いつも喜んでいなさい
テサロニケの信徒への手紙 5章12〜23節
 シルバーウィークの途中から秋雨が降り続きましたが、27、28日の仲秋の名月はさすがに涼しい満月が上って、源氏物語や女流日記の長目(長い目)という月見の姿を思い出しました。月を見詰めてあれこれを思いやる長い時間(長目の日々)を指して言うのです。訪れて来なくなった恋人を思い、長い黒髪に雲脂(ふけ)が桶に浮いてしまっているのをぼんやり見詰めている蜻蛉日記の女主人公の月見。平安時代貴族の女たちは、夜が世界なのでした。そんな不安な女たちが西方極楽浄土から迎えに来てくださる阿弥陀如来への信仰を深めていったのです。紫式部もその一人でした。
 昔から今も変わりなく人間は絶えず不安を抱えて生きています。私のすぐ上の世代は、戦争の足音を軍靴(兵士の靴)から聞いて育ったのです。男なら赤紙、で戦場へ、そうでなくても結核で死ぬことの恐怖で青春を過ごさねばならなかった。女ならば恋人の戦死を、あるいは自分自身が結核になるのを恐れなければならなかった。死の恐怖は、青春のただ中に送り込まれた暗殺者だったのです。
 まして二千年前のローマ帝国時代には、病者、身体障がい、貧困、戦争は、目の前の逃げられない恐怖だったのです。あの時代にイエスさまが誕生した事実がどういうことを意味しているのかを改めて考えてみましょう。
 知識人は、私どものためにイエスが十字架に架かり、死に打ち勝って、罪を贖ってくださったという信仰告白は浪漫的な幻想に過ぎない、と否定します。否定することが知識人の誇りであると確信している輩さえおります。
 そんな中で過ごす私どもは、時々信仰が揺らぎ、迷い、私どもが間違っているのではないかと不安になったこともあった。
 私どもが不安な時、こんな囁きが聞こえて来ます。
 「イエスさまは神ではない、最高の英雄的なヒューマニスト、徹底的に人間である。イエスを尊敬し、イエスに学び、イエスと共に立ち上がろう。私どもの実力で平和な世界を実現しよう。」 という声がしだいに大きくなってきます。この囁き、この声の決定的な間違いに気が付かなくてはなりません。またしても人間の自己中心、自己過信が毒を撒いているのです。
 
 秋のさわやかな日和はうっとりします。秋が大好きだった詩人。八木重吉に「素朴な琴」という四行詩があります。
 
   この明るさのなかへ
   ひとつの素朴な琴をおけば
   秋の美しさに耐えかね(て)
   琴はしずかに鳴りいだすだろう
 
 何も付け加えることがありません。秋の日差しを浴びてブロック塀を這い登るトカゲもうっとりしているように見えます。
 が、しばらくすると、私の頭には、ドイツへの国境に掛けられた橋の上でびっしりと埋め尽くされた難民の疲れ切った顔が浮かび上がります。入国審査を待っているのです。ISイスラムの遺跡破壊のニュースが入ってきます。日本の国会議事堂を取り囲む安保法制法案反対の市民のデモが浮かび上がります。
 私の胸を切り裂いた、黄色い縦て模様が骨の墓場のようにくっきり浮かび上がります。
 ああ、これも紛れなく世界の現実なんだと実感するのです。
 差別と偏見、基本的人権の無視、暴力、病気、叛乱、戦争。こんな世界の現実が何千年も続いているのです。東日本大震災の時に、「神も仏もない」と叫んだ人がありますが、私は、聞いてみたいと思いました。「ちょっと待ってください。あなたは神と仏を全力で信じていますか。」 と。 
 この現実は、神と仏の責任でしょうか。どこまでが人間の責任でしょうか。神と人間の責任分担を腑分けしても、現実は変わりません。
 そもそも不安を抱えることのない日常の暮らしがあるのでしょうか。
 今日のテキストを知らないキリスト者はありません。が、「いつも喜んでいなさい」という聖句だけが一人歩きをしていないでしょうか。「いつも喜んでいなさい」だって、おバカさんでないかぎり、いつも喜んでいられるはずがないという反論がたちどころに返って来るでしょう。否、使徒パウロが言っているんだから、深い神学的意味があるに違いないから、お勉強しようという意見もあります。両者ともども見過ごしているものがあります。
 これはテサロニケの信徒にあてた手紙の文脈の一部分なのです。手紙の中身の構造と文脈を無視して、「いつも喜んでいなさい」という聖句だけを取り出して、金科玉条の鉄則として押し頂く姿勢が根本的な過ちなのです。キリスト者の中にはそんな融通の利かない人がいます。
 テキストは、イエスさまの再臨の日を待ちわびているテサロニケ教会の信徒が手に取るように伝わって来ます。が、だからこそパウロは、5章1節、「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」 2節、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなた方自身よく知っているからです。」 と言っています。
 その前提に立ってパウロは、いつ主がやって来てもいいようにキリスト教徒が万全の信仰の準備を怠らない、歓喜の極みに主をお迎えできるようにするにはどうしたら良いのかを話しているのです。
 16節の「いつも喜んでいなさい」の聖句が登場する直前の場面では、パウロは、14節以下でこう言っているのです。「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」 15節、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気を付けなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。」 と。
 戒めて、励まし、助け、忍耐強く接し、悪ではなく善を行うようにと務める。
 文句の言いようがありません。それができたらどんなに良いか。よくよく考えたら、うわあ、大変だ。どうしよう、と言いたくなります。
 が、これがイエスさまの再臨を待つキリスト者の行動規範(模範)なのです。
 おそらくこんな規範にのっとった行動ができる人はいない。それを十分に知りながらパウロは書いたのです。キリスト者ならばこうありたい、こうすべきだという主張なのです。全身全霊込めてこう行動してこそ、「いつも喜んでいなさい」という聖句の真意(ほんとうに意味するところ)を実感できるのです。
 ということは慎重に行動することです。
 21節をご覧ください。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」 と念を押しています。吟味とは、物事を詳しく調べて選ぶことです。慎重に吟味して行動するのです。そしておそらく重責を担う仕事でしょうが、その重責を果たすことが喜びをもたらすのです。達成感です。
 パウロの言葉は、たくさんの重い意味を担っていて、困難を伴った任務ですが、それゆえに達成感があり、喜びが覆ってくれるのです。
 さて、先に「神も仏もあるものか」という叫び声を取り上げましたが、信仰なき神仏への罵声、ののしりは無意味です。「いつも喜んでいなさい」という聖句の独り歩きも無意味です。
 世界の現実は無惨です。が、そんな現実がうっとりする秋日和の中に展開する。戦時中にも男女の愛が育っていったように、です。
 日本人の私どもは今日飢えているわけではない。空襲に怯えてもいない。が、自然災害が、政治的な安定が突然崩れるかもしれない。 絶えず不安が私どもを脅かしている暮らしなのです。
 が、だからこそキリスト者は臆してはならない。おどおどしてはならない。苦しんでいる者、悲しんでいる者の傍に佇んでいる主イエスさまによって支えられている確信に立って、よろめきながらも進んでいく、病身でありながらも進んで行く。神さまに委ねるということは、傷つきながらも倒れない。雄々しい生き方を貫き、主の証し人として死ぬ日まで天を仰いで進んで行くのです。
 こういう生涯が、「いつも喜んでいる」生涯なのです。
 祈ります。

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