神と王
列王記下11章9〜21節
 1941年(昭和16)生まれの私は、敗戦後のどさくさ末期昭和20年代が幼少年期であったのですが、本屋に行くのはわくわくどきどきしました。本屋は夢の王国への入り口で、世界の童話がいっぱい溢れていました。「秘密の花園」、 「小公女」、 「鉄仮面」、 「みにくいアヒルの子」、 「赤い靴」、「巌窟王」、 「王子と乞食」、 「白雪姫」、 「シンデレラ」など、数え上げたら切りがありません。大きくなって、その多くは日本の子供向けに編集して、内容も大幅に手入れされた翻案物であることを知ってがっかりしました。
 が、子供の頃に刷り込まれた筋書やイメージなどは鮮明に残っているものです。
 同時に、今でも疑問があります。なぜ世界童話全集なのに日本の童話が入っていなかったのでしょう。敗戦後に育った子供である私を励ます祖国日本の童話が必要だったにかかわらず、どうして。
 現在の子供は、例えば王様、王子様と聞いたらどんなイメージを思い描くのでしょう。漠然としているけれど欧米の王様、王子様ではないのでしょうか。私自身そうでした。敗戦国の子供であった私は、日本の歴史、社会、風土になかなか関心を持てずに育てられたのです。
 皇子(天皇の子)と書いて「おうじ」と発音することも中学校を終えるまで知らなかったのです。
 高校生になってキリスト教研究会を組織して、教会に通ってのめり込んで行った時から、
「神と王」について考えるようになり、日本の場合この「神と王」のテーマはどうなるのかを模索していた時に、出会ったのが、評論家の亀井勝一郎です。亀井は、日本天皇制国家が、明治維新以降の政治的演出によって意図的に創られたものであって、欧米のキリスト教国に触発されて天皇を神と王に祭り上げた擬似宗教国家であると喝破しました。その路線は戦後も変わらずに日本人の心に翳りを残して息づいています。「天皇は神聖にして犯すべからず」という帝国憲法によって敗戦のどさくさまで〈生きている神である天皇陛下〉であったのです。 
 その天皇制を徹底させるために一村一神社宗教政策が強行されて、日本の伝統的な自然信仰に立つ各地の神社が破壊されて打ちこわしされてしまった。その神社を囲む杜(木と土と合わせて書くモリ)も伐り倒されてしまった。南方熊楠が体を張って杜の木を守り抜いた事実はみなさんがご存知の通りです。
 そして明治政府が作り上げたのが伊勢神宮を頂点として、出雲神社が仕えるピラミッドで表した神社の格付け番組なのです。その変革期の激動に呑み込まれて伊勢神宮から追放になった下級宮司の娘が、後に恵泉女学園を創立した河井道であります。つまり神道からキリスト教への回心者の系譜があったことも忘れてはならないでしょう。
 神と王の概念が曖昧なままである今日の日本が、嬰児の誕生の祝福は神社への宮詣、結婚式はキリスト教式で、葬式は仏教で行うことを抵抗なしにできることをどう考えたらよいのでしょうか。この国を共通に結ぶ倫理観や道徳観があるのでしょうか。
 ある面で、世界一のキリスト教国であると言われるアメリカで、一部のキリスト教一派が、同性婚、性的少数者、中絶、進化論に反対をしている動きを捕らえて宗教的狂信的右翼だと図式的に断定して批判する日本人の多くは、アメリカのキリスト教右派の歴史的信仰的背景を分析しての結果ではなく、先進国として世界一の無神論、宗教的無関心で知られる日本人である事実と重なっているのを、私は見逃せません。日本人の進化論支持、底の浅い無神論、宗教への無関心こそ、世界中の関心事だということをなぜ自覚しないのでしょうか。
 この問題を考える鍵が今日のテキストなのです。
 11章1節、「アハズヤの母アタルヤは、息子が死んだのを見て、直ちに王族をすべて滅ぼそうとした」。 2節、「しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹であるヨシュバが、アハズヤの子ヨアシュを抱き、殺されようとしている王子たちの中からひそかに連れ出し、乳母と共に寝具の部屋に入れておいた。人々はヨアシュをアタルヤからかくまい、彼は殺されずに済んだ。」 3節、「こうして、アタルヤが国を支配していた六年間、ヨアシュは乳母と共に主の神殿に隠れていた。」 
 ここで注目したいのは、最後の「主の神殿に隠れていた」という部分です。ここには神さまの御心が背後にあるのを感じます。そして4節以下は、七年目に、祭司ヨヤダはヨアシュを王として油を注ぐために、百人隊長らを神殿に呼び入れ、王子を見せて協力を命じた。そして安息日に決行した。安息日の実行にも、逆説的な神の導きを感じられます。12節、「祭司ヨヤダが王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡した。人々はこの王子を王として、油を注ぎ、拍手して、『王万歳』と叫んだ。」
 さらに王アタルヤを神殿の外で捕らえて殺した。血なまぐさい殺しの場面の展開です。
 こんな場面を聖書は、繰り返し登場させます。父殺し、子殺し、兄弟殺し、目を覆いたくなる場面の連続です。
 日本の『古事記』でも同様です。古代政権のドラマは血で血を洗う凄まじい闘争劇です。万世一系の天皇家どころではありません。万世一系は近代絶対天皇制が作り上げた神話なのです。
 では、聖書と古事記の政権闘争はどこが違うのでしょうか。今日のテキストでは、祭司ヨヤダのリーダーシップが前面に出ています。ご存知のように、祭司は神殿を主要な舞台に神の御心をひたすらに聴き続ける宗教専門家です。つまり神の正義に聴き従い実行する任務を負っているのです。神のみこころを実行するのです。しかし、古事記には祭司や預言者が登場しません。
 この世の権力的支配者である王。そして宇宙の創造者、歴史を動かす支配者である神とは、全く別の存在なのです。
 日本の歴史は、神と王との概念が曖昧で、ことに正義の概念(定義)が不明瞭なのです。明治末期からマルクス主義がもてはやされ、第二次大戦後安保闘争時代まで熱狂的に迎えられた原因は、社会的公平の概念が明確だからでした。
 しかし、現在では、急速に萎んでしまいました。経済的不平等解消や富の分配のみでは、世界の現実は解決できないという厳粛な事実を知ったからです。人間の幸福とは、図式的な経済的平等分配論では解決ができないのです。
 働く喜び、生き甲斐など、人間の幸福は複雑な要素で動いているからです。そこにキリスト教の存在意義があるのだと思います。
 テキストに戻りましょう。人間の織りなすドラマは現在でも眼を覆いたくなります。権力闘争、戦争、基本的人権の侵害、差別。悪の洪水の中で人間の罪(原罪)を考えない人はいないでしょう。
 この悲惨な現実の中で、現代の神のみこころである正義に生きる祭司ヨヤダは現れないのでしょうか。待っていても現れません。じつはこの礼拝堂にすでに現れています。聖書に絶えず学んでいる私どもこそ現代の祭司ヨヤダなのです。
 さて、万歳の歓呼に迎えられたこのヨアシュ王は、12章の終わりの方を読むと、臣下の謀反によって殺されるのです。
 では、どんな生き方があるのかといいますと。正解はないのです。祭司ヨヤダに倣っていかなる状況でも神のみこころを聴いていく姿勢を貫くことです。復活信仰を受け入れている私どもキリスト者の強さの秘密はここにあります。この世では日々老いていきますが、信仰的には日々に新たにされて行く確信に基づいて、正義を実行していきましょう。
 神を神として仰ぐ姿勢から、この世の王(為政者、政権担当者)を神さまの御心に沿って立てるという行為が成立するのです。
 このことを理解して神さまを仰いで主日礼拝をしっかりと守りたいと思います。礼拝はまさにわが身を奉げる行為なのです。そこを譲って私どもの信仰生活は成り立たない。
 祈ります。

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