人の肩に載せるが
マタイによる福音書23章1〜15節
 みなさんの人生で出会った映画の中で、ベストワンをあげるとしたらどんな映画でしょうか。
 私の場合は木下恵介監督の「二十四の瞳」です。みなさんも観た人は多いでしょう。私が初めて見たのは、中学二年、その後ビデオを含めて20回は、観ています。時代は昭和3年から敗戦後の昭和21年までの18年間、小豆島の小学校分教場に赴任した大石先生、女先生と十二人の教え子たちの心と心の師弟愛を描いた傑作です。
 戦前の格差社会の貧困、病気、迫って来る軍国主義、教え子たちの出征、負傷、戦死、大石先生の夫の戦死など、あの暗い時代をそれぞれの重荷を背負って生きていかねばならない苛酷な人生の姿におのれを重ねて、涙なしには見られなかった映画です。
 そして1954年度(昭和29)公開されると、当時もっとも権威があった映画評論雑誌「キネマ旬報」の今年度ベストワンに輝き、あの黒澤明の「七人の侍」が三位でした。中学生だった私は、比較的裕福な家庭に育った少年だったのですが、私どもの日本という国が辿った苛酷な歴史を十分に理解をしたのです。同級生に母子家庭が多かった理由も納得しました。駅前に立って首にぶら下げてた木箱の中ある納豆を売っている同級生に目を合わせないようにそっと通り過ぎたものです。
 さて、この映画は小豆島育ちの壺井栄がキリスト教系雑誌「ニューエイジ」に1952年(昭和27)に連載した小説です。壺井栄は夫の詩人壺井繁治と共に左翼陣営の文学者であったのですが、なぜキリスト教系の「ニューエイジ」に連載したのかは謎です。この謎を追っていると戦後日本史のもうひとつの顔が見えてくるかもしれません。
 戦後70年の夏が過ぎていきます。戦争を放棄すると断言した憲法を持つ国に暮らしていることの貴い意味を噛み締めて、今の日本の現状を考えたいなあと思います。
 と、ここまで来たところで今日のテキストが飛び込んで来たのです。大石先生に抱いた日本人のイメージは先生の理想像です。教え子の人生と自分の人生を重ねて、喜び、悲しみを共に生きていく、教え子にのしかかる重荷をも精一杯抱えて共に生きていく姿勢です。貧困、丁稚、赤紙、家族の運命がのしかかってくる。出征する兵士になった教え子の背後から四国金毘羅参りの修学旅行の船で歌った唱歌が思い出されて来る。金毘羅さんのうどん屋さんで丁稚奉公に出されている教え子に偶然出会った大石先生は、自分の無力に打ちひしがれ……
 ところがマタイによる福音書23章8節、45頁上段、「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない。」 という断言が迫ってきます。
 小学校から中学校、高校、人によっては大学でも尊敬する先生に出会えた人も多いでしょう。私も私の人生を絶えず励ましてくれる先生に出会いました。大学卒業後、先生になったのも恩返しの気持ちがあったのも事実であります。小説家徳富蘆花は、日本の各地の自治体に必要なものは、「良い先生、良い医者、良い牧師」であると言っています。私も賛成です。
 ではなぜイエスさまは、先生を否定なさるのでしょうか。今日のテキストの小見出しは、「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」です。共観福音書が連関記事を載せています。かれらはユダヤ国家を支配している宗教的、政治的エリートたちです。エリートたちはすでに手にしている権威と地位の上に座って胡坐をかいている。そんな威張り方は、二千年前と現在も変わりません。なぜこんな空威張りが維持できるのでしょう。世俗的権威と地位は、目に見えるものの典型です。最も手に負えないものが政治的権力と宗教的権力の合体です。明治以来の天皇制絶対主義日本国家を想起すればお分かりでしょう。戦後の原理である政教分離はこうしたかつての過ちを犯さないための自覚的なブレーキなのです。
 そして、そのユダヤ国家体制は、イエスさまの登場によって否定されたのです。その精髄が今日のテキストの場面なのです。
 イエスさまは、かれらエリートたちとは真っ向から論争を展開しましたが、今日の場面のように「群衆と弟子たち」に向かってお話しされることもあったのです。群衆と弟子たちはエリートたちの論理と行動の罅割れに鈍感なので、その点を気づかせようとなさったのです。すなわちエリートたちの言行不一致の罅割れに注意を向けさせるのです。かれらは旧約のナンバーワンの預言者モーセの地位に就いている。さらに根拠のない言い伝えを加えて権威をさらに装っている。モーセの座に就いているがモーセが体験している救いの感動を伝えようとはしない。ひたすら律法の教えを守れ、義を目指させと命令するだけで、信仰と言う名の夥しい重荷を押し付けているのです。4節、かれらは背負い切れない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 5節、「そのすることは、すべて人に見せるためである。」 イエスさまはかれらの胡坐をかいていい気になっている偽善を見抜いていらっしゃる。5節の続き、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」 
 近頃日本のプロテスタントの一部には旧約のユダヤの風習と日本の風習との共通点にこじつけて、古代ユダヤ人が日本に移住したという珍奇な異説が幅を効かせつつあります。山伏が額につけている小箱とこの箇所の小箱を結び付けたり、京都の太秦寺と秦氏がユダヤ民族であったと主張したり学問的に解明せずに異説に溺れている風潮があります。果ては岩手県の戸来にエスキリというイエスさまと弟の兄弟墓だという主張までがあります。考古学的手続きを無視したでたらめですが、お話やや伝承はそれなりの背景があります。
 が、気を付けないと道を誤り易い。それらを通して何にを証明したいのか、何が伝えたいのかを明確にしないと学問的に深まらないでしょう。それらは、聖徳太子はクリスチャンだった。親鸞は聖書を読んでいたと断言するに等しい。無謀な夢です。私どもの志す伝道や宣教に関係がありません。
 先生と呼ばれることを好むのは、偽善者であることの証明です。先生あるいは教師と呼ばれてもいけない。キリスト一人が先生であり教師なのだと聖書は言っているのです。 
 では日本キリスト教団の補教師、正教師とは何者なのでしょう。国家のエリート、支配層では毛頭なく、本質的には生涯かけての求道者であるがゆえに兄弟姉妹の一員であり、故に牧会を神さまに託された人なのです。ましてや「見せるため」の信仰とは、無縁な人なのです。私どもは、イエスさまを主なるキリストであると表明する教会共同体の一員です。しかも教会はイエスさまの体であるという論理では成り立たない霊的な世界の住民なのです。指一本、二本、三本、十本動員しても人生の重荷は背負いきれないこともままあるのを知っています。
 が、お互いに祈って、聖霊さまに祈って、そしてすべてを委ねるときに、御心ならば、神さまは願いごとを聞いてくださるのです。なぜなら神さまの本質は、行動する言葉であるからです。
 二十四の瞳の大石先生は日本人の庶民の涙の中から生まれた理想像です。
 しかし、行動する言葉である主イエス・キリストは、木下恵介監督が作り上げた大石先生を遙かに超えている、私どもの救い主なのです。
 死を超えている永遠の生命であるイエスさまに助けられて、生きることを保証された私どもにイエスさまは、こう言っておられます。12節、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 信仰の勝利は、目に見えるものではなく、見えないものによって保証されるのです。ハレルヤ、祈りましょう。 

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