラエルの民は悲鳴をあげました。これをご覧になられた神は、ある不思議な出来事を通してイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さいました。ところがイスラエルの民がある所まで逃げて来た時、神は「今、来た道を引き返せ」と云われました。イスラエルの民は「どうして」と思いました。しかし神は云われます。「私はファラオとその軍勢を破って栄光を現わす」。私たちも時々「どうしてなんだ」「なぜこうなったんだ」と合点がいかなくなることがあります。しかし神は信じて来る者を決して見捨てられません。合点の行かぬこともご自身の栄光を現わす時として下さるのです。