人間を照らす光
ヨハネによる福音書1章1〜5節
 1999年9月中旬から韓国釜山市にある新羅大学に赴任した私は、大学のキャンパスが広大なのにびっくりしました。韓国一長い洛東江(ナクトンガンという名のサンズイの江です)を遙かに見渡す山全体が大学で、キャンパスまでは大学下から、5、6ルートの路線バスが乗り入れているのです。
 やがて、私は、1978年の春以来、22年ぶりの韓国での春を迎えました。韓国で真っ先に咲く春の花連翹が、真っ黄色に染まって、大学への幅の広い坂の両脇を、縫い上げています。
 そして4月上旬になると全山のアカシアが藤に似た真っ白な花の房を垂れて匂うのです。その甘い香りに蜜蜂が群がっています。夕方になると夕闇に包まれて中腹の寺に提灯の灯が灯って、賑やかな踊りを伴った読経が聞こえて来ます。

  チャンチャン 
  キンキン 
  チャーン チャンチャンチイーン
  ナムアミタープル ナムアミタープル

 (南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏)というお祈りなのです。
 鉦の音などを交えた陶酔したような踊りの輪が広がりくねり夜中まで続くのです。何事でしょう。
 翌朝横断幕に黒々と「祝 釈迦生誕」という文字が目に飛び込んで来ました。誕生祭は何日間も続くのです。
 日本の四月八日の釈迦誕生祭りの、甘茶で和やかなのんびりとした一日行事とは180度の大違いなのです。韓国では仏教の礼拝は五体投地、チベット仏教に近い祈りの姿なのです。
 佛教が信仰として生きている、そんな感じです。この釈迦誕生祭りの週間中、町の寺院では政治家の選挙演説かと思われるほど、マイクを握ってお坊さんが仏教の何たるかを叫ぶようにぶちあげるのです。大勢の人々が群がって聴き入っています。日本のライブ公演に近い。
 ところが、日本のキリスト教教会のクリスマス(降誕祭)は、どちらかというと厳粛ですが、固いなあと思います。っもっと元気が良くて賑々しい誕生パーティでもいいはずです。ただし品位は必要です。
 さて、日本の歴史的なある場面に目を移しましょう。
 1922年(大正11年)3月3日、京都市岡崎公会堂で、水平社宣言がなされました。被差別部落の解放(解き放ち)を目指した水平社結社大会が開催されたのです。奈良の被差別部落の西光万吉青年の宣言書が読み上げられました。日本最初の人権宣言です。たしか、今年度の世界記憶財産になったと聞いております。
 初代牧師佐治良一が生涯をかけて取り組んだ被差別部落解放運動の影響のもとに生きている皆さんは、すでにご承知の内容だろうと思います。
 殉教者(被差別部落の民)がその荊冠(荊の冠)を祝福される時が来たのだ。

  人の世に熱あれ
  人間に光あれ

 という有名な言葉が散見されます。
 水平社の旗がイエスさまの荊冠旗であることはご承知の通りです。そして今改めて宣言書を読み直していると 「荊冠、熱、光」というキーワード(鍵となる言葉)がみな聖書から出ていることに新たな感慨を持つはずです。
水平社の被差別解放運動は明らかにキリスト教の刺激の下に結実したのです。
 しかし、この点をあまり強調すると異論があるということを知っておかなければなりません。宣言文をよく読んでこの問題を整理します。
「祝福される」という部分で祝福するのは誰かが表現されていません。が、祝福されるのは人間であるのは明らかです。
 「人の世に熱あれ」と熱情的に叫ぶのはあくまでも人間自身なんです。「人間に光あれ」も人間が主体なのです。
 厳密に言うと、ここが聖書との違いなのです。聖書は、祝福する、光あれ と命じるのは、神さまなのです。主語は神です。
 被差別解放運動はキリスト教思想に立っている強烈なヒューマニズム思想なのです。ただし私どもに与えられているキリスト教信仰とは一線を画すのです。この微妙な違いを押さえた上で、私は被差別解放運動の支持者です。
 ベツレヘムの夜、泊まる宿屋がなく、民家の家畜小屋の石の冷たい飼葉桶に生まれた赤子を寝かせるしか方法がなかったヨセフとマリア。赤子のイエスさまは、まさに絶対貧困のただ中に絶対貧困の人間の赤子としておうまれになられたのです。父ヨセフと母マリアの胸の内はどんなものだったのでしょうか。寒さと非衛生の中に誕生されたイエスさまを想像すると、胸がつぶれそうになります。イエスさまを見詰めて、二人は語るべき言葉をもたずに沈黙の時を重ねていくのです。
 その時、夜通し羊の群れの番をしなければならず、ひもじさと緊張と睡魔と戦っている羊飼いたちのただ中に、「今日神の子が生まれた」というグッドニュース(福音)がもたらされたのです。この世へと神の子が降って来たのではない。この世の貧しさとひもじさと緊張の現場に来られた神の子であるイエスさまと羊飼いとの出会いこそ、クリスマスのクライマックスであったのです。
 創世記1章3節を思い出してください。
 3節、「神は言われた。『光あれ。』 こうして光があった。」 
 今日のテキストはヨハネによる福音書1章です。163頁の4節をご覧ください。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
 旧約から新約まで一貫しているのは、神が言葉を通して私ども人間の前に現れるという事実です。神が行動するのか、言葉が行動するのかと言えば、神は言葉であるというのが分かりやすい。
 冒頭の一節を振り返ってみましょう。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 
 とあります。ヨハネによる福音書は、ギリシア哲学に強く影響されていると言われますが、難しいことはない。キリスト教は言葉の宗教だと言えば平凡ですが、これを煮詰めて追及して行けば、「言は神であった。」 という比喩が単なる説明ではなく、まっすぐに事実だということを受け入れることができるのです。そして事実は言葉が出来事になるということに気が付くとき、神は行動するという事実が鮮明になるのです。出来事になった言葉がイエスさまなのです。
 5節、「光は暗闇の中で輝いている。」 のです。
 天使のメッセージを胸に留めたからこそマリアは祝されたのです。マリア賛歌が私どもの心を打つのは、この理由なのです。たんなるマリアの子ではない。言うなればマリアの子であるイエスが、神の子であり、私どもを解放した救い主であると証しし続けるのです。私どものために生まれたひとりのみどりごがイエス・キリストさまであったことを感謝して今日のクリスマスをお祝いしましょう。
 祈ります。
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