子供の体のようになり
列王記下5章1〜14節
 低気圧が一挙に南太平洋から襲来して来ました。これに呼応して日本海方面から寒気と雷と雪が南下して来ました。
 土師に来て五回目の真冬ですが、今回は真昼間でも震えが止まない。鍋ものが恋しい真昼間です。節さんが届けてくださった深紅と桃色の椿と水仙を活けたバケツが、朝、凍っていました。
 今日のテキストに出てくる「アラム王の軍司令官ナアマン」は、「重い皮膚病を患っていた」と書いてあります。
 口語訳聖書では、現在使用禁止の差別語、漢字で病ダレの「癩病」でした。現在の正しい学名は、ハンセン病です。
 さて、新共同訳では、「重い皮膚病」です。旧約のレビ記の分類に合わせた訳語ですが、逆に意味が曖昧になってしまって、伝わって来ません。
 レビ記の重い皮膚病とハンセン病は、正確には一致しませんが、差別の極限に立たされる患者の苦しみの側に立てば、ハンセン病という訳語のほうが原義(もともとの意味)に近いのです。ゆえにここではハンセン病という言葉を使います。アラムの軍司令官ナアマンはハンセン病の武将だったのです。
 さて、東海道新幹線の雪の難所と言えば、ご存知「関ヶ原」です。雪の季節になると米原名古屋間は、しばしば走行見合わせ、徐行するか減速するか交通の難所なのです。
 ところで、この関ヶ原を舞台にした歴史上有名な戦いと言えば、家康率いる東軍と秀吉の遺臣たちの率いる西軍との天下分け目の戦い(慶長5年9月15日、1600年)があります。
 西軍の石田三成の親友にハンセン病の武将がいたことを皆さんはご存知でしょうか。
 その武将の名は、大谷吉嗣です。喜ばしく継ぐの大吉の吉(ヨシ、キチ)です。大谷吉嗣です。
 大谷吉嗣は、ハンセン病だったようです。梅毒説もありますが、私はハンセン病だったと思います。なぜならば彼の病状を記した記録が多く、ハンセン病と解した方が自然だからです。
 大谷吉嗣は戦に赴く時には必ず白い布で顔を覆っていたのです。関ヶ原の戦いの時には輿に乗って指揮をしていたようですが、病状は末期現象だったらしく、ミイラ化していたとの推測もあります。
 ナアマンも大谷吉嗣も共に勇士(勇敢な戦士)でしたが、今日の話は、旧約聖書の話しです。大谷吉嗣は旧約には登場していません。
 なぜでしょうか。ここには勇士ナアマンの独自性があります。
 アラムの武将ナアマンはユダヤ民族ではありません。ユダヤ民族の出身でもありません。
アラム人すなわち異邦人であります。その武将ナアマンのハンセン病がどのように癒されたのか。そして、どのようにイスラエルの神と出会って、信仰告白に至ったのかを描いた挿話(エピソード)です。
 当時イスラエルとアラム(現在のシリアだと言っていいでしょう)とは、敵対関係にはなく、比較的穏やかな緩やかな関係だったようです。その頃の挿話です。
 2節、「アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召使いにしていた。」 3節、「少女は女主人に言った。『ご主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。』
 そこで、ナアマンは、アラムの王のイスラエルの王宛ての手紙と莫大なお土産を携えて出掛けた。その手紙にはこう書いてあった。
 6節、「家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
 ところが、7節、「イスラエルの王はその手紙を読むと、衣を裂いて言った。『わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。 /省略/彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。』 と。
 これを聞いた神の人エリシャは、10節、「使いの者をやってこう言わせた。『ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすればあなたの体は元に戻り、清くなります。』 と。 
 ナアマンはエリシャの高飛車な態度に怒ってそこを去った。しかし家来たちがいさめた。13節、「あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる。』 と言っただけではありませんか。」 と。ナアマンは預言者の非礼を怒ったのだった。砂漠地帯を細々と縫って流れて行くヨルダン川よりも、アラムの国のダマスコを豊かに流れいくアバナやパルパルの方がよいというナショナリズムに囚われていた。その弱点を家来たちが突いたのです。
 14節、そこで多分ナアマンはしぶしぶと神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。かれは半信半疑ながら必死で祈り救いを求めて身を浸したのです。ヨルダン川の水がひんやりと沁みとおるように感じられ、武将ナアマンはいつのまにか小さな子供が母親に抱かれているような平和な安らぎに包まれて行くのでした。六度までは覚えていましたが、七度目はもう意識してはいませんでした。
 ふと気が付くと、ナアマンは絶叫しました「主よ、主よ」。
 彼の体は元に戻っていたのです。
 14節の2行目、「小さい子供の体のようになり、清くなった。」 
 何が起こったのでしょうか。
 ここで重要なことは、ナアマンが「神の人」を認めて受け入れたことです。イスラエルには預言者および職業的な集団がある。彼らは「神の人」である。すなわち神の言葉を伝える選ばれた人であることを受け入れたときにヨルダン川とアバナ川の川幅、水量、流れの速度などの比較は問題外になったのです。
 ここでは、「小さい子供のように」と訳されていますが文語訳では、「嬰児(をさなご)の肉の如くになりて」となっています。無垢な清い赤子の桃色の肌が浮かび上がってきます。
 この瞬間のナアマンの驚き、感動はいかばかりでしょうか。そこで思わず天上に向かって両手を延ばして、「主よ、主よ」と叫んだのです。
 なぜそう思ったのかと言うと、今日のテキストが終わったところから始まる異邦人のイスラエルの神との出会いが始まっているからです。
 15節をご覧ください。「彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」
 が、神の人はナアマンからの贈り物を断ったのでした。
 17節、「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」
 異教徒である武将ナアマンの回心の決意表明です。
 そして苦渋の信仰告白が続きます。これは私ども異教文明の日本で暮らしていくキリスト者の告白と重なると思います。
 18節をご覧ください。「ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
 エリシャはどう答えたでしょうか。
 「安心して行きなさい。」
 これは礼拝の終わりの祝祷なのです。ナアマンの告白は私どもの告白でもあります。
 かつて天皇制軍国主義体制下で、韓国に神社礼拝と皇居遥拝を強制した日本国家の醜態と、国内でも「天皇陛下とキリストのどちらが偉いか。」 という尋問で苦しめられた先輩方の悪夢が甦ります。
 現在でも近所付き合い、寄り合いの中で、キリスト教価値観と折り合わない場合が良くあります。
 ナアマンの訴えは、現在の吾が事、なのです。
 そのとき、「安心して行きなさい」は、具体的には、自信を持って信仰に忠実に歩みなさいということです。
 私どもの信仰は、二千年来、反世俗、反ご利益なのです。神の国の民として、いつも神さまがぴったりと側におられ、励まし、見守ってくださっていることを確認していることが、私どもの大きな慰めなのです。
 さあ、今年こそ世俗に妥協しない信仰生活を一頁一頁神さまの御言葉を食べて力強く前進して行きましょう。
 祈ります。
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