天の窓を開き
マラキ書3章6節〜12節
 とうとう三月になってしまいました。空の輝きは春です。土師では桃の花が咲き始めました。受難節第三聖日です。土師教会での旧約聖書を取り上げる説教も最後です。ですから旧約の最後のマラキ書から学びたいと思います。
 だいたい、旧約の十二の小預言書は普段読まない人が多いのですが、イスラエルの二つ王国の最後の歴史を神さまとの関係という視点で眺める点で理解しようとするならば最適の預言書群なのです。
 1496頁をご覧ください。マラキ書一章一節「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉」。 とあります。が、これ以外には一切預言者マラキに関する文書はないのです。マラキは、「わが使者」という意味す。が、人名としての固有名詞ではなさそうです。マラキという偉大な仮名を隠れ蓑にして語った預言者がいた、と理解したらいいでしょう。
 執筆の時期については、マラキ書からヒントが得られます。一章8節、「総督」という単語からは、ペルシャの支配下にあることを想像できます。それから今日のテキスとのある3章10節の「聖所」からは、すでに第二神殿が完成していて機能していることが想像できます。
 紀元前539年、ペルシャ王キュロス二世がバビロンを占領した後、ユダはペルシャ王国の一部として編入されました。ペルシャ王国はエジプトからインド亜大陸までかくだいされたのです。ペルシャ王国は、編入された各国のぶんか、宗教を認めてペルシャ帝国を築いて行ったのです。そしてキュロスは勅令を出して神殿の再建を命じたのでした。全捕囚民が帰還したのではなく、一部のユダヤ人がゆっくり間隔を空けて帰還して再建に携わったと言うのが」真実らしいです。六〇年近い捕囚体験の結果、多くのユダヤ人は望郷の念はあるにしても諸事情をかんがえると即刻帰還とは決心が付かなかった。ユダヤ人はそのごのローマ帝国の隅々まで移住して商才を発揮していくのです。
 さて、神殿は紀元前515年井献堂されました。
 今日のテキストのマラキ書には、その紀元前500年から450年の仇の状況が反映していると言ってよいでしょう。マラキ書1〜3章によれば、神殿では祭儀共同体センターとしての機能が果たせずに、崔たちの私利私欲がのさばり、無益な犠牲が献げられ、10分の1の税は実行しなかった。
 そして異教の女との結婚が流行して、神の前での結婚の意義が見捨てられるようになったことをマラキは怒りを込めて正しい結婚尾回復を期待して、警告している。
しかも司祭とレビ人を区別していない。
 ユダヤ人は内外共に一致団結してまとまる必要があったのです。つまり宗教的熱情の焼失が倫理意識の低下をもたらして、世界への懐疑主義が深まっていったのです。
 この堕落、弛緩状況を改革したのがエズラがエズラ、ネヘミヤであったのです。
 それでは肝心の三章に焦点を絞ってみましょう、
 1節、

   見よ、わたしは使者を送る。
   彼はわが前に道を備える。
   あなたたちが待望している主は
   突如、その聖所に来られる。

 マラキが特定の人物を固有名詞ではないということは先に申しました。イザヤ以来待望されているメシアがここにも言及されています。たの章預言者たちも言及していますがマラキ書までは、さらに絞られています。
マラキは、まさにさいごの警告者として1500頁、小見出しにあるように「悔い改めの勧告」をせまるのです。これはエレミヤがいっている言葉の繰り返しくりかえしでもあるのですが、マラキ書を最後に持って来た編集者たちは、知らず知らずの内に唯一信おみこころをしっかりと再確認して伝えてくれているのです。
 7節、

   立ち帰れ、わたしに。
   そうすれば、わたしもあなたたちに立ち返ると
   万軍の主は言われる

 神は十分の一の献げものを偽っていると厳しく迫って来ます。ここには申命記的な歴史観の深い影響が漂っています。ほんとに大切なもの、貴いものを、献げよと言っているのです。神によって生きると言うならば神に献げるものは最高の価値あるもののはずではないかと言っている。
 10節の神の答えを見てください。

   十分の一の献げものをすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。
   これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。
   必ず、私はあなたたちのために
   天の窓を開き
   祝福を限りなく注ぐであろう。
        
 「天の窓」も比喩なのですが、あえて想像してみてください。天の窓は、きっと地上に向かって備え付けられているのですから、神さまは天の窓から地上の私どもの献げものをご覧になって祝福を限りなく注ぐと言うのです。
 そして主は食い荒らす蝗を滅ぼして作物が荒らされず、畑のぶどうが不作にならぬようにすると宣言するのです。
 12節、

   諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。

 農民にとって作物が荒らされないこと、不作にならないことがどんあにしあわせなことか。農耕の民となったイスラエルの民にとおてこれが何よりもの祝福であったのです。
 マラキ書は、3章の後半、1501頁で、一挙に「主の日」という決定的な到来する日を描き出しますが、23節、
 
   見よ、わたしは
   大いなる恐るべき主の日が来る前に
   預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

 ここを読めば、皆さんは、十字架刑のあの現場を想起するでしょう。
 さらに、そのすぐ後を読みます。

   彼は父の心を子に
   子の心を父にむけさせる。
   わたしが来て、破滅をもって
   この地を撃つことがないように。

 これが旧約のラストなのです。当然皆さんは父と子と聖霊の三位一体のキリスト教を激しく思い描くでしょう。
 そして旧約聖書がここでまっすぐに新約聖書に向かい合って、しかも連続していることをあらためて認識し直すでしょう。
 ユダヤ教は、待望したメシヤがイエスさまであることを未だに認めていません。イスラエルは、未だにユダヤ教が国教に等しい政教一致の国家なのです。みなさbbがイスラエルを訪れたらプロテスタント教会を見付けしられないかも知れません。
 天の窓はマラキ書時代に開かれたのです。
人類がおのれの罪を悔い改めて、最後の一人まで主によって生きられるようになるまで語りかけていらっしゃるのです。それが神さまの御心であり福音であると断言して、それをじつげんしてくれるのがイエスさまでsると指し示して旧約聖書は閉じられるのです。
 今日、キリスト者として選ばれている私どもは、旧約と新約を通じて一貫して語られてかたられている神の御心に深く感謝しようではありませんか。
 祈ります。
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