あえて選んで
ヤコブの手紙2章5〜13節
 今日はレント(受難節)第一主日礼拝です。
 来月3月27日がイースター礼拝です。今年度中にイースターが来る。
 けれども私どもは、いろいろ都合があって、荷物だけを引っ越しは3月1日(火)に送り出します。ですから、荷物の整頓には、あと18日しか残っていません。気ばかりが焦って、こころの準備、お別れだという覚悟が整っていない。妻と私は、3月27日のイースター礼拝を終えて、翌日28日(月)に正式に土師にお別れをします。
 今日は春の嵐になるそうです。午後からは、温度が急降下、寒のぶり返しだそうです。考えようによっては、受難節の始りに相応しい天候だと思います。
 先週は木、金の2日間、妻は、引っ越し先の部屋の改修準備のために新座市のマンションに行ってきました。堺と新座の両者に挟まれてあれこれを考えねばなりません。こういう慌ただしさの中に受難節があり、去年の受難節の後半雨の日に岸和田病院に運び込まれました。心臓の手術がありました。
 今年も明日からは、春の光が辺り一杯に溢れるでしょう。元気でイースターを迎えましょう。
 さて、今日のテキストはヤコブ書です。二千年前、原始キリスト教時代、すなわち初代教会はなんと言っても〈伝道する教会〉でした。
 ユダヤ教、ローマ帝国の皇帝崇拝の体制の下に発生したキリスト教はいわば異端の新興宗教だったのです。それ故まだ若い教会にあてて書かれた手紙や文書は、彼らが直面していた福音の基本的理解や、社会的、道徳的理解や実行など具体的な問題を取り扱い指示を与えることが必要だった。
 ですが、こういう日常的な信仰生活の導き書は評価されにくかった。だからこそヤコブの手紙が書かれたのたのです。
 私どもには、ヤコブ書と言うと、ともすれば、パウロの「信仰による義」とヤコブの「行いによる義」との対比が絶えず図式的に説明されます。
 その一因はルターにあります。宗教改革の貢献者ルターは、「ヤコブの手紙の序言」の中で、「要するに、ヨハネによる福音書ならびに彼の手紙第一、パウロの手紙群、特にローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、そしてペテロの手紙第一、これらはあなたにキリスト示し、必要なすべてのことを教え、たといその他の書や教理を見たり聞いたりしなくとも、あなたに幸いとなる書である。それゆえ、これらの書に比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁の手紙である。なぜなら、これは福音的性格を何ら持っていないからである。」 と言っている。
 その結果、ルターの否定的評価が一人歩きをしてしまった。
 けれども、ルターの真意は次の部分にあります。「私はこの書を聖書の真に主要な書の中には数えないが、人がそれに位置を与え、高く評価することを妨げはしない。」 という個所です。
 皆さんが謙虚にヤコブ書を読んでみれば、パウロの主張とヤコブの主張とはけして矛盾していないことを理解できるはずです。
 ヤコブの関心は、当時のキリスト者の群れの実体に在ります。自由市民と奴隷たち、ユダヤ人と外国人たち、諸民族と諸言語、異なる文化を持った人々の集合体であるゆえに矛盾も問題点も多い。この事実を前にして、そこにキリスト者の倫理、秩序共同体を確立しようとして懇切丁寧に指示を与えているのです。
 そしてそこに浮かび上がった最大の倫理的課題が差別意識なのです。地上の世俗的身分を越えて、天上の市民権は聖徒たちとおんなじであるという確信に立っているかどうかをたえず確認を迫っている。富める者と貧しき者という社会構造をどう乗り越えるのかという根本的な問題提出なのです。
 ヤコブの目の前の民衆をどのように励まし勇気付けるのかが主イエスさまの御心なのです。
 私は、5年前の赴任したての4月にルカによる福音書七章の「やもめの息子を生き返らせる」をテキストにして説教をしました。
 やもめが嘆き悲しむ様を目の当たりにして、イエスさまが「憐れに思い」という聖句を取り上げて、この「憐れに思い」という言葉は慈母の慈しみという抒情的な感情ではなく、文字通り断腸の思い、つまりはらわたがちぎれる思いを指していると説明させていただきました。
 このはらわたがちぎれる思いで、二千年前の絶対貧困の貧しい民衆に接していたイエスさまが、今日のヤコブの手紙の民衆たちなのです。そこには足萎えの人、ハンセン病の人、下級兵士、いろいろな人々がいたのです。
 ヤコブの手紙は前の頁421頁から始まっています。1章の下段の小見出しは、「貧しい者と富んでいる者」です。これは明らかに経済的な貧富の二つの階層を示していますが、冒頭九節は、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。」 10節は、「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいるものは草花のように滅び去るからです。」 とあります。
 これはどんな意味でしょうか。このヤコブの言葉で十分納得する内実は何でしょうか。
 ローマ帝国の支配、ユダヤ教支配の下、貧富の経済的な格差はいかんともしがたい。この事実は容易には代えられない。という状況の中で、「高められ、低くされる」とはどういう意味であったのでしょうか。私の推測では、天上の市民権は一つ、神の前には身分の差など問題ではない。徹底的に平等なのだという事実を指摘されたとの理解だと思います。
 この事実によって生きる市民ならば、差別意識なぞありえない。が、テキストの箇所は、主の体である教会共同体の現実の中での差別を糾弾してくるのです。
 2章2節、「汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。」 3節、「その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、四節、「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」とあります。
 こんな些細なことを取り上げて、必死で指摘しているヤコブ書は大した書ではない。肝心の福音の主要な部分から見ればほんの脇道の問題だという判断も可能でしょう。
 が、ヤコブは引かない。このごく日常的な行動を見逃さない。なぜならそこに信仰の証しがなされるからです。
 その背後には、神さまがあえて貧しい者をお選びになったという認識があるのです。
 そもそも貧しい者のその貧しさは、自己責任でしょうか。貧しく生まれたのは本人の責任ではない。マタイによる福音書の山上の説教の、「心の貧しい者は幸いである」の、「心の」が冠にあるのはただごとではない。神さまの御心は、経済的な格差による貧困は、その属する国家の社会的な構造のひずみが生む貧困、さらに政治のひずみが生み出す貧困に立ち向かって、生きる民衆への賛歌なのです。どういうことかというと外面的な貧困は貧困として認めるが、神さまに愛されているという事実が生む豊かさを生きている貧者は祝されているという意味なのです。
 ならばこの事実は時代を地域を越えて真理なのです。
 ヤコブはこの裏付けを、5節で展開しています。「わたしの愛する兄弟たち、良く聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」 ヤコブはイエスさまの御心をまっすぐに理解していたのです。もしヤコブ書の作者がイエスさまの兄弟のヤコブだとしたら、十字架に掛けられて死んだ、そして甦ったイエスさまをほんとうに理解し変貌した大人物だと私は思うのです。迫害が迫る中で、ローマ帝国の支配下、その世俗の価値観をひっくり返して生き抜くヤコブの戦闘的姿勢が、6節に展開されています。
 6節、「だがあなたがたは、貧しい者を辱しめた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。」 ここはローマ帝国の下請けのユダヤ教の国会がローマ帝国の腰巾着になり下がっていることへのまっすぐな批判なのです。日本国家憲法第九条をめぐる裁判所の曖昧な現在の姿勢がこのテキストの上に炙り出されています。この書が引き金になってヤコブは殉教していったのです。
 それでは、テキストの最後の13節をご覧ください。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」 これはもちろん神さまの裁きです。はらわたの千切れる思いで私ども一人一人を愛してくださっている主イエスの御前で誇らしい生き方を貫こうではありませんか。
 私は富んでいる者たちの中の心の貧しき者たちもたくさん知っています。故に、貧富の差を越えて天上の市民権は一つなのです。
 受難節の第一聖日礼拝で、心の貧しさを新たに決意できたことを共に感謝しましょう。
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