幸いである
マタイによる福音書5章1〜12節
 私どものように、口語訳(1954年度版)で育った信徒は、聖書には小見出しがありませんでした。今日のテキストの部分は、山上の垂訓というと聞いて育ってきました。垂訓は、教えを垂れるという意味です。訓は字義を解釈するという意味で、音読訓読の訓です。ですから垂訓と言うと目上からの視線を感じます。師曰くという論語的雰囲気を感じます。師(先生)は、いつも講壇の上から垂訓を垂れたもうです。
 というわけもあって、最近では、教会堂の改築、新築の際、説教壇を会衆席と同じ水平線上に合わす例が増えてきました。私も賛成です。
 が、本日の「山上の説教」は、牧師の説教壇の高低とは別の問題です。
 5章1節をご覧ください。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。」  
 イエスさまは、イエスさまの教えを聴こうと集まって来る「群衆を見て」彼らを退けようとはしませんでした。彼らの要求を十分知っていましたからガリラヤ湖畔の丘の上に上られました。そこで、「腰を下ろされると」とあります。イエスさまはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で説教する場合は立って説教したようです。ときには弟子たちと共に歩きながら会話を交わしました。
 今日は違った。「腰を下ろされると」とあります。原語の意味は座席に着かれるという意味です。日本ならば玉座、王座、正式の座席となるでしょう。つまり公の説教が始まる座席に着かれた、という意味です。ギリシア語の文法によれば、こういう公の説教が習慣的に繰り返されたとなります。ということは山上の説教は、たった一回語られたものではなく、しばしば繰り返し語られたものがこうして編集されて記されたということになります。それだけ重い内容なのです。二節をご覧ください。 「そこで、イエスは口を開き、教えられた。」
 「口を開き」とはどういう意味でしょうか。固唾を呑んでイエスさまが何をおっしゃるかをそのお顔と口を凝視していた会衆の目と耳に届けられた第一声は、
   心の貧しい人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。
 であった。
 一方、ルカによる福音書では、
   貧しい人々は幸いである
   神の国はあなたがたのものである。
 であります。
 私ども21世紀の日本に住んでいるキリスト者は、今日飢えているものは例外でしょう。「今、食べ物を下さい。」 と哀訴する者も例外でしょう。
 せいぜい朝ごはんは、ご飯味噌汁がいいか、パンコヒーがいいかという好みのレベルでしょう。
 というわけで、どちらかと言うと、マタイによる福音書の、「心の貧しい人々は幸いである」という聖句の方がぴったりくるという答えを出してしまいがちです。では、何度も繰り返されたという説教がルカでは「心の」がなぜ省略されているのでしょうか。
 「心の貧しい人々」は、謙虚な遜(へりくだっ)た心という一般通念的な解釈が成り立ちますが、はたしてこれは正しい答えなのでしょうか。
 2節は、「イエスは口を開いて、教えられた」とあります。弟子や群衆を前にして、イエスさまの口から発された言葉が、ごく一般通念的な意味の「謙虚でありなさい」であったなら、人々の心にずっしり入って来たでしょうか。二千年前のガリラヤ湖でパンにも事欠く絶対貧困の限界線上にさ迷う人々が共感した言葉とは到底思えないのです。
 では、「心の貧しい」とは、あるいはルカの端的な「貧しい人々」の「貧しい」とはどんな意味なのでしょうか。
 じつは、「山上の説教」の全体は、5章の1節から7章29節に及んでいます。これはキリスト者の具体的な生活の指針(導き)であり、かつキリスト教の本質を展開した重い説教なのです。その冒頭を飾ったのが今日のテキストであり、この部分がキリスト教の精髄なのです。この1〜10節を教会は長らく八福と呼んできました。八福は、神さまからの祝福なのです。
 とはいえ、冒頭の初っ端の三節から頓挫してしまいそうな雰囲気です。えっ、これが祝福? 嘘っと叫びたくなります。
 さあ、「口を開き、教えられた」とは、どんな思いが込められていたのか。「口を開く」は、じっくり考えてよし行くぞという決断をもって発信すること。どんな抑圧をも撥ね退けて信念と心情を発信することです。
 ならば、イエスさまによって祝福された内容は何だったのでしょう。祝福は、今このままの存在で祝福されなければ、祝福とは言えません。この八福は、じつは、ことごとくこの世的世俗的な基準から全く外れた発信なのであります。それなのになぜ祝福されるのでしょうか。
 またしても躓くあの聖句です。「心の貧しい」、あるいはそのものずばりの「貧しい」人々とはいかなる人々なのでしょうか。
 イエスさまの繰り返される「幸いである」という台詞は、聴いている人々には慰めではなく、むしろ屈辱であり驚きであり衝撃であるのです。イエスさまの祝福は、青天の霹靂、落雷の稲妻、地震となって人々を急襲したのです。しかも八回、ドーン、ズドーンと連続して。
 さて、「心の貧しい」、 あるいは「貧しい人々」のイメージがぴったりと浮かび上がるやもめがいます。マルコによる福音書12章42〜44節、88頁上段です。私にとっては、このやもめが「心の貧しい」人物なのです。それは、神さまに対して全身を掛けた礼拝なのです。読みます。
 「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」 です。
 当時、レプトンと言うと最小の銅貨で、一デナリオンの128分の1、一デナリオンが一日の賃金に当たるというのですから、1日1万円稼ぐとしても30円にも満たない。
 ルカによる福音書にもこの話は登場しています。私ども現代人の考え着く最貧層の線上の暮らしです。つまり貧困の極みでにっちもさっちもいかず苦しむやもめ、気が付いたとき貧困の中にいたやもめが、自分の状況が自分自身で変革できないことを十分に認識して受け入れた時、神さまに縋りつき、頼って奉げた献金。これが「心の貧しい」人の謙遜の極みとしての礼拝なのです。それは神さま以外の何者にも頼らずに生きていく表明なのです。この世俗の世の価値観に軸を置かない大胆な生き方こそ真理の道なのです。神に縋りつく道こそこの世に妥協せずに全き自由を獲得する方法なのです。ここに辿り着いて初めて、祝福されている自分の現在に気が付くのです。
 つまり「心の貧しい人々」と「貧しい人々」は同じ意味であったことがお分かりになったことでしょう。こうして二千年前のイエスさまの言葉は一般的な道徳訓を遙かに超えて、私どもに与えられた祝福として迫ってくるのです。
 ではどうして、「天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書)、 「神の国はあなたがたのものである」(ルカによる福音書)と言う別々の表現になったのでしょうか。ユダヤ人であるマタイは、旧約以来の伝統に基づいていますから、神を直接口にだすことを憚れて、天の国といったのです。
 一方、ルカは異邦人です。異邦人伝道にも力を注いだ人物ですから、堂々と神の国という言葉を押し出したのです。ですから両者は一つなのです。
 今日は、山上の説教の三節だけで終わってしまいましたが、たくさんのことを教えられました。
 続く4節は、
   悲しむ人々は幸いである。
 です。この4節は、ぜひ皆さんでじっくり考えてみてください。
 八福は、じつに神さまからの祝福であり、プレゼントの約束なのです。聖書に傾聴する、耳を傾けて聴く毎朝をぜひ実行してください。
 祈ります。

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