悪に勝ちなさい
ローマの信徒への手紙12章17〜21節
 25日のクリスマスは、土師教会の子どもクリスマスでした。今年も計画を立ててから実行するまでにちょっと苦労しました。日程の変更、担当教師、参加する子どもたちのメド、などなどでした。今年も河内敦子、岩崎ちとせ長老をはじめ、姫路からの河島志穂子姉、サンタの磯野良嗣長老の献身的なご奉仕に支えられて心和む子どもクリスマスを持つことができました。
 お客さんがありました。丹波篠山からの翻訳家の愛沢革さん、と、東大阪市で喫茶美術館を経営している詩人の丁章(チョン・ジャン)さんが参加してくださいました。お二人とも東大阪市が採択決定した育鵬社の日本史教科書に反対する市民の会の中心メンバーです。これは美しい日本を取り戻そうとするスローガンを掲げて日本歴史を美化して正当化する日本文化会議の一連の運動に絡んで登場した危ない右翼主義に根差して、育鵬社の教科書を推薦する極めて危険な運動体と連動しているので、真っ向から批判反対する声明を公表しています。子どもの教育には並々ならぬ深い関心を寄せています。
 お二人が、教会のクリスマスに出席したいと伝えてきたのです。私のお話はありませんと伝えたのですが、結構ですとの答えでした。
 子どものクリスマスが終わって、お二人と牧師館でお喋りを楽しみました。朝鮮・韓国問題はお二人と私ども夫婦は共通の話題をたくさん持っています。丁章は、四年前にご家族そろってこの土師教会の礼拝に出席して下さいました。丁章、彼は朝鮮籍です。現在日本は北朝鮮とは国交回復していませんから、言うなれば朝鮮籍と言う事実上の無国籍ということになります。彼は自分のことを在日サラムと言っています。在日人間という意味です。無国籍扱いとうことは、選挙権なし、パスポートなしですから、社会福祉などの援助対象から外されているわけですから、彼がどうやって大阪外国語大学を卒業できたのか不思議でその背景を聞いたことはありません。奥様は日本人で同じく大阪外大出身。現在府立高校で中国語を教えています。愛沢さんと丁さんは、子どもクリスマスに集まった七人の天使たちの無邪気な生き生きとした好奇心や目の輝きに注目していたらしく、「輝いていた」と絶賛してくれました。
 終わった後、牧師館で雑談に熱中して時間を費やしてしまったのでタクシーを頼んだのですが、クリスマス休暇と寒波が重なったために、なかなか来てくれなかったので暮れなずむ年末の土師のバス停留所から百舌鳥駅を目指して徒歩で歩き出しました。お二人は教会のクリスマス経験は初めてだそうです。疲れましたが、充実したクリスマスでした。
 さて今日のテキストはパウロのローマの信徒への手紙の12章の前半、小見出しは、「キリスト教的生活の規範」です。規範の意味は、基準、モデル。ああ、紋切型の道徳的説教は厭だなあと愚痴を言う前に丁寧に読んでみましょう。
 12章の始まりは、291頁の下段」ですが「キリストにおける新しい生活」と銘打ってあります。
 冒頭の1節をご覧ください。
 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 
 どうですか。襟を正して聞くべき言葉だとは思いませんか。これは神さまからの命令ではありません。使徒パウロの言葉なのです。
 ダマスカスへローマの街道で、突如生きているイエスさまに出会ったパウロその人が何を隠そう、キリスト教徒をユダヤ教からの異端として徹底的に弾圧して迫害した指令総監だったのです。パウロはその場で出現されたイエスさまの前に改宗し、キリスト教に転向した事実は、使徒言行録の通りです。
 そのパウロが書いたローマの信徒への手紙の1節なのです。ローマの教会はローマ帝国の首都であり、徐々にキリスト教信徒が立てた教会が権威と力を身に着けて行った時代と重なっているのです。やがて三百年余りを経て軍事力によって世界を制圧したローマ帝国は、キリスト教を国教として認めざるをえなくなった。その理由は、歴史家の分析によって定説はありませんが、キリスト教徒の信仰から一つのヒントを見出すことは共通点です。
 その背景を考えるときに、キリスト教信仰が、神に対する絶対的な信用(信頼)に立って構築されていると言う事実に注目したいと思うのです。そこから、今拝読した12章冒頭の1節が引き出されているのです。「自分の体を生ける聖なるいけにえとして献げなさい。」 この言葉に立ち竦むような緊張感を覚えなかったら、今日の9節からの小見出し「キリスト教的生活の規範」という看板は空々しく思えることでしょう。
 聖書は、自分勝手に都合よく切り取って道徳訓として掲げている限り、私どもの魂に突き刺ささらない。神さまからの慰め、憐れみ、慈しみなどは、苦く辛く痛いものなのです。歯を食いしばってそれらを味わう時に、蜂蜜の甘さが浸み込んでくる。
 新共同訳の編集委員会は、なぜキリストにおける新しい生活とキリスト教的規範などという見出しを付けたのでしょう。それがパウロの真意であると言いたかったからです。
 そのパウロの真意は、1節の「兄弟たち」に根差しています。これは明らかにキリスト教徒に与えた手紙なんです。そして兄弟姉妹たちという真意です。現在の日本でも「あそこの兄弟たち」という場合には、姉妹も含まれていることが多々あります。復活のイエスさまを契機として成立した教会を意味しているのです。神さまの前のあなたと私の一人一人が連帯して構成する神の体としての教会が、教会として取り組むべき重大事項を諄々として説いているのです。教会が拠って立つものはイエスさまに与えられた愛の力です。もうお分かりになったでしょう。ここは教会の愛に基づく倫理的規範の確認およびその実行方針なのです。教会とは復活の聖霊に満たされた愛の共同体です。この共同体倫理の確立を目指してパウロが奮闘しているのです。
 あの二千年前、ローマからのローマへの軍事道路は、民間人にとっては苦労や難儀な街道でした。海上では遭難、街道では強盗、野獣の襲来に怯えて、おまけに病気との戦いを引き受けたパウロの異邦人世界への伝道がいかに苦難にさらされていたかは、使徒言行録が余すところなく伝えています。ただしパウロの最後については聖書は一行も書き記してはいません。伝承によれば、使徒たちは全員迫害のさ中、殉教したと伝えられています。
 彼らの死の真相は、すべて伝説に閉ざされています。
 今分かることは、ローマ帝国がやがてキリスト教国に転換した事実です。
 その歴史をどう理解するかはもう一つの難題です。
 私自身の関心は、17節以下です。年々強化される迫害の中で、キリスト教徒は、どう生きていたのだろうかです。18節、「できれば、せめてあなたがたは」できれば、せめて」という究極的な祈りは、「すべての人と平和に暮らしなさい」という屈折した表現は、ほとんど実行不可能ななことは自明です。行19節、「愛する人たち、自分で復讐せず、神に任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いてあります。この論理の展開の背反、祈りの背反の中なかで呻いているパウロが見えてくるのです。
 さあ、この土師教会はどうしたらいいのでしょうか。
 「悪に勝ちなさい」は、まさにパウロの呻きなのです。同時に私ども21世紀のキリスト者の信仰の呻きなのです。目に見える迫害は今のところ射程距離の範囲にありませんが、分かりません。この時代を危機感を持って見詰めているみなさんもいるでしょう。私もその一人です。
 キリスト者の信仰の実体は、苦くて辛くて痛いものなのです。が、やがて蜂蜜の甘さに慰められる。希望を抱いてこの時代を生き抜きましょう。祈ります。
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