その日、その時
ヨエル書4章1節
 先週の水曜日あたりから突然寒気が襲ってきました。じつは今までが平年の気温を上回っていたのです。一年中で花がもっとも少なくなっている季節なのに、ルコウ草が咲いていたり時計草が咲いていたりして、堺はやっぱり南国だなあと暢気なことを言っていました。が、今度の寒気は、おまけに低気圧を引き連れて来たので、天気は荒れ模様です。肩を竦めて歩くようになっています。本格的な冬がやってきたのです。
 寒くて嫌になるなあと思っていたら、通りかかった小学生が、「クリスマスが来る。メリークリスマス。」 と叫んでいました。 
 そうです、今日から待降節なのです。イエスさまの降誕をお待ちしつつ、心躍る一日一日を過ごそうではありませんか。子どものような無邪気な気持ちになって。
 と言っても、世界の情勢はますます厳しくなっています。イスラム国ISの相次ぐテロはエジプト、パリ、アフリカまで拡大して止まることがありません。過激派が非道残虐な行為を奮うことになった背景はいろいろありますが、西欧社会での移民差別があるのは明白です。これは遠い国での出来事ではなく、ヘイトスピーチが膨張する日本も差別問題を抱えているのです。沖縄差別、アイヌ差別も同じ根っこを持っています。アフリカ、中近東からの膨大な難民の群れをどうするか、世界が緊急に取り組まなければならない。
 原発問題、食糧危機、難民、テロ、紛争この地球はどうなるのでしょうか。
 旧約では、この地球の国際的政治的経済的危機の根底にある人間の神への背反(背き)を絶えず見ている義の神は、見逃すことができず地震、洪水などをもって、あるいは出エジプト記、ヨエル書に見られるように蝗の襲撃をもって、人間社会を警告をしました。
 私は、蝗というと米を食う昆虫と聞いていて育ちましたが、その現場を見たことはなくて、戦後60年前の幼少時代に、小さい兄に連れられてさいたま市の荒川周辺の田んぼに行って、蝗を捕まえて布袋をぶら下げた竹筒に押し込んで家に帰り、焼いて、あるいは煮て、醤油と砂糖で甘辛い味を付けてもらって食べたことを想い出すのです。懐かしい小さな幸福な断片です。
 が、高校時代に、パールバックの長編小説『大地』を読み進んで行ったとき、蝗の海が登場したのです。中国の大地が見えなくなるほどの蝗の黒い大軍が襲来して麦を野菜、果物を食い尽くす凄惨な場面があって、世界の現実に目が開かせられたのです。
 旧約の場合も容赦ない蝗の襲来場面があって、しかも、幾種類もの蝗なのです。1421頁の上段1章の小見出しは、「いなごによる荒廃」です。四節以下をご覧ください。

   かみ食らういなごの残したものを
   移住するいなごが食らい
   移住するいなごの残したものを
   若いいなごが食らい
   若いいなごの残したものを
   食い荒らす蝗が食らった。

 この段落が分からないと曲解して、ユーモラスな表現だなんて言ってしまいがちですが、「かみ食らういなご」と「若いいなご」と「食い荒らすいなご」は蝗の種類の固有名前なのです。
 私ども一般日本人は蝗による深刻な公害を経験していません。ですからイナゴが幾種類もあるなんて想像できませんでしたから、この深刻な場面を正確に把握できないのです。旧約の世界では、蝗とは、移住する害虫なのです。もっとも明治初期の北海道開拓史の伝えることによれば、北海道にも食い荒らす蝗の大軍が襲来したそうです。
 さて、1節の解説によれば、「ベトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉」とありますが、預言者ヨエルを読み解く手掛かりはここだけなのです。ヨエルはヨエル書の著者としか分からない。ですからヨエル書の成立年代も手掛かりがない。ただし、今日のテキスト1425頁の4章1節を見ていると、「見よ、ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時。」続く4節、「ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ/お前たちはわたしにとって何であろうか」と主に敵対していることを手掛かりに推測すれば、ヨエル書が書かれたのは前530年から前340年頃のペルシャ帝国時代であったと想定できます。とすればこの黒雲の蝗の大軍は、エジプトまで攻め入ったペルシャの大軍の比喩でもあると言えます。あるいはそれに続くアレキサンダー大王の軍隊の襲来の嵐も含まれるでしょう。世界の古代史の大地震だったのです。
 ヨエル書の指し示す終末の場面ですが、1422頁、1章15節、
 
   ああ、恐るべき日よ
   主の日が近づく。
   全能者による破滅の日が来る。

 続く17節は、私どもが映像を通して、あるいは新聞、雑誌を通してまざまざと胸に刻み込んだ光景です、

   種は乾いた土の下に干からび
   穀物は枯れ尽くし
   倉は荒れ、穀物倉は破壊された。

 次の行に注目してください。

   なんという呻きを家畜はすることか。
   牛の群れがさまよい

 19節

   主よ、わたしはあなたを呼びます。

 20節、

   野の獣もあなたを求めます。

 ここはそのままそっくり福島、東日本大震災の地獄図ではないか。ただし、放射能はなかった。
 が、2章の12節以後、主の慈しみが語られるのです。ユダヤ民族が希望の根拠を与えられるのです。
 そして、歴史の事実から言えば、ユダヤ民族はペルシャによって解放されるのです。続くアレキサンダー大王の襲来もヘレニズム文明の普遍性の部分に目覚めさせられる契機になったのです。
 しかし、ユダヤ民族の願った救いは容易には実現しませんでした。
 では、もっと先まで読み進みましょ。1426頁下段の4章16節、小見出しは、「ユダの救い」です。

   主はシオンからほえたけり
   エルサレムから声をとどろかされる。
   天も地も震える。
   しかし、主はその民の避け所
   イスラエルの人々の砦である。
 
 以下を逐一追っていると勇気が内部から湧き起ってきますが、歴史の展開は複雑で、救いはすぐには実現しなかったのです。小預言者たちのメシア出現の期待に支えられて、さらに時間に耐えねばならなかったのです。
 神の民ユダヤ民族は、次に勃興してきたローマ帝国に反抗して立ち上がりましたが、その都度潰されてしまいました。が、その度にますます愛国主義(ナショナリズム)が燃え上がって、ついには武力解放戦線にまで行き着いてしまうのです。
 その幾度もの挫折の果てに、願われたメシアが、思いがけない姿で私どもの歴史のただ中に出現するのです。
 そして、二千年前ローマ帝国の支配下のベツレヘムの貧しい馬小屋の上に、星が輝くのです。
 イエスさまの誕生です。
 結論です。世界の終わりが私どもの希望であるとすれば、いかなる世界の惨状にも耐えなければならない。生きていることは地獄を見ることでもありますが、与えられた希望によって耐えられるのが信仰なのです。
3章1節、「神の霊の降臨」をご覧ください。

   老人は夢を見、若者は幻を見る。

 これは、どういう意味かと言うと、老人は神の霊を受けて世界の救いを新たに夢見るということです。
 そして、若者も神の霊を受けて、世界の救いの実現を目指して計画を立てて前進をする、ということです。
 今後、世界はますます混迷を深めていくことになるかもしれませんが、私どもは生きて耐え抜くのです。
 神の霊が、私どもの中に宿っていることを確信して、喜んで生きて行くことが可能なのであります。
 祈ります。
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