終わりの事を
イザヤ書47章1〜9節
 私どもは生まれて来ました。ここに集っている大人は全員二〇世紀生まれで生年月日までを知っています。
 しかし生年月日を知らない、知る事が出来ない中国残留孤児などの人々もいます。そういう人々も含んで、この世に生まれてきたのです。
 ということは、いつか人生を閉じる、死ぬことも確かなのです。この世での終わりがくるのです。この終わりが来るという事実が曲者なのです。終わりのその日は、いつか必ず、遅くても百歳前後の日です。
 人生は死に向かって歩んでいる、のは、事実ですが、今日か明日の事と思っていないので、実感がありません。が、実際死亡年月日が定まっていたら、それこそたいへんでしょう。にも拘らずいつか死ぬ事実を疑う人はないのです。
 そもそも実感をもっていなといないという不確実性が、逆に私どもが今日に続く明日を信じて生ける理由なのです。
 計画も立てられる。年内に年賀状を書いているときに、一瞬はたして来年の桜、紅葉が見られるかなという不安をいだくのも事実です。実際、年賀状は欠礼しますという葉書が届いています。えっ、あの人が。あるいは、あれからもう一年近く経ったのか、という感慨とともに住所録に黒い線引きをする季節になっています。
 そして冬至と共に訪れるクリスマスは、生と死をじっくり考える季節です。
 一方、子どもらを見て老人が喜びを覚えるのは、自分たちの人生を記憶してくれるであろう子どもらの明日の歴史を、信じていられるからです。
 が、何度も言いますが、始めがあるということは終わりがあるという厳粛な事実です。
 聖書に登場する「終わり(る)」あるいは、「終わりのとき」という言葉を聖句探しの語句辞典で探して見ますと、あるわ あるわ、50回も登場してくるのです。
 ところが聖書には終わりがない。新約聖書の終わりが「ヨハネの黙示録」の22章ですが、480頁上段の20節をご覧ください。「以上すべてを証しする方が言われる。「『然り、わたしはすぐに来る。』 主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」
 つまり神さまに終わりはない。神さまは一切の始まりの始まりであるように、終わりない終わりまでを支配されている存在者なのです。
 始まりがあって終わりがあるというこの世的な常識が破れ去った時間と空間の場が神さまの現住所なのであって、だからこそ死を越えているのです。
 と言っても荒唐無稽の愚かな話だといって取り合わない人間であるのにも拘わらずをその人間を救う熱情を持った神さまが、人間の空間と時間の現場、すなわち歴史の舞台に神さまの独り子として宿ったのがイエスさまの人生だったのです。
 そしてイエスさまの人生の終わりは死刑囚の恥と辱かしめの十字架刑で終わったのですが、その終わりの場面でイエスさまが何を言ったのかを覚えていらっしゃでしょうか。
 そうです。ヨハネによる福音書19章30節(208頁上段)にあるように「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。昔は「すべては終わった」という訳でしたが、新共同訳の方が原語に忠実な訳です。一巻の終わりというこの世的価値観とはまったく無縁の終わり方です。成就したというのです。みなさんには申し上げるまでもありません。
 そうです。イエスさまがこの地上で成し遂げられたのは、死んで敗北することではなくて、命を懸けて血を流して私どもの罪を贖うことだったのです。だから、「成し遂げられた」というある意味で異様な最後の謎の言葉を大声で叫んだのです。ということは人生の終わりが一巻の終わりではないということです。
 ここまで来れば、なぜ今日のテキストがイザヤ書47章1〜9節であるのかが鮮明になったことと思います。
 イスラエルがバビロニア帝国の前に屈し、陥落して捕囚の民として危機に陥ったのは、主のご意志であったのだということが露わになったのです。なぜなら神の民として選ばれたにも拘わらず主に背いてきたからです。ですから主はバビロニア帝国を利用してイスラエルに猛省を強いたのです。バビロニアもその主の御心を理解しようとはせずに、暴虐の限りを尽くし奢ってきました。主はそのバビロニアを滅亡に陥れました。
 この47章は、バビロンの陥落の場面です。「娘バビロン」を容赦しない。
 3節、「お前は裸にされ、恥はあらわになる。わたしは報復し、ひとりも容赦しない。」5節、「沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。諸国の女王と呼ばれることは二度とない。」 
 さらに、主はイスラエルに対しても猛烈に怒ったのです。6節、「わたしは自分の民に対して怒り わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず 老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。」 しかもバビロンは7節、「わたしは永遠に女王だ、お前は言い 何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。」
 イスラエルは、唯一の神に選ばれた選民にも拘わらず神さまに背きました。そのイスラエルを滅亡させたバビロンも主を仰ごうとはせずに己の権勢を誇っておのれの終わりを考えようとはしなかった。ですから主が怒り主が滅亡させたのです。まことに主は唯一の神であり、歴史の主なのであります。
 ここまで確認すれば、みなさんは世界の歴史の帝国、大国の栄枯盛衰を思い浮かべるでしょう。中国の歴史、中近東のバビロン、ペルシャの歴史、地中海に君臨したローマ帝国、オスマントルコ、北のロシアなどなど、そして最後に日本帝国の滅亡を想起すれば、感慨無量になるはずです。この世のことすべてには終わりがある。
 しかし、私どもキリスト者は、永遠の生命を与えられ、死んでも生きるという信仰に固く立っている者なのです。世俗的な付属物(財産、履歴、学歴、名誉など)を誇ってはならない。むしろ与えられた付属物を神さまの御用に立てるようにひたすら努力しようではありませんか。
 もちろん誇るものがなくても一向にかまわない。ただイエスさまのみ名を伝えられればよいのです。証しと伝道ができれば十分なのです。
 なぜなら私どもキリスト者は、終わりがない世界の住民だからです。永遠の生命を与えられている誇りに生きているからです。
 最後に、八木重吉の「十字架」という詩を朗読します、

   十字架は悔いへのくさびである
   罪深くして悔いを全うし得ぬ者へのめぐみである
   何人でも仰ぎさえすれば救わるるという約束である
   基督を見し者が信じたる福音である

 祈りましょう。

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