野宿をしながら
ルカによる福音書2章8〜21節
 いよいよクリスマスです。わくわくどきどきです。私は、磯野英子姉のおかげでヴィーナスクラブ深井(深井の源平付近にあるリハビリ訓練所)のお世話になってもう半年近くになっています。支援、介護一からの御爺ちゃんお婆ちゃんの健康維持の保育園だと思えばいいでしょう。先週この高野山裏街道角の家の小泉さんの元気の良い奥さんにそっくりのトレイナー(運動指導員)に、話しかけられて驚きました。そっくりどころかオリジナルだったのです。つまりご本人です。一去年の夏のお泊り会にお子さん二人が参加して元気な母子だなあと思ったものです。その後もしばしば目に留まっていました。
 そして、ヴィーナスにはY君という二〇代後半の青年がいます。土師町生まれだと言います。
 「あの教会の牧師さんなのですか?」と尋ねられました。彼はスポーツがお得意。旅も好きだ、リュック一つで海外も訪れる。先月は沖縄の宮古島の田舎風景を満喫してきたそうです。Y君は人と話しをするのが大好き、キリスト教にも関心があるというので、冠婚葬祭と仏教と神道とキリスト教の関わりを少し話したら、へえ、そうなんだと率直に驚いていました。教会に行ってもいいですかと言うので、期待して日曜日の礼拝時間が近づくとそわそわして待っているのですが一向に姿を現しません。クリスマスが過ぎてしまうと私ばかりが焦っています。
 先週の木曜日にまた話し掛けられました。教会のホームページの説教欄を読んだらしいのですが、「あの日記を読んでいて、おもしろかった。良く書けていますね。学がある人の文章だなあと思いました。」 と感想を述べてくれました。どう受け取っていいのか、まだ分かりません。
 というわけで、お年寄りの保育園もなかなかいいもんです。
 話は変わります。さて、ユダヤ人と言えば、教会のみなさんは何を思い浮かべますか。イスラエルの国旗のダビデの星でしょうか。「ベニスの商人」のシャイロックでしょうか。新約聖書に登場してくるサドカイ派、ファリサイ派でしょうか。アウシュビッツ収容所でしょうか。あるいはアメリカの政界経済界の隠然たるユダヤ人ロビーでしょうか。
 さて、遠い遠い歴史を振り返ってみましょう。ユダヤ人が歴史に登場してきた最初は、どんな姿だったでしょうか。遊牧部族として登場して来ました。部族連合体から出発して、しだいに民族として目覚めて、やがてはイスラエルの民として王国を築いて来たのですが、その出発は遊牧部族です。しかも守り育てるのが容易でない牛や羊の牧畜を生業(なりわい)として来たのです。最大の難問は飲ませる水の確保です。世界中の人間が抱える共通の難問です。そして野獣、強盗の襲来です。とくに羊は、従順でおとなしくやさしくて無防備、しかも臆病なので、羊飼いの配慮と力がたえず要求されます。そこで安全が保証されるのです。そうして築き上げられた羊の群れと羊飼いの密接な関係が、旧新約聖書の神と人との関係を語っているのです。神からの視点で言えば愛、人からの視点で言えば信仰です。ダビデの系譜の掉尾を飾るのがイエス・キリストなのです。
 人間からの羊飼いに対する信頼に基づく信仰告白は、詩編23編が証言しています。
 旧約の854頁の上段の最後からをご覧ください。

  主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
  主はわたしを青草の原に休ませ
  憩いの水のほとりに伴い
  魂を生き返らせてくださる。
  主は御名にふさわしく
  わたしを正しい道に導かれる。
  死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
  あなたが私と共にいてくださる。
  あなたの鞭、あなたの杖
  それがわたしを力づける。

 良い羊飼いの理想の姿がここには活写されています。もちろん歴史的には悪い羊飼いもたくさんいて主に背を向けて来ました。詩編23編が描き出す姿は、言うまでもなくイエス・キリストさまの生き生きとした姿であります。つまり「ダビデのような羊飼いメシア像」が意識されているのですが、イエスさまは、さらにその姿を越えたところで人類史のただ中に現れて、ただ一回限りの決定的なドラマを演じて私どもを救済してくださったのです。それは十字架を舞台にした死のドラマです。恥辱と侮蔑のなかで死刑囚として惨殺された。その死が死で終わらなかった。復活して弟子たちに、人々の前に現れた。人間を罪から解放する復活の奇跡が起こったのです。その復活を証明する科学的な根拠はありません。そこが現代人の知性の嘲笑(あざ笑う)対象になっているのです。しかもそこが私どもの信仰を支えている原点なのです。羊のために命を献げて復活した羊飼いと共に生きている私どもが、クリスマスを祝うのです。
 この揺るがない信仰を語っているのがヘブライ人への手紙13章20節(419頁の下段)です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたちたちのの主イエスを引き上げられた平和の主が、みこころに適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
 さて、今日のテキストのイエスさまの誕生の場面ですが、ルカとマタイ福音書だけにイエスさまの誕生の夜の場面が描写されています。マルコとヨハネにはなぜ誕生の場面がないのでしょう。旧約のメシア出現の預言を基にしてイエスさまへの信仰告白としての福音書を編集するときにマタイはユダヤ人キリスト者として、ルカはギリシア人キリスト者として、マルコ福音書だけではモーセをはるかに凌ぐ偉大な預言者イエス・キリストの全貌を描き出せずに終わってしまったという結論をだしたのです。
 そして、イエスさまに関する伝承はいろいろ手にしていたのですが、それだけでは満足できなかった。聖者の生涯を描くには誕生と幼少期の描写は最低限欠かせない要素であるのです。マタイとルカは、イエスさまに関する伝承の下にさらに手を加えて創作したのです。ですから歴史的事実と会わない描写が出てくるのです。その辺では古代人はあまり気にしない」ようです。
 4節をご覧ください。
 「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」 のでした。7節、「飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 
 なぜ泊まる宿屋がなかったのかは書いていない。ルカは飼い葉桶に読者の目を集中させたかったのです。豪華な宿ではなく、民家の部屋でもなく、おそらくは、家畜小屋の石の冷たい飼い葉桶に。意外や意外。
 家畜小屋に神の子の誕生場面を設定したところがルカの狙いだった。王族、貴族の邸宅ではなく、ぎりぎりの暮らしを強いられている民衆の世界の出来事として神の誕生が展開する。まさに、いと小さきものの中に神は宿り給う、のです。
 そして小見出しの「羊飼いと天使」。
 8節、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」から始まります。町に定住できないあるいは定住を赦されない羊飼いたち、彼らはおそらくダビデの血筋ではないでしょう。が、命懸けで羊の群れの安全を守るという点では、まさにダビデの直系と言って良い。その彼らに天の大軍が現れたのです。「いと赤きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人に在れ。」
 ルカの意図はもう十分に皆さんに通じたことと思います。「ルカによる福音書」に続いて「使徒言行録」を執筆したルカはパウロに付き添ってローマ大帝国に福音を伝え人物であります。彼の確信は、すべての人を救う福音を伝えることです。とくに貧しい人々の救済を確信している。 
 ルカの伝える草原の説教は、
 
  「貧しい人々は、幸いである。
   神の国はあなた方のものである。」
 
 に始まって始まっているのです。
 初めてのクリスマスの夜の飼い葉桶と野宿しながらの羊の群れの番をしていた貧しい羊飼いたちに、真っ先にイエスさまの誕生が知らされたのは頷ける出来事です。
 さあ来週はクリスマスです。
 どきどきわくわくしてお迎えしましょう。
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