裸、はだしで
イザヤ書20章1〜6節
 クリスマスの準備を長老会が取り組み始める前から、正確に言うと9月27日から聖研祈祷会は、新約の最終の書、「ヨハネの黙示録」に入りました。
 振り返って見ますと、2011年3月中旬に土師教会に事実上赴任して、田中清嗣牧師から引き継いだ聖研祈祷会は、ヨハネによる福音書の途中でした。
 週一度の聖研は、私の聖書研究の実力を測りに掛けて試されているという印象でした。 
 思えばヨハネによる福音書に始まって、五年間掛けてとうとうヨハネ黙示録に辿り着いたわけです。正直言って悪戦苦闘でした。今さら言うのも野暮ですが、聖書を読むという行為は、信仰者の信仰を賭けて読む行為ですから、しんどくなるのは当たり前。
 小説ならばエンタメとしての筋書のおもしろさにニヤッとすることが多いのですが、聖書は、その語られた言葉の意味を把握するためには、その背後の歴史、社会構造などを丹念に掘り出さして参考資料にしなければなりません。
 が、その意味を出席者みんなの知恵を振り絞って掘り当てたという実感に辿り着いた時の喜びは何物にも変えられない喜びなんです。  
 そうして五年間が過ぎて来ました。よちよち歩きの牧会初めての私を引っ張ってくださったみなさんに感謝しています。ありがとうございました。
 その結果、黙示録も神の怒りによる最終的究極的な審きの場面に突入しているわけですが、底なしの淵から上がって来る角が生えている獣だの、水の上に座る大淫婦だの、不気味な化け物が登場して、イエスさまへの信仰を告白した者たちが迫害を受けて死に至って殉教するか、淫乱な堕落文明が滅亡する日まで最後まで耐えたキリスト者が勝利をする宣言がなされるわけです。
 ここで、バビロンと言うのはローマ帝国の比喩でして、あからさまに書かれたら、キリスト教は大弾圧を受けて地上から抹殺されてしまったことでしょう。ヨハネ黙示録の著者は、検閲と弾圧の目を逃れて、しかもローマ帝国の崩壊を預言した偉大な透視力の持ち主であったのです。
 黙示録の神による裁きを読んでいると、不気味なことに21世紀の今日の地球の国際的状況に似ているのです。
 すなわち、侵略、抗争、弾圧、抹殺の様相は、今日の世界の混乱、戦後世界を形成した欧米、中でもパックスアメリカーナ(アメリカが世界の繁栄を握っている秩序体制)の価値観と、ロシア、中国、イスラムのもう一方別の反欧米価値観との衝突、あるいは欧米価値観に対する挑戦の様相に似ている。
 そして世界を揺るがせている移民、難民、過激派イスラムとの摩擦、テロという一連の問題提出の山積みです。これはローマ帝国の下での幾度の叛乱、弾圧、処刑を想起させます。
 その対立構造に直接には巻き込まれてはないとはいえ、日本が今後とも安全地帯だという保証はありません。フリージャーナリスト後藤さん惨殺の報道は、衝撃であり、今や世界からの孤立や脱出は不可能なんだと思い知っのです。
 そして安倍政権が選んで行こうとする道はたいへん危険な戦争する国家への回帰です。
 しかし、そうだからと言って世界戦争を積極的に準備、加担するのはいっそう危険な選択です。
 ヨハネの黙示録のメッセージは、あくまでも究極的な神の裁きであり、キリスト者は忍耐の果てに救われると明言しているのです。
 私どもは神さまに安易にもたれて救われるのではなく、神の徹底的終局的裁きのドラマの証人になるのです。
 さて、今日は、戦争、殺人をめぐる旧約と新約の関わりを考えるヒントとを探してみようと思います。
 旧約を読んでいますと、ヤーウエの神さまは一貫して戦争の神さまではないかと確信します。イスラエルを導く神は、攻撃的な神で、イスラエルによる周辺の国々への侵略を推し進める好戦的な神ではないかと思わざるを得ないことしばしばです。神は右腕を延ばして先頭を切って戦うという記事がたくさんあります。しかもその勝利の歴史がイスラエル民族の王国建設になったという内容なのですが、ほんとうでしょうか。
 最近の聖書考古学では、それを証明する遺跡がほとんど見つからない。神の保証する約束の地はなかなか手に入らなかったというのが、どうやら事実に近いようです。
 唯一神は好戦的だと言う巷の噂は、短絡的です。現にエジプト、バビロニア、ローマ帝国は多神教の国家なのです。
 唯一神教とか多神教とかの枠組みを越えて、古代砂漠地帯、中近東世界の神々に共通なのが徹底的におのれの側の正義に拘る故の好戦的、残虐的敵視政策の戦争を推し進める神々の世界が浮かび上がってくるのです。旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム共通のテキストですが、この旧約の戦争を押し進める神は、古代砂漠地帯に共通する戦争を推し進める神々の好戦的神々の世界を色濃く反映して影響を受けているのが分かります。
 戦争に限らず、古代砂漠地帯の伝承にも共通のものが多々あります。例えば、ノアの洪水伝承も、旧約独自の記事ではありません。
 その相互影響関係が分かると初めて、なぜ旧約聖書に対する新約聖書が登場して、イエスさまによる神と人との和解が成立したのかも分かるのです。イエスさまの山上の説教、草原の説教を想起するまでもなく、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と明言されています。ユダヤ教から枝分かれした異端の新興宗教キリスト教の誇りであり、旧約の世界を克服したイエスさまがキリスト(救世主)になった証明なのです。これこそがキリスト教の精髄であります。神との平和を生きることを礎にする非戦と平和の実現をなしとげるのがキリスト者の本分なのです。
 ところで今日のテキストは旧約のイザヤ書なのです。古代中近東砂漠地帯の戦争の光景なのです。今日のテキスト、イザヤ書20章3節をご覧ください。
 主は言われた。
 「わたしの僕イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしとして、裸、はだしで3年間歩き回ったように、」 4節「アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いて行く。若人も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く。」
 北のアッシリアそしてバビロニア帝国と南エジプトという大国に挟み撃ちにされ続けた小国イスラエル、ユダヤの運命はみなさんのご存知の通りです。それがバビロニア帝国への60年弱に及ぶ捕囚生活となったのです。その運命を前もって僕イザヤが無残な姿で同胞に知らせたのです。
 今日の私どもは、この姿に恥と恐れを抱かない者はないでしょう。が、70年前、北のロシアのシベリヤに抑留されてその冬、一割が骸になった日本兵の歴史は事実だったのです。
 南の太平洋の島々に海底に白骨になって放置されている何万の兵士も事実なのです。
 恥をさらし続けて放置されている兵士を見捨てて、またしても戦争をする準備を推し進めている日本を食い止めることはキリスト教徒の義務ではないでしょうか。
 私のもっとも尊敬する柏木義円は、群馬県の安中教会牧師として、日清戦争で戦死したキリスト者兵士の葬儀場から退席した役人、僧侶、軍人を見ていて、日本国家がキリスト者を見捨てた決定的な事実を思い知らされました。以後日露戦争から三八年間、徹底的な非戦論を「上毛教会月報」で展開して三八年間、発禁処分を受けても受けても一歩も妥協しなかったのです。
 今、初代土師教会牧師佐治良三を想起しています。土師近辺の被差別部落の解放運動の魁として戦った佐治牧師の足跡を私は追い続けています。
 では、私にできることは何であるか、がはっきりと見えつつあります。妻と私は、それを芸術民主主義の旗印を掲げて懸命に生きています。
 みなさんも、それぞれの賜物を大切にして、
 磨きをかけて、世界の平和に貢献をしてください。そして一緒に、他者のための隣り人になりましょう。
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