健康であるように
ヨハネの手紙3 1〜4節
 今の日本は皆さん、健康、健康、健康一番志向です。牧師館の窓から見える風景も、一番目に飛び込んでくるのは、朝夕の夫婦の散歩、または女性一人の日除け完全武装ともいえる姿、日焼けを防ぐための翼の突き出た帽子、腕を守るための黒くて長い腕カバー、顔の大部分を覆っている黒覆面など、大女優の真夏のお忍び外出の場面なのかなと思うほどです。
 皆さんの目的方面は、大体は三方面のようです。第一方面は、府立大学キャンパス、第二は、土師町一丁のセブンイレブンからニサンザイ古墳方面、第三は、深井中央中学校、経由、源平方面へと精力的に歩き回っています。だいたいが熟年夫婦、もしくは定年後の高齢者です。
 私はというと隔日(一日置き)ごとくらいに、暮れなずむ土師の入り組んだ道を妻に労わられながら、黒くてきつい蚊を恐れながら小一時間立ち止まり休みつつ歩くのです。外から見たら散歩でしょう。こう見えても一生懸命な、リハビリです。大体汗かきなので体臭がきついらしく、吸血鬼の蚊にとっては、絶好の動いている餌場なのです。
 ところで散歩って言葉は、もちろん、暑い季節には欠かせない海水浴という言葉も聖書には出てきません。なぜでしょう。一度考えてみてください。
 さて、それにしても健康に反対する人はまずいないでしょう。が、改めて健康って何かと考える人は、意外に少ない。
 では、健康の反対語は何でしょうか。不健康、病気、肥満、怠惰、いろいろ考えられますが、これっという、ぴったりした答えはなかなか見つかりません。
 とにかく、健康、これに越したことはない、とは言えます。
 が、新旧約聖書に「健康」という言葉はどのくらい出て来るでしょうか。驚いたことに旧約はゼロ、新約でも三回のみです。
 健康については、皆さんが思い浮かべるのは新約のどこでしょうか。使徒言行録15章29節(244頁上段)には、派遣されるユダとシラスの「健康を祈ります。」 とあります。さらに本日のテキスト、ヨハネの手紙3の2節は、「健康であるように」と祈っています」。 
 最後は皆さんがすぐに思い浮かべるルカによる福音書5章31節のイエスさまの言葉ですね。111頁上段、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 
 ここで言われている「健康な人」とか「正しい人」に対して、対応しているのが「病人」とか「罪人」です。
 広辞苑を引いてみると、健康とは、「身体に悪いところがなく、心身がすこやかなこと。丈夫、壮健、病気のないこと」とあります。
 が、健康の定義はむずかしくて、「心身のすこやかなこと」と言われると、これは何が言いたいのかなとやや惑いを覚えてしまいます。さらに丈夫、壮健、病気のないこと、まで付け加えられています。丈夫は、「身の丈のたけ」と夫「夫」と書いて丈夫(丈夫、じつはますらお)と漢字二文字で書きますが、一番目の意味は、立派な男、勇気のある強い男です。
 となると、どことなく丈夫な兵隊のイメージが浮かんできませんか。図星です。二番目の意味が武人、兵士なのです。兵士とは国家のために役に立つ男(兵隊)のことであり、その反対語が病人、役立たず、なのです。ハンセン病者への差別と侮辱がまさにこの偏見が作り上げたイメージ、役立たずだったのです。二千年前のイスラエルでは、共同体から追放された役だたずであった。イエスさまが仰る病人、罪人がどういう人々を指したのかお分かりでしょう。イエスさまは彼らに自分の手を当てて癒した医者でもあったのです。ローマ帝国の兵士がしばしば登場する新約のなかで障碍者兵士は全く登場しないのです。健康のイメージはその奥底に兵士のイメージが揺らいでいるのです。
 今安保法制問題で国中が大きく揺れています。丈夫、つまり「ますらお」による戦争に傾いていくことだけは絶対に許してはなりません。今が踏ん張りです。
 この場面は、マタイにもマルコにも出てくるのですが、ルカだけが「健康」という言葉を使っています。いかにも医者です。が、医者であるルカが、そこに兵隊のイメージを意識していたのかどうかは分かりません。
 ご承知のようにルカを頼りにしていたのは眼病を患っていたらしい使徒パウロです。ルカは使徒言行録の著者、すなわち原始キリスト教史を纏めた歴史家でもあります。現代の視点から言えば、自然科学者なのです。
 私が興味深く思ったのは、そのルカが、著者として、イエスさまに、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」 と言わしめていることです。「正しい人」とは誰でしょう。律法を実践して完全な人はどこにもいない。つまり義人は一人もいないというのがイエスさまの言いたいことであり、そのままパウロの主張なのです。
 医者のルカは肉体の病気を癒す専門家ですが、それだけでは人間の救いにはならないことをよく知っていたのです。だからイエスさまを主と告白している。だからルカ伝で、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」という複雑な意味をもった表現が出てくるのです。
 つまり人間が希う最高の幸福なイメージが「健康」ではない。なお不足しているというのです。
 熟年夫婦が日課のように実践している散歩は、健康を目指してはいるが、それが究極の目標ではないのと一緒です。いかに心を充実させて、健康体でいられるか。そして安らかに死を迎えられるのか、そこに最終目標があるのです。
 病気であるよりは健康でありたい。その通りです。しかし、その健康理解を越えた所に私どもキリスト者の信仰があるのです。
 本日のテキスト、ヨハネの手紙3の1〜4節(449頁上段)をご覧ください・ギリシヤ式の手紙では、相手の健康を祈るのが挨拶の常識です。ただしキリスト者の場合には、2節、「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。 
 信仰告白はこういう時にその本質が際立ってはっきりと見えてくる。健康を祈るその健康とは、主にある安らぎと充実の全体を指しているのです。ガイオはヨハネによる回心者なのです。そのガイオが病気なのかもしれません。ならばいっそう健康であるようにと祈っているのです。
 魂もギリシヤ語では、命という意味があります。単なる精神的な、とか、心の安らぎを越えている。命の安らぎと充実の全体のことです。こういう徹底した深い次元での結び付が、主にある兄弟姉妹の結び付きなのです。
 そのうえで、3節、「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。」 続いて4節、「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」 
 これが手紙の序文であり挨拶なのです。
 さあ、私どもキリスト者は、健康のほんとうの目的、魂(命)の安らぎと充実の全体を実現するために歩んでいきましょう。
 兄弟姉妹の結び付きは、こうして心を込めて祈り合う生活を通してさらに深められるのです。
 世俗的健康理解を、いかに越えて、たとえ病気中であっても真理に歩み続けること。
 これが主に喜ばれる健康であるようにと祈る日々の秘儀なのです。
 ハレルヤ、病んでいる者もさしあたって病んでいない者も、さあ、主を賛美しましょう。
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