初めであり、終わりである
ヨハネの黙示録22章12〜14節
 明けまして おめでとう ございます。
 元旦に泉大津教会で持たれた南海地区合同礼拝では、今井泰幸長老が、証しをされました。
 土師教会からは応援団が6名駆けつけました。
 今井長老は、信仰とマラソンの関わりを切っても切れない関係であると述べられ、走り切った達成感に目覚めて時からの経緯を述べ、それは山あり谷あり労苦と輝きが味わえるスポーツであるが、じつは神さまの聖霊の助けによって最終的には導かれるのですと諄々と話されて、百キロマラソンへの挑戦の体験を切り出すと、うわあというざわめきが立ち上りました。泉大津教会から去る時、立石教会の一木牧師から今井泰幸長老に、「土師教会の長老としても頑張ってください」と声を掛けられました。
 オリンピックの花はマラソンです。ギリシアに始まるマラソンレースは、新約聖書でたびたび登場しますので、参加者の皆さんの心を揺さ振ったのです。
 南海地区が生んだマラソン選手、今井泰幸長老の今後の教会でのお働きの上に神さまのお恵みがさらに増し加わらんことを祈ります。
 さて、御雑煮と年賀状に始まった新年ですが、12月31日に終わります。始めと終わりをけじめをつけて暮らすのは、知恵の一つです。そして人生の始めと終わりもあります。
 では、この「はじめ」は漢字では、どの字で表現するのでしょう。始めようの開始でしょうか。初荷の初売りの初でしょうか。
 今日のテキストが載っている22章の6節をご覧ください。小見出しは「キリストの再臨」です。黙示録の最終部分です。元旦と大晦日とは大違いです。私の、あなたの誕生と死亡とも大違いです。
 12節、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初のものにして、最後の者、初めであり、終わりである。」
 なぜ大違いか、年の始め元旦と年の終わり大晦日は、時間の流れの区切りであり、けじめであるが、それを区切ったのは人間の知恵であり、都合である。絶対的な基準ではない。
 それに比較して再臨のキリストの言葉は、絶対的原初の初めからであり、絶対的な終わりの終わりなのである。人間の歴史を貫いている矢であり、歴史を遙かに越えて永遠そのものなのです。キリストは神さまなのです。絶対者が自ら自己紹介するのです。
 「わたしが宇宙を創造した。わたしがあなたがた一人一人を創造したんだと。つまり人間と会話をする、会話を重ねてコミニケーションを図る人格性を持つ存在者なのです。その存在者が出エジプト記の3章14節で、「わたしは在る。わたしは在るという者だ。」と己を自己紹介して、ここもヨハネの黙示録の最終部分で、「わたしは初めであり、終わりである」と宣告するのです。
 アルファであり、オメガある。これはギリシア語であります。日本人が知っている数少ない古代ギリシア語なのです。
 ということはアルファでありオメガそのもの言葉までもが、人格性を帯びて私どもに迫っているのであり、時間の区切りという相対的な知恵とは全く別物なのです。生きている言葉なのです。言葉が神さまなのです。
 そして在って在る者は16節で、「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 続いて17節、「″霊″と花嫁とが言う。『来てください。』 これを聞く者も言うがよい。『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」』
 今渇いている実感がない者、あるいは命の水が今ほしいと両手を天に向けて突き出さない者には分からないでしょう。
 ここは、救いを求めている者への決定的な救いの呼び声なのです。この決定的な声こそアルファでありオメガの声なのです。在って在る者の声が聞き取れない私どもに向かって黙示録が最終章で語り掛けている声を今心して耳を傾けましょう。

  私どもは、神の国に招かれています。

 が、同時に地に這うものでもあります。生まれる前から神さまに守られている者として、地上の生を精一杯生きて行こうではありませんか。神の体である土師教会に属している私どもは、今年は飛躍の年です。
 新しい牧師とその家族をお迎えして、この地に相応しい宣教を展開する絶好のチャンスが訪れようとしています。
 ただし、諸条件が整っているわけではありません。高齢化が押し寄せ、体力も弱っています。厳しい現実です。
 が、この現状の中でこそ覚悟して一歩一歩歩んで行きましょう。
 土師の村に蒔かれた福音の種が芽生えてもう八十七年目に入っているのです。信仰の先輩たちに囲まれた土師教会はハレルヤ、恵みに満ち満ちています。聖霊のお導きをさらに祈って、この一年も光の中を前進して行きましょう。
説教一覧へ