反対者たちの父
ヨハネによる福音書8章39〜47節
 誰でも思春期になると様々なことを考えるようになります。その一つが自分の誕生日です。自分が覚えていない誕生日の年月日、その時刻、その場所、家族に聞かされてきたから信じているので、肝心の自分は記憶がない。自分の生年月日、本当に事実だろうか。(市)役所に記録されているのが根拠だが、ほんとうだろうか。私どもの世代には生まれた日と届け日がずれている友人が多い。生まれた日が歳の瀬なので芽出度い正月にずらして届けた、ついお父さんが忘れてしまったなどと言う人も多い。まあ、役所も見逃していたようです。
 それから、親戚から父に母に似ていると言われて大きくなった人も多いのだが、それが根拠だろうか。血液検査など思いも及ばない時代だった戦前戦中です。
 残留孤児の場合、父、母の名前さえ記録にない場合が多い。本当に私は日本人なのだろうか。いったい自分は誰なのかと悩んでいるではないでしょうか。客観的な根拠がないのです。
 出生に関しては、私自身が本当に悩んだ時期があったのです。
 出生についての悩みが消えたのは、兄や姉、祖父母の証言を聞いたからではなく、喜怒哀楽の感情表現が剥き出しの父の性格的な弱さ欠点が自分とそっくり、否、父にそっくりな自分を繰り返し繰り返し経験して成人したときに、血液検査をするまでもなく、父の子であることを承認せざるを得なくなったからです。それは喜びではなく、諦めにも似た悲しい認識でした。
 たとえ血液的に父子関係がないと証明されても、父の子として生きて行こうという決意を新たにした背景には、二十歳になるまで育てられてきた環境が生み出した訂正できない重い結び付きをすでに抱え込んでいたからです。多くの弱点欠点を抱え込んでいる父であるが、私を溺愛している事実を丸ごと受け入れて行こうという決意を新たにしたということです。
 高校時代、キリスト教に深くのめり込んでいったときに胸に刻まれたのが次の聖句です。イザヤ書49章15節、こんな言葉が書かれています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。/略/たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。/見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
 私は、正直に言って父よりも母に共感するものを多く感じて育っています。が、その血につながる父母よりも、キリスト教が教えてくれた天にまします唯一の父によって人生に目が開かれた人間です。
 今日のテキストは、改宗したユダヤ人とイエスさまとの父をめぐる論争の一場面です。
 およそ人間の残した物語のうちの一つに、父親探しの物語と、反対に父親殺しの物語の系譜があります。
 が、今日のテキストは、また別の種類の物語です。今日のテキストのテーマは、父との連帯と一体感の物語です。が、その父親像が根底的に異なる。イエスさまの場合には、父の愛の言葉に生きる。ユダヤ人改宗者の場合には、人殺しを企む罪を父に教わった物語なのです。両者共に父と直結して生きているのですが、どうしてここまでずれているのでしょうか。これは盲信(盲目的に信じる)と信仰(愛と確信に生きる)の違いの物語です。
 結論から言うと、イエスさまの父と改宗者のユダヤ人の父の本質が決定的に異なるということです。父すなわち唯一なる神だと両者は主張している。二千年後の現在も世界は両者が対立しています。イスラム教内でもキリスト教内でも内部対立が激化している。互いに自分たちが神の側に従いていると主張しているので深刻な論争になっています。 
 テキストに入って考えてみましょう。
 キリスト教に改宗したユダヤ人の先祖の父は、アブラハムであり、イエスさまの信仰の父もアブラハムなのです、そしてアブラハムの父は唯一なる神なのです。
 今日のテキストの一つ前の段落の小見出しは(182頁)、 有名な「真理はあなたたちを自由にする」ですが、その冒頭31、32節、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』
 「本当に」という副詞で念を押しているのは、信じたけれども本当には理解していない。信仰の域には達していないという意味なのです。そしてイエスさまは改宗者たちの父理解の欠点を鋭く突いているのです。37、38節(182頁下段)、 「あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」 と。
 ここでイエスさまの言葉が指摘していることは、「あなたがたユダヤ人改宗者の父に対する理解が根底的に違っているよ。わたしを殺そうとしている企てはあなたがたの父からの入れ知恵である。」 という意味なのです。
 このイエスさまの言葉の意味を理解しないまま、ユダヤ人の反論が発せれられる。
 が、イエスさまの糾弾が続きます。40節、「今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」 イエスさまは、彼らのいう父とわたしの父とは違う。「あなたがたの父とは何者なのか」を見抜いて糾弾しているのです。
 人間はしばしば同じ言葉を使って、違った内容を話している場合が多い。しかも執着しているから、いっそう混乱する。
 41節、ユダヤ人の答えは、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」 ここのとんちかんな返答はどこから出て来たのでしょうか。かれらはイエスさまに侮辱されたと思っているのです。が、侮辱ではない。糾弾なのです。それが分からない。
 イエスさまはしびれを切らして、噛んで含めるように断言されるのです。42、43節、「『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。』
 彼らは自分たちは、信じて改宗している者であると確信していますが、その内実は自分勝手に取捨選択して聞いているのであって、信仰の域に達してはいないのです。
 44節、その内実を知っているイエスさまは、彼らの言う父の正体をずばり言い切っています。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときには、その本性(ほんせい)から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」
 これほどあからさまに剥き出しな表現はない。イエスさまはこれと言う時には、妥協しない。徹底的に叩いて自分の意志を伝えるのです。彼らの決定的な欠陥は、「自分たちの父とは何者なのか」を素直に問おうとはしない、自己反省の無さなのです。
 それに比べて、四二節のイエスさまの言葉、「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」という言葉は、何という確信に満ちている言葉でしょうか。そこには絶対的な父への信頼がある。父に派遣されているという確信よる基づく使命それは父のもとで見たことに基づいている。かれらの自分勝手な解釈に基づく父のイメージを「人殺しの悪魔の父」であると断罪するのです。
 43節、だから彼らへの苛立ちが露わになったのです。「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それはわたしの言葉を聞くことができないからだ。」 聞く力という能力がある。相手の言葉をお受け止めて了解する能力が彼らには欠けている。
 ここからイエスさまは、ユダヤ人たちの無能力の出どころを一挙に突くのです。44節、「あなたたちは、悪魔である父から出た者で」あると。「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。」
 と。
 その結論は、47節、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」 と。
 信じて改宗者になったというユダヤ人たちへのこの容赦ない断罪は、ここに集っている現在の私どもへの容赦ない断罪でもあるのです。信仰を持っているという誇りが、反省なき信仰だとしたら恐ろしいことです。信仰生活の長さは関係がありません。
 私どもに必要なのは、絶えざる自己反省なのです。昨日の午前二時過ぎ、国会は集団自衛権を含む安保法案を怒号と混乱の中で押し通しました。自分勝手な自己反省のない討論、自分勝手な強行採択は、神さまが決してお喜びなさらないでしょう。
 私どもは日本のキリスト者として、信仰の絶えざる自己反省の下に、平和な世界の明日を目指して進んで行きましょう。 

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