帰り着く
イザヤ書35章10節
 1929年12月24日クリスマスイヴの日に、日本キリスト教団土師伝道所が創立されました。小林松尾姉を筆頭に7名が初代会員として出発したのです。ただ今、現住陪餐会員30名です。今年が創立86周年です。
 この間、信仰の先輩たちは、総勢48名が神さまのお膝元に旅立たれました。
 土師教会の86年の歴史を俯瞰するにはどうしたらよいかと時々考えて来ました。その間、私を含むと牧師は四代目ですが、初代の佐治良三牧師の任期が正確には分かりません。正式に就任した年、離職した年が曖昧なままです。二代目澤田静夫牧師が40年、3代目の田中清嗣牧師が27年、私が5年、という次第です。それぞれの牧師が牧会生活から個人的なレベルで得たこと悩んだことがあると思いますが、書き残したものからは、そのところが見えてきません。牧師というものは作家ではありませんから、公のこと以外は、何も書き残さないのであります。個人としての人物、人となりは教会員、近所の住民はほんの少し記憶に留めている方もいらっしゃるかも知れません。そういう点では、牧師夫妻という存在は、本質的に孤独なのです。
 ただし、今日の問題はここにはなく、問題は、教会の歴史をどう書くのか、です。全国の教会は各個の教会史、土師教会ならば、最新の教会史といえるものは、『創立80周年記念誌 教会はキリストの体である』を2009年12月24日に刊行しています。2階の母子室にはおつきあいのある教会の教会記念誌がたくさん戸棚に並んでいます。
 神学的視点から申しますと、教会史は神学校の重要な科目の一つであります。目に見えない普遍的な神の教会を信じていることが前提ですが、原始キリスト教、カトリック、オーソドックス、プロテスタント教会の歴史を扱う教会史というしんどい科目があります。
 さて、私どもは日本キリスト教団という合同教会に属していますが、実感があるでしょうか。日本キリスト教団は目に目える教会といってもいいのですが、事実は土師教会の現住陪餐会員であるという実感が勝っているのではないでしょうか。じつは百もご承知のことと思いますが、牧師は日本キリスト教団に属する教師であって、各個教会である土師教会には籍はございません。ですから教会墓地があっても自動的に入れるわけではありません。
 この土師教会は、就任式の御挨拶で申し上げた通り、神学的には改革派系長老主義に立っている教会です。私ども会員は、改革系長老主義とは何かという問いの前にたえず立たされているわけです。そういう教会としての自覚に立って教会史を書かなければならないわけです。しかし、これは理想論です。ですから何〇周年教会史ではなく、記念誌と銘打って、いわば各人が思い出を書くという形になるのです。今後記念誌を編集する場合には、こういう問いの前に立たされているということです。
 さて、今日は説教前に讃美歌448番を共に歌いました。一番の前半は、「はるかにあおぎ見る 輝きのみくにに 父のそなえましし たのしきすみかあり」です。葬儀の時に歌うこの讃美歌を愛唱する方もおありでしょう。私も好きです。それぞれこの讃美歌に伴う痛切な思い出もあるでしょう。
 祖父母、父、母、兄弟の思い出は年々吾が事として迫って来ているのではないでしょうか。私の葬儀が今日実現する。それが召天記念礼拝なのです。今日ここにおられる皆さんは、今ここに肉親の姿と声を肉感的に感じていらっしゃるはずです。何十年の前の出来事が再現されているはずです。それは温くて尊いドラマです。何十年の時間を越えて今日ただ今の出来事として体験しているのです。
 と同時に、そればかりではありません。どうしてこの行事が教会の年中行事として催されているのかを考えることが大切なのです。去年から召天記念礼拝での聖餐式を取り止めています。何故かというと、受洗者ばかりの礼拝ではないということです。今日はキリスト者であっても、なくても、共に死者を想起し、そして今日の私を考える契機を与えられる日なのです。
 つまり、死者の身内だけの会ならば教会が主催する必然性がありません。死者との交流が過去にあっても無くても、この土師教会を舞台に生きた信仰の先輩たちの人生に思いを馳せて新たに想起し感謝する日なのです。
 そして地上に残された私どもと天上に行かれた先輩たちを引き合わせる方が神さまなのです。つまり、神さまを中心にした聖なる三角関係が私どもの信仰の図形です。ですから、「遙かに仰ぎ見る」という表現は文学的な比喩であって、事実は「遙かに」ではなくて、「ここに」なのです。信仰は距離や時間を越えるのです。ということは復活にも言える、聖餐式にも言えることです。「死んで復活する」という表現も、じつは今信仰をしていること自体、喜んで生きていると言う信仰に支えられて今日すでに復活している、永遠(とこしえ)の生を生きているという喜びの告白なのです。くどくなりますが、今ここにご臨在の主と共にあるという実感なのです。
 今日司会者に読んでいただいた35章10節をもう一度開いて見てください。旧約聖書1117頁上段です。

  主に贖われた人々は帰ってくる。
  とこしえの喜びを先頭に立てて
  喜び歌いつつシオンに帰り着く
  喜びと楽しみが彼らを迎え
  嘆きと悲しみは逃げ去る。
 
 バビロニアに捕囚されて半世紀余り、民族の誇りや伝統まで危くなりつつある絶望の谷間に落とされたイスラエル民のもとに聞こえて来た神さまの言葉なのです。なんという光、希望でありましょう。これが信仰共同体に与えられた力に満ちた預言なのです。
 ひっくり返すようで失礼なのですが、旧約を読んでいると、歴史は10節の神さまの祝福のようには進みませんでした。エルサレムは残留者同志の利権争いの戦場と化していました。帰国の民は失望の中で再生の道を探っていったのです。人間の愚かさは、現在も変わりません。こうした繰り返される堕落、悪業の現実にもかかわらず、否、だからこそこの10節は、希望の明けの明星なのです。私どもキリスト者は永遠の命を与えられて生きている喜びを持って、神さまの祝福を浴びて生きなければならない。愚かな人類の歴史に終止符を打たなければならないのです。
 人類の歴史は膨大な死者に取り巻かれています。しかし、主は私どもを救うために歴史の時間のただ中に出現して、主を信じる私どもに向かって「生きていいよ、生きて喜んでいなさい。」 とおっしゃっているのです。

  喜び歌いつつシオンに帰り着く。
  喜びと楽しみが彼らを迎え
  嘆きと悲しみは逃げ去る。
 
 希望に生きる、否、現に生きているのが私どもキリスト者なのです。
 召天者記念礼拝は、希望の確認の日なのです。
 祈りましょう。

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