信じなければ
イザヤ書7章1〜9節
 先週10月5日(月)は、うっとりするような秋日和でした。茨木市の梅花女子大の宗教部から招かれていました。チャペルアワーで、戦後70年を迎えて、一年生約400名に戦争の記憶を何か伝えてほしいという要望でした。午後一時からでした。私は、「満四歳の戦争の思い出」と題して奨励をさせていただきました。何しろ18、19歳の一年生です。教会は行ったことがない学生が大部分、讃美歌を歌える学生にいたっては例外的です。えっ、これがキリスト教大学と言ってしまっては認識不足。これが現実なのです。もちろん戦争体験は全くない。それでも二十歳前後の女子大生はみずみずしく青春がはちきれそうですが、一人一人の顔が見えなくて残念でした。長らく女子大で教鞭を取っていたので、懐かしさを感じたのも事実です。私が勤めていた恵泉女学園も梅花女子大も日本人キリスト者が立てた学校で、いわゆる欧米ミッションが立てたミッションスクールではありません。
 さて、こんな若い子たちに戦争体験は通じるのだろうかと半分ドギマギしながらも、祖母に布団に寿司巻きにされて、祖母と共に階段を転がり落ちて助かったこと、B29の空襲で燃え上がった我が家の火事の炎に包囲されて火達磨になって空中に逃げ惑い焼け死にした白色レグホンや軍鶏など30数羽、?がれた綱の先端で死んでいた秋田犬のゴロ、焼け残った蛇口からぽたっぽたっと落ちていた水滴。
 その後、大家族が生き延びるため祖語と母が花一匁をしてあの子、この子を選んで引き取って育てた結果、生涯に亘ってこころの罅割れに傷ついた大きな兄と小さな兄との微妙な関係。
 その下の弟である私は、小学校時代の百貨店の菊人形の大阪城落城の紅蓮の炎のセットの前で足が竦み、大声で泣き出してしまったこと、高校時代の化学のビーカー実験のアルコールランプの芯の炎にB29の空襲を突然思い出してまたしても竦んでしまったとことなどを話しました。
 最後に結論として、今日皆さんが大学で勉強できるのも恋愛できるのも70年間戦争放棄をしているお蔭です。戦争放棄を宣言している日本国憲法は人類の世界的な貴い文化財ですと結ばせていただきました。
 礼拝後、学生たちの短い感想がたくさん寄せられました。教科書や先生方の説明よりも、戦争時代を体験したお爺さんから実際に話しを聞けて良かった。父母祖父母から戦争の話しをうかがったことはなかった。今後聞いてみたい。戦争はしてはいけない。平和って何かを考えてみたいという大きな声に接して、私は若者の感受性を信じていいのだという実感を与えられました。
 さて、今日のテキストは、まさに戦争の勃発の危機、ダビデ、ソロモンの伝統に立つユダ王国の揺れ動く心の林をめぐる神の声を伝える預言者イザヤの警告の声です。先ほど読んでくれたイザヤ書の7節は、分裂したイスラエルの北イスラエル王国(聖書ではエフライム)と結託したシリア(アラム)が同盟を結び、北の大国アッシリア帝国に立ち向かおうとして、まずはユダ王国を血祭りに上げようとしてエルサレムを包囲したいわゆる紀元前733年のシリア・エフライム戦争によるユダ王国の国家的危機の状況を描いた場面なのです。
 テキストの2節をご覧ください。「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」 と書かれています。南にはエジプもう一つの大国エジプトが虎視眈々として戦争の行方を見張っています。
 その時預言者イザヤは、主の言葉をアハズ王に伝えたのです。イザヤはもともとユダ王国の書記官として重要な地位にあったので、王の信任が厚かったのです。主の言葉は4節です。「落ち着いて、静かにしていなさい。」でした。
 常識的に言ってこの主の言葉は受け入れられないでしょう。国家的危機に遭遇して揺れ動く王と民の心は満足するはずがありません。しかし、主は、こうも付け加えるのです。「恐れることはない。」 と。
 何故か、主はこう言い続けます。「アラムを率いるレッインとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」 5節、「アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、」 6節、「『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、」 7節「主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。」 8節、「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレッイン。(65年たてばエフライムの民は消滅する)」 9節、「エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」 と。
 人生およそ50年の命がせいぜいの時代、「65年たてば」の主の言葉は人間一人の生涯を越えた長い時間ですが、歴史の支配者である主を信ぜよというのです。まさに信じようとしても信じられない絶望的な時間の長さです。が、主は「信じなければ、あなたがたを保証しない」と断言されたのです。
 アハズ王と民はどうしたか。旧約聖書は、その後のユダ王国の運命をつぶさに記しているので自分で確かめてください。
 歴史的事実は、みなさんのご存知のように、その後アッシリア帝国は滅亡してバビロン帝国が成立、続いてペルシャ帝国の勃興、半世紀余りバビロン捕囚とユダヤ人の歴史は苦難に続く苦難の道が待っているのです。
 「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺」し続けるのでした。
 翻って現在の世界の情勢を見ていても、米中露の大国のエゴイズム、イスラムISの残虐、北朝鮮の脅威、日本の安倍政権の動向、揺れ動かない心はないでしょう。このような現実に気が付くとき、本日のテキストの4節、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」 という主の言葉が突き刺さります。アハズ王とその民が辿ったその後を追って、今日をどう生きるか真剣に決断しなければならないのです。
 この時、「信じなければ」という主の言葉が運命の扉を開く鍵になるのです。
 「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」 
 何度も繰り返すので、耳に胼胝ができたような気がするでしょうが、もう一度言わせてください。信じることは、学問的な結論ではなく、論理的な結論でもありありません。ましては気分的な思い付きでもありません。疑いや迷いを切り捨てて自分を掛けて神さまに委ねる全身運動なのです。
 なんと非科学的な、なんと非理性的なと拘っていてはいけない。
 幼い子どもが父親の胸に階段から飛びついていくのと同じなのです。あるいは幼い子どもが病気をした時、母親が枕元で看病してくれる時に安心して寝付くのと同じなのです。
 絶対的な信頼によってその行為はさせられるのですが。私ども世の大人(おとな)たちにはこれが実は容易ではない。いい加減な知恵と教養が邪魔するのです。じつは幼い子どもが大人を導く模範なのです。
 では、どうしたら子供になれるのか。なれません。聖霊のお助けを祈るしか道はありません。信仰者の基本はここにあるのです。洗礼を受けた時に与えられた聖霊の力によって初めて信仰が成立するのです。
 イザヤ書の7章の14節をご覧ください。
 「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」 イエスさまの出現の預言です。
 私どもの国家、家庭、個人が危機に瀕した時、光が消え失せた時、絶望に閉ざされる時、それはいつ訪れるかもしれません。否、今日悲しんで苦しんでいる方もいらっしゃるかも知れません。
 そのあなたの傍に今日もイエスさまがおられます。耳を傾けてください。もう一度9節をご覧ください。
 「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
 祈ります。

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