使徒信条(3)
コロサイの信徒への手紙1章17〜20節
 10月20日(水)の聖研は久しぶりで福井祐美子姉が出席されました。テキストは、4年前の4月に田中清嗣牧師から引き継いだヨハネによる福音書に始まって、いよいよヨハネの黙示録六章、「六つの封印が開かれる」に辿り着いています。
 50年前の大学生時代には内容がおどろおどろしくて異様なイメイージについていけなくて、黙示されているメッセージを捕らえられずに途方に暮れたことなど、懐かしい思い出です。
 70代になって読み返していますと、人間の想像力の限界線がぼんやり見えて来て、青春期の苛立ちは遠退いていくようです。そして二千年後の現代にも通じる想像力が分って、むしろほほえましくて黙示録を楽しく味わっている自分を見出すこともできるのです。
 米ロ中EUが覇権争いを剥き出してその副産物であるイスラムステート、シリア内紛など恐ろしい愚劣な現象が世界的な矛盾として日々記録されつつあります。
 そんな現象に苛立っていますが、妻と私は、心のバランスを図るために、三週間前の十月二五日の礼拝後に兵庫県の赤とんぼの歌の舞台のたつの市の友人太田慧一宅を訪れていました。そして、以前からお会いしたいと思っていた文学にのめり込んでいる元牧師と会って歓談する幸せな一晩を過ごしました。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に現れた天上への憧れと天国駅の通過と墜落する結末が象徴する黙示の秘密の鍵を握っている牧師さんのようでした。突然奥さまに先立たれて一年の記念式の直後でした。
 26日(月)は、大田慧一・昭子ご夫妻(日本キリスト教団、姫路福音教会会員)のご案内で、福山市鞆の浦の西側にある播磨灘の絶景の田島の漁村に住み込んで、原爆で傷ついた人々を30年間描き続けている画家小川憲一さんの住宅兼アトリエを尋ねました。日系アルゼンチン人の奥さまともお話ができたのは喜びでした。
 その晩、過疎の島の海上民宿で、友人夫妻と、体力を失って高齢化と戦っている日本のキリスト教はどうなっていくのか、伝道の展望は開けるのだろうかなどと真剣な話し合いをしました。ご夫妻のユーモアたっぷりのアイデアと提案は妙な切迫感と説得力に溢れていて、じつに愉快に充実した夜をまたしても与えられました。
 翌日27(火)は東側の鞆の浦を見学して江戸時代の朝鮮通信使の一行がもたらした日朝の文化交流を偲びました。
 さらに、11月3日は、南海地区希望ヶ丘教会会員の真嶋克成兄、同志社時代の先輩)のご案内で念願の奈良市大倭紫陽花邑にある交流(結び}の家を訪れました。そこを根拠地にして展開した、ハンセン病回復者と共に勉強し続けたワークキャンパーたちの50年余りの報告を湯川進さんから聞いて青春時代が帰って来たような心躍る半日を過ごしました。
 ベトナム戦争反対の反戦平和運動と元ハンセン病たちとの共生を図って来た運動を通しての二つのハンセン活動を持続してきた鶴見俊輔さんは、第一次安保闘争後の十年間同志社大学の教授でした。妻と私は、わずかですが鶴見俊輔教授に刺激された学生です。
 さて、こんな話が使徒信条とどう関わるのかが今日のテーマなのです。一言で言えば、平和を実現するために立ち上がろう、そのためには異なる立場の人々と手を結んで前進するキリスト者でありたいという私どもの立場を弁明してくれるのが使徒信条であるということです。
 すでに2回使徒信条について考えて来ましたが、今日はその3です。すなわち最後の3行、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の生命を信ず。」 をどう受け止めるのか、です。聖霊はあとから考えます。
 まず、「聖なる」は、一般的には立派な高貴な優れたなどというこの世的な解釈がありますが、そんな一般的な解釈を吹き飛ばしてしまうのがキリスト者の信仰的解釈なのです。
 そもそも、「聖なる」というギリシア語の原語「ハギオス」は、「世俗から引き離される」という意味です。この世的世俗的価値観からすっぱりと切り離されて、神との関係に入らせていただくという意味が、「聖なる」なのです。ですから聖徒という言葉が成立するのです。立派な高貴な優れた選ばれた特別な信徒という意味ではありません。言うならば自分の罪を贖われた罪人として主の前に召されているのです。それはすべての人は罪人で神さまの前に平等で立たされているという、いわば他者に開かれているという謙虚な立場の認識なのです。
 「公同の教会」という意味は、「目に見えない普遍的な教会」という意味です。ギリシア語の「カトリコス」に由来しています。目に見える地上の教会を繋いでいる普遍的という意味で、英語の「カトリック」です。が、歴史的にはローマ教会がカトリックという単語を独占してしまっている。カトリックという言葉は公同の普遍的なという意味ですから、プロテスタント教会も本来の意味ではカトリック教会なのです。
 教会という意味は何度も勉強していますが、ギリシア語の「エクレシア」に由来している。集まり、集会という意味です。古代ギリシアは直接民主主義制でしたから、何かあると人々は広場に集まって議論したのです。その集会です。新約聖書には、集会(エクレシア)が100回あまりも登場する。そのエクレシアの頭がイエスさまです。今日のテキスト、コロサイの信徒への手紙1章18節(369頁、上段)をご覧ください。「また、御子はその体である教会の頭です。」 とあります。直接民主主義の集会の後身が教会(エクレシア)の始まりなのです。
 最後になりました。「聖霊」です・これも何度も勉強してきましたが、今日は聖霊の三つの役割(働き)を確認しようと思います。

  だれが風を見たでしょう。
  あなたも私も見やしない。
  けれど木の葉を震わせながら
  風は通り過ぎて行く
 
 という歌を私は少年時代好きでした。旧約の霊は、ヘブライ語では、神の息吹という意味です。新約では、風という意味です。ただし、新約では、イエスさまを指し示しています。すなわち三位一体の聖霊さまです。聖霊さまには三つの役割(働き)がありそうです。
 聖霊は、ギリシア語で「パラクレイトス」とも言います。ヨハネによる福音書十四章には、助け主、弁護者という言葉で登場します。聖霊がイエスさまを指し示す以上、こういう人格表現がもっともふさわしいからです。
 聖霊の第一の役割は、真理を信じさせる力です。十字架の罪の贖いと救いの福音を、今なお知識人をはじめ多くの一般市民は受け入れていません。荒唐無稽な作り話だと断言して耳を傾けません。二千年前のローマ社会でも同じでした。
 私はたびたび、信仰とは論理を越えた向こう側にジャンプした世界であると繰り返してきました。人間の知性では辿り着けない世界の出来事なのです。それでは、なぜ信仰者が存在するのかというと、聖霊さまが学問的な真理を越えた真理の世界に招いて下さらなければ辿り着けないのです。この奇跡的な体験をした者がキリスト者です。聖霊さまは不可能を可能とされる方なのです。
 二番目、愛です。あまりにも使い古された言葉でありながら実践できない、実行できないのが、愛を生きることです。みなさんはご夫婦の間で「愛している」という言葉を使うでしょうか。「愛している」という言葉は日常語でしょうか。イエスさまが実践なさった出来事を振り返る時、隣人愛の実体が具体的に見えてくるのです。
 三番目が預言者の役割です。イエスさまが示して下さった正義、批判精神、贖い、救いはことごとく神さまの御心の実践です。
 その中で私が最も動かされたことが和解です。神さまを幾度(いくたび)も背くにもかかわらず、その人間を救い赦して和解を実現して下さったのです。その結果、神さまと人間との間に平和が宿されたのです。
 その救いを抱き締めているキリスト者はこのありがたい体験を黙っていられるはずはありません。自分に愛を実践する能力があるかどうかを吟味することは信仰者の仕事ではありません。不可能を可能にする聖霊さまに助けられて前進して行くのみです。「われは聖霊を信じず」とはこういう意味なのです。
 戦争反対と元ハンセン病者への偏見と差別と闘ってきた哲学者鶴見俊輔教授たちとフレンド派(クエイカー)は兵役拒否で有名ですが、北村透谷、新渡戸稲造もフレンド派です。フレンド派による国際キャンパーの働きと、奈良市の古神道大倭教を貫く軸は、諸宗教を認めて、社会的弱者との共存を目指す開放性ではないでしょうか。本来の宗教とは他者との共存、連帯に生きる隣人愛を軸としているのではないでしょうか。
 「平和を実現する人々は、幸いである」とのみ言葉は、助け人である弁護人である聖霊さまのお助けによって可能なのであります。
 ここに使徒信条を毎週朗誦する私どもの軸があるのです。
 祈りましょう。
  
 ※参考文献
  武 祐一郎著『高校生と学ぶ使徒信条』
        新教新書241

説教一覧へ