霊と肉
ガラテヤの信徒への手紙5章16〜26節
 三浦綾子さんの主な文学舞台は北海道の旭川市です。旭川市は北海道の道北部の南端にあり大雪山を仰ぐ典型的な内陸性気候の盆地であり、零下40度まで下がるので夏の冷房が整っていない。ポーランドが風土的に似ています。広々とした土地、ゆったりとした時間、中心を流れる石狩川は、カルガモ親子の教育の訓練場です。『氷点』の舞台には、三浦綾子記念文学館が建てられ、ステンドグラスの十字架を彩っているのは雪の結晶の図案でした。
 三浦綾子が世界一読まれているのは、日本ですが、キリスト教文学としての三浦綾子が世界一愛読されているのは韓国です。その旭川に日韓キリスト教文学関係者が集まって国際会議が催されたわけですから、熱気と快い興奮が会場に満ち溢れていました。旭川市は、近年、函館、小樽を抜いて北海道の第二の都市の位置を占めています。
 文学的にはプロレタリア詩人の小熊秀雄、詩人作家井上靖の出身地です。井上靖は陸軍師団官舎に生まれました。靖の父は軍医です。そして日露戦争を背景に軍人小笠原善平の苦悩の青春を描いた徳富蘆花の『寄生木』の重要な舞台です。旭川は、北海道の警備と開拓を目指して「屯田兵」制度を敷いた都市の一つです。後に陸軍第七師団司令部の置かれた軍事都市として定着して、戦後現在の自衛隊に引き継がれた長い歴史があります。
 最近は、斬新な企画アイデアで旭川動物園が注目を集めています。その旭川に集まった日韓のキリスト者文学者たちは、日本キリスト教団とカトリックの合同聖歌隊の歌う高野喜久雄の作詞の讃美歌に盛大な拍手を惜しみませんでした。
 旭川にお別れの朝、妻と私は『氷点』に出てくるアイヌ墓地を尋ねました。日本の先住民族アイヌは自分たちの土地を和人(日本人)に侵略支配されて、やがて強制移住させられ、蔑視差別の下に曝らされて来ました。そのアイヌの墓地です。尖った槍(男性)を思わせる木の棒、てっぺんの平たい(女性)木の棒、そっけない墓標のものがアイヌの伝統的な墓ですが、大半は日本人の様式の墓石です。日蓮宗のものが大部分のようでした。アイヌは死と同時に魂があの世に行くという信仰に生きていますから、墓参の習慣がありません。というわけで朽ちかけているものもありました。この墓地は旭川市民も知らない人も多いそうです。観光地図にも載っていません。
 さて、今日の題名は、「霊と肉」です。
 原始キリスト教時代から、新興宗教キリスト教共同体すなわち教会は、仲間内からの信仰の罅割れと外側からの迫害に苦労し続けたことは、皆さますでにご存知の通りです。パウロは、多人種、多言語、多文化から出発した原始キリスト教のユダヤ圏外への宣教伝道に国際化を目指して奮闘した偉大な使徒です。
 一方旧約の伝統に立つユダヤ教は、外国人への伝道には手を付けませんでした。というよりは成功しませんでした。日本の神道は、一村一神社方式を強行して民間神道の信仰を薙ぎ倒して、天皇制軍国主義一点張りで国民に信仰を強制して、韓国併合時代には、神社礼拝を強要しました。ユダヤ教と神道共に国際化できなかった理由は明確です。ユダヤ民族、大和民族絶対化のウルトラナショナリズム(自称神の民)が原因です。神聖政治は、自己絶対化の過ちを必然的に犯すのです。ドイツでのキリスト教衰退の原因は、教会が税金で運営されているからです。
 国家からも地方自治体からも一銭の援助も受けていないことは土師教会の誇りです。
 さて、今日のガラテヤの信徒への手紙は、パウロ書簡の一つです。この書簡は、福音の真理とそこにしっかりと根差したキリスト者の自由を高らかに宣言している点に於いて新約聖書中でも、もっとも福音の薫り高い書簡です。まさに福音信仰の大憲章(マグナ・カルタ)とも呼ばれている傑作です。
 今日のテキストのすぐ前、5章13節をご覧ください。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」 とあります。 この前提を踏まえて、今日の小見出し「霊の実と肉の業」の世界が展開されているのです。
 ただし日本語の「霊」と言うと誤解されやすいです。
 「幽霊が出た」とか「霊魂不滅」と言う具合に。死者の化け物とか死体から抜け出た霊魂とかいうふうに。霊魂という考え方は、善意に解釈すれば、肉体と精神の二本立て興行が人間の営みであるというギリシア的二元論です。肉体と精神という解釈は分かりやすい。が、分かったようでいて分かりにくい。
 私どもの拠って立つキリスト教は、二元論ではなく一元論です。言ってみれば精神と肉体とは切り離すことはできない。心病むときは肉体も病むときです。人生とはそういうものなのです。
 テキストで論じられている「霊」と「肉」は、精神と肉体とは関係がありません。「肉」とは、自己中心主義、人間絶対化主義(ヒュウマニズム)です。例えば、「命あってのもの」のという表現は多くの共感を呼びます。が、ちょっと待ってください。命は自然発生的に生じるわけではありません。命は与えられたものです。この命を感謝して愛おしみ、この命を通して私とあなたとの人生を感動し共鳴しなければ生きてるという実感は持てないでしょう。病んでいるときも健康な時にも生きているという感動を分け合って生きなければ、良いキリスト者とは言えません。いつもキリストの御霊によって導かれ、確立した自由を存分に生かすことが「霊の実」を実現する、真にキリストに従う道なのです。
 三浦綾子の『塩狩峠』の主人公の鉄道職員永野信夫のように列車を止めるため、大勢の乗客を救うために自分の命を投げ出すことを誓い続けることが大切なのです。いざという時に自分の命を投げ出すことができるかと悩むのではなく、誓い続けることによって神様の御霊に助けられて実現することを祈ることが大事なのです。その実現は神さまに委ねるのです。
 18節、「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」 律法主義者は、自分の努力と修行で救いに到達できるという自己信仰過剰な人たちです。自分の弱点、限界を知る人は打ち砕かれた私を発見して喜びを覚える人です。救いはあちらの方から、自己以外の外側からやって来るのです。
 19節をご覧ください。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。」 これほど肉の業をいちいち数え上げることは使徒パウロの過去はもしかしたら暗いものであったのではないかと邪推したくなりますが、詮索するのは野暮というものです。パウロはかつてキリスト信徒たちをひっ捕らえ容赦なく処罰した張本人なのです。そのパウロが回心したのは使徒言行録が詳しい。回心する、救いに与かるとは、当人にとっては思い掛けないことなのです。
 命と信仰は神さまに与えらえるものなのです。
 パウロの確信を書き綴ったこのテキストから、私どもも勇気と励ましをもらって、霊の導きに従って前進しましょう。
 戦後七十周年、です。戦争の準備ではなく、平和の確立を再確認して、神さまの前にもう一度誓いたいと思います。
  「平和を実現する人々は、幸いである。
   その人たちは神の子と呼ばれる。」
          (マタイによる福音書)
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