悪を愛する者
ミカ書3章1〜4節
 先週は寒い日が続きました。16日(火)は、風がことに強い日でした。妻と私は、梅田駅から見えるひときわ背の高い空中庭園を誇る双子ビルの四階にあるシネ・リーブルという映画館を訪れました。妻の強引とも言うべき誘いに乗せられて、辿り着いた映画館シネ・リーブル。実験作、問題作を上映する自由映画劇場です。題名は、「サウルの息子」、 題名からして旧約聖書を素材にした聖書シネマかなと思う人がいるでしょう。
 そのとおり旧約の登場人物名です。じつはこの映画は中央ヨーロッパのハンガリーのユダヤ人監督が撮ったユダヤ人虐殺の映画です。監督の身内にも犠牲者がありました。と言えば、アウシュビッツ収容所が頭に浮かび上がるでしょう。
 去年2015年度カンヌ映画祭を震撼させた衝撃的な映画です。その結果長編映画第一作でグランプリを攫ったのです。人類史上の負の財産、アウシュビッツ、ビルケナウ強制収容所の500万人ともいわれる大量虐殺の事実を映画化した作品です。アウシュビッツの現場を映画化するということを実行する映画人が現れたという事実がそもそも驚愕です。
 今日は映画解説の時間ではないので詳細な報告ができないのが残念。皆さんが観たら気絶するかも知れません。私は気絶も出来ませんでした。目がかっと開かされたまま二時間半、死刑台に縛り付けにされたままでした。ホロコースト(大量虐殺)を管轄するナチス親衛隊は、収容所では彼らが直接手を下さずに、ユダヤ人に代行させていたのです。代行者たちをゾンダーコマンドというのです。その一人がサウルという名前です。この映画の主人公と言ってもいいのですが、主人公という言葉は相応しくありません。ハンガリーのユダヤ人、囚人です。彼はガス虐殺の現場で死にきれず苦しんでいる、遺体に成れなかった少年を見て、自分の息子ではないのか、と、否、我が子であると思って、人間の尊厳を保った葬儀をしてやりたいと切実に思い、電撃に打たれたように意志を固めた。
 そして囚人中にユダヤ人ラビ(祭司)を探し出そうとする。とどめの注射を刺され遺体となった少年の骸を必死で盗み出して、ラビ(ほんとうにはラビを装った囚人の一人かも知れない)を連れ出す。ガス虐殺では処理できない何万という逃げ惑う素裸の囚人たちへの集団射殺の現場を潜り抜けて、コマンドを助けに来るパルチザン蜂起への夢に掛けて、銃撃の嵐の強制収容所から命懸けで仲間たちと脱出するのだが、全員皆殺しにされるという銃撃の轟音と共にジ・エンドになる。と言うことは、最後の銃殺される場面は映像がないということなのです。画面は真っ暗闇のまま観客の耳をつんざく銃撃音だけなのだ。
 この映画はドキュメンタリータッチを採用しない。ましてエンタメの娯楽性も暴力も否定する。ひたすらサウルだけにカメラを絞って、その他の親衛隊も囚人も意図的にぼやかして写し出される。画面をハンガリー語、ヨーロッパユダヤ人のイーデッシュ語、ドイツ語が飛び交う。ほとんどが命令、絶叫、耳打ちである。台詞が極端に少ない。ナチス、アウシュビッツの歴史の大筋を知らない観客はついていけないかも知れない。
 人類が演じた吐き気を催す、おぞましい歴史の事実を、忠実に再現しようとしたハンガリーの映画人の勇気とエネルギー、技術にただただ胸の底まで抉り取られた息が詰まった二時間半でした。
 一昨日19日朝日新聞の夕刊に、この映画の批評紹介が掲載されていました。私は、実際観た衝撃が体内に未整理のまま蹲っていて、人間が演じた巨大な悪のおぞましさに、骨の芯まで凍り付いているというのが実情です。
 と、ここまで報告すれば、皆さんは旧約の世界を想起することでしょう。ノアの洪水がなぜ起こったか、そして、天まで届くばかりのバベルの塔を築いた人間の傲慢な歴史を想起することでしょう。

 さて、今日拝読していただいたのはミカ書3章ですが、1449頁上段の3節をご覧ください。アッシリアの脅威の前に、神さまに背いたまま私利私欲を貪っている支配層を糾弾する神の預言の展開です。

   見よ、主はその住まいを出て、降り
   地の聖なる高台を踏まれる。
   山々はその足もとに溶け、平地は裂ける
   火の前の蝋のように
   斜面を流れ下る水のように。
   これらすべてのことは
   ヤコブの罪のゆえに
   イスラエルの咎のゆえに起こる。
   ヤコブの罪とは何か
   サマリアではないか。
   ユダの聖なる高台とは何か
   エルサレムではないか。

 この後の具体的に書かれる容赦のない審きの描写はミカの表現の特徴です。すぐ後でテキストを取り上げましょう。この糾弾されている人間の咎と罪の無残さは、今の時代にも引き継がれていることを認めざるをえないのです。
 まずは、ミカを紹介します。
 ミカは、エルサレムの南西モレシュト出身の預言者です。紀元前八世紀の最後の四半世紀にユダ王国で預言活動を行ったと推測されています。彼は反都市的な、農民的な傾向を持った人物だと言われています。
 もともとイスラエル民族の歴史には反都市的な傾向があります。部族連合体だったのです。それが後に王国を立てたのです。彼の活動はイザヤの活動期と一部重なっています。ヒゼキア王の時代(前728〜700年)のエルサレムの政治的経済的な状況に極めて批判的でしたから、エルサレムの破滅を預言したのです。アッシリアによるイスラエルとユダ王国の咎とがと罪を容赦しなかった。脅威の中でユダ王国の荒廃を切迫感にかられて預言した言葉の一部が今日のテキストなのです。
 ミカの預言は、イザヤ、アモス、ホセアなどの先輩の預言を総合した言葉だという方が適切かも知れません。が、その語り口は激越なのです。容赦ない神の審きの言葉です。アッシリアの進撃、圧迫の前に怯えるサマリア、ユダの行方を幻として見ていたミカの怒りの口からほとばしり出た預言なのです。
 3章の1節からあらためて振り返ってみましょう。

   わたしは言った。
   聞け、ヤコブの頭たち
   イスラエルの家の指導者たちよ。
   正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
   善を憎み、悪を愛する者
   人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい
   皮をはぎ取り、骨を解体して
   鍋の中身のように、釜の中を肉のように砕く。
   今や、彼らが主に助けを叫び求めても
   主は答えられない。
   そのとき、主は御顔を隠される
   彼らの行いが悪いからである。

 ここから見えてくるのは遊牧民族の肉食の光景です。日本人の料理番組でも余り登場しない肉食の光景描写である。これが支配層の人民搾取(しぼりとること)の比喩描写なのですから、一般日本人ならば馴染まない描写であります。これは仏教絵画の見られる地獄絵の光景に近い。遊牧民族なら違和感を持たないのでしょうか。そんなことはありません。神さまの言葉を伝える預言ですから、遊牧民族にとってもおぞましい表現でしょう。少なくても私には、激越な描写なのです。

 またしても、映画「サウルの息子」が甦ってきます。あの映画は、現代人に歴史の事実から目を逸らすな、悔い改めよ、と、警告しているのではないでしょうか。
 ミカの口から迸り出た言葉をかなり残していると考えられている3章の、5節以下7節までをじっくり味わってみましょう。

   わが民を迷わす預言者たちに対して
   主はこう言われる。
   彼らは歯で何かをかんでいる間は
   平和を告げるが
   その口に何も与えない人には
   戦争を宣言する。

 ここまでが今日のテキストです。
 何という現代との相似形でしょうか。
 というよりは、人間の相変わらぬ罪と咎の途絶えることのない歴史なのです。
 しかし、絶望してはいられません。
 神さまは、だからこそイエスさまをこの歴史のただ中に送ってくださった。悔い改めよと今なお語り掛けてくださっているのです。このすばらしい出来事を知っている私どもが、今伝道をしなかったらイエスさまを裏切ることになります。
 ミカは最終章の7章でこう言っています。1457頁下段、8節後半、

   たとえ闇の中に座っていても
   主こそわが光。

 この光を新約聖書のヨハネによる福音書は、強調しているのです。さらに最後のヨハネ黙示録では、新しい天と新しい地とが現れ、光そのもののエルサレムという希望への門がkひらかれているのです。

 次頁1458頁下段19節をご覧ください。

   主は再び我らを憐れみ
   我らの咎を抑え
   すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

 というのがミカ書の最後のメッセージなのであります。なんと素晴らしいことでしょう。

 祈ります。
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