骨も隠されてはいない
詩編139編7〜18節
 クリスマスから正月温かい日々に恵まれました。暖冬です。駐車場の牧師館の壁に沿って初夏に咲いたアイリス(西洋菖蒲)が咲き揃っています。そして大きな夏ミカンと大きなレモンをいただき上機嫌でした。
 が、ふと、孫たちが住む新潟県の日本庭園の松の木の害虫退治は計画通り進んでいるのだろうか。東京湾の海苔養殖は順調だろうか。おまけに各地のスキー場は雪が降らないのでお手上げだというニュースが入っています。三七年ぶりの暖冬異変だとしたら、ひょっとして自然災害が起こるのではないかという不安も襲って来そうです。
 が、一昨日金曜日から平年並みの寒の入りが始まったようで、ほっとしています。冬は寒さと向き合うのが列島の暮らしに相応しいのではありませんか。先週から土師町の冬の風物詩「火の用心の拍子木」叩きが町内の夜の風の中を星空の下を巡って行きます。おそらく初老の男衆が交替して任に当たっているのでしょう。お疲れのことと心が温もります。感謝です。
 クリスマスから正月明けのこの季節、暖房機器が充実していても、ケーキと雑煮とおせち、そして七草粥は欠かすことができません。
 さて、12月に埼玉県寄居町(秩父への入り口)在住の私の友人の大瀬孝和が、詩編をどのようして読んだかという内容の神学的、詩的エッセイ上下巻を出版しました。題名は、『神の思いと、神への思いと』です。
 詩人大瀬孝和は、セヴンスデーアドヴェンチストの事務局で長らく働いている方で、詩人としての賜物を存分に生かして、書き上げた労作です。セヴンスデーは、菜食主義者として有名で、経営する短大は、看護学科が知られていて、病院を幾つも経営しています。 
 今日のテキストは彼の労作からの刺激もありました。刺激を受けて思い立ったのは、ひとつの動機です。もうひとつは、神学校の実践神学の教授が、教会で詩編の講解連続説教をしたところ、全力投球したのに不評で、ついに断念したという発言が耳に残っているのが動機です。詩編を元にして連続して説教を続けることは至難の業です。
 では、私はというと、主題説教を心掛けています。旧新約聖書の箇所を交互にテキストにして、熟読して、そこからメッセージを聴き出して説教を準備するという方法を取っています。
 その結果、今日の主題は、「骨も隠されてはいない」になったのです。
 詩編139編は、強い個人的意識がこの詩に満ち満ちています。「あなたとわたし」という言い方が頻繁に登場しています。それは「神と私」であると同時に「私と神」の対話の姿勢に貫かれています。それが大瀬さんの著作名の『神の思いと、神への思いと』になったのです。
 明治以来、日本のプロテスタントのほとんどは、この私個人と唯一神との対話の姿勢に共感して、信仰を深めて来ました。これはまっとうな方法です。だから旧新約聖書二冊とも全体として正典として認めて絶えず学んで来たのです。
 が、キリスト教の歴史は、教会という証しの共同体の歴史であるという点をともすれば忘れがちになったことを反省しなければなりません。土師教会という証しの共同体の存在を抜きにして私どもの信仰は考えられない。同時に個の教会の背景に全世界を貫いて目に見えない普遍的な一つの主の教会があることを信じなければ地球の伝道は成立しない。
 神との対話とは、こういう構造の下に可能なのです。
 つまり、一人善がりな自分中心の信仰は信徒であれ、牧師であれ、道ならぬ道なのです。
 神と私の対話を極限まで追い詰めたひとりは内村鑑三だろうと思います。私が高校時代に最初に読んだ神学書は、内村鑑三が書いた『ロマ書の研究』でした。が、なぜ彼が無教会を主張したのかが私には合点できないところです。彼の無教会主義は、既成の教会を否定した無教会という名の教会主義ではないでしょうか。
 テキストに戻りましょう。この139編は、「詩編の中の詩、王冠輝く詩」だと言われています。なぜでしょう。この問いの答えを突き止めるのが今日の課題なのです。
 まずは、979頁139編の冒頭をご覧ください。

  主よ、あなたはわたしを究め
  私を知っておられる。
  座るのも立つのも知り
  遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

 以下6節まで、高校時代に聖書に出会った私は、率直に言ってこの部分を好きになれなかった。自意識過剰な学生時代、たとえ神さまであろうと私の魂の営みを完膚なきまで知り尽くしておられるはずはない。しかも私の魂の秘密を知っておられるなら私は自殺するしかないとまで思い詰めていたのです。139編の出だしは、当時の私から見れば、私の魂への過剰な内政干渉、越境行為だったのです。息苦しくて読んでいられない。こんな息苦しい信仰なら要らないとまで思い詰めていたのです。
 そして歳月は半世紀過ぎました。70代半ば後期高齢者候補生の私は完全に降参していて、この冒頭を恵みだと受け取ろうとしています。ここまで達したというのではありません。自然な思いで達しつつあるということです。
 青年期の反抗、抗い、苦しみは無駄ではなかった。出口が見つからない自意識トンネルは、突然青い空に続いているのに気が付いたのです。信仰とは哲学的な思索ではなくて、私の自意識の彼方、向こう側に見えて来た空なのです。向こう側から訪れて来たのです。
 では、司会者に読んでいただいた7節以下を辿ってみましょう。
 7節、

   どこに行けば
   あなたの霊から離れることができよう。
   どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。

 もちろんこれは神の束縛に抗い否定する発言ではなく、ちっぽけな私の存在があなたによってあまねく知り尽くされている。神さまの恵みが満ち満ちている圧倒的な事実に感謝せずにはいられないという信仰告白なのです。
 8節は、その信仰の極地に踏み込んでいます。

   天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、
   陰府に身を横たえようとも
   見よ、あなたはそこにいます。

 「天に登ろうとも」、 恐れ多くも神さまがいらっしゃる天に登ろうとも、という大胆な仮定法です。そして底なしの地の果てにあると信じられている陰府には、神さまの救いの手は及ばないと信じられていたのです。
 ところが「見よ、あなたはそこにいます」と断言している。旧約ではここまで踏み込んだ信仰告白はここ一か所しかありません。故に後に使徒信条に結晶したのです。あの「陰府にくだり、三日目に死人うちよりよみがえり」の部分です。ここは私どもキリスト者の復活信仰の根拠地なのです。
 故に11節以下の光信仰の展開が待っている。
 11節、

   わたしは言う。
  「闇の中でも主は見ておられる。
   夜も光がわたしを照らし出す。」
   闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
   夜も昼も共に光を放ち
   闇も、光も、変わるところがない。

 これは何と大胆な確信でしょう。主にあるものは闇は依然として闇でありながら、そのまま光であるという告白なのです。絶望的な状況下でも絶望しない。光を見ているというのです。これがキリスト教な信仰の核心なのです。その具体的な証しが13節以下に展開されています。
 13節、

   あなたは、わたしの内臓を造り、
   母の胎内に私を組み立ててくださった。
   わたしはあなたに感謝をささげる。
   わたしは恐ろしい力によって
   驚くべきものに作り上げられている。

 信仰は畏怖(畏敬の念と恐怖)を伴うものです。巷に氾濫する心地よい信仰は、じつはご利益信心なのです。

   わたしは恐ろしい力によって
   驚くべきものに作り上げられている。

 神さまの御業によってこの私が創造されたのだという実感を持つとき、あらためて感謝と畏怖の念に襲われるのです。いのちが与えられた、創造されたという謝念を抱いた者には、自殺は神への裏切りなのです。
 かつて高校時代に自殺までを考えた私は、真面目で真剣だったが、神さまとのほんとうの出会いには至ってなかったのです。が、無駄ではなかった。あの無知で傲慢な少年に救いの手が述べられて、今日牧者として立てられているのです。
 最後に15節の3行目を、もう一度、ご覧ください。
 
   あなたには、わたしの骨も隠されていない。

 は、今日の私のみなさんの骨の喜びの叫び声であります。
 土師教会に連なる喜びを噛み締めて、2016年を皆さんと共に、光の中に歩んで行きましょう。
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