思い悩むな
マタイによる福音書6章25〜34節
 先週は突然と言っても良い位、急速に高温日が続き、熱中症で運び込まれる人が多かったですね。圧倒的にお年寄りです。この教会も、お年寄りが多いのですが、あの大嫌いな、行政用語「後期高齢者」のお一人お一人が、土師教会でも、大切な重要な構成員です。
 「後期高齢者」という言い方よりも、「お年寄り」の方が、その年齢範囲が漠然としていて、おそらく六十歳以上の方だろうというくらいですが、じつは親しみが感じられる言葉です。そこには尊敬、敬意の気持ちが匂っているからです。一方、「前期、後期高齢者」というと、どことなく社会からのはみ出し者という雰囲気が臭いだしている感じがするのは、74歳の牧師の僻みでしょうか。
 週末からは、台風11号の北上コースが気きになったですね。が、「土師は大丈夫、陵があるから」という声を聞いたことがあります。ほんとうでしょうか。いまや異常気象が当たり前、ゲリラ豪雨、竜巻、地震、いつどうなるんか分からないありさまです。キュウリやナスまで、今年は順調にはできていないと近所では言っています。なんだか私どもの現代人の不安を煽るような人生と似ている気がします。
 さて、範囲が広い台風11号のおかげで、あちこちの知人たちに安否のメイルや電話を入れました。台風による死者一たちの二人は、お年寄りでした。お年寄りは家の中でじっとしている方が台風の時は、安全なようです。
 しかし、ふだんは、経験豊かなお年寄りの知恵や警告が役に立つ場合が多い。
 つまり老若男女みんなの力が暮らしの現場では必要なのです。
 一方、安保法案の国会での論議をめぐって、都市の若者たちが動き出したことは嬉しいニュースです。この国と世界の明日のために、みんなの力を寄せあって廃案まで行動したいと一昨日の夜も友人と電話で話し合ったばかりです。一昨日は東海道腺大山崎での四時間に及ぶ立ち往生、三宮駅で夜を過ごした人たちなど、11号の後遺症が大きいですね。
 この頃、「支援一」が認められたおかげで、リハビリ教室で楽しく訓練していただいています。内もも、外もも、肩甲骨、首筋、内臓などを意識化して考案された変化に富んだ体操やヨガ、あるいは太極拳など、快い疲労です。トレイナーの若者たちの自信に満ちた使命感に感心しています。二〇代の好日型の彼らの明るさとお年寄りへの訓練された奉仕の力量を頼もしく思っています。自治体の社会福祉への力の入れ所の一つですね。首都圏の案によれば、後期高齢者たちを経費の安い地方に移住させるという提案は、無慈悲で鈍感なお役所が考える愚民政策としか言いようがない。赦しがたい老人強制移住計画です。わ私どもお年寄りは黙っていてはいけない。
 さて、社会福祉の概念もなかった二千年前のイスラエルで、社会的弱者、つまりお年寄りや貧しい人々はいつどこで、慰めと安らぎを覚えたのでしょうか。
 今日のテキスト、ふた昔前まで言われていた、いわゆる山上の垂訓は、今は、「山上の説教」(マタイによる福音書)、 「平原の説教」(ルカによる福音書)と呼ばれています。その対象は、圧倒的な貧民階層の人々なのです。今日の日本で、今日の食事に事欠いている人を自分の廻りに知っている人はまずいないでしょう。しかし、当時のイスラエルでは一般民衆は絶対的貧困層だったのです。その人々に対するガリラヤ湖畔の大給食がどんなに大きな出来事であったことでしょう。食べること、パンを手にすることは痛切な決定的な今日の出来事だったのです。 
 週報の裏にある「主の祈り」4行目の「われらの日常の糧を今日も与えたまえ」は、ギリシア語の原文には、「今日も」の「も」はありません。貧しい人々にとっては、「パンを今日与えたまえ」という言い方しかなかった。これが生々しいパンを求める叫びだったのです。その貧しい人々に向かって主は説教をされたのです。
 今日のテキストすぐ前の10頁下段は、24節のみの段落があり、「神と富」という小見出しが目に飛び込んできます。24節、「だれも二人の主人に仕えることはできない」ときっぱり断言しています。神か世俗的価値か、一つしか選べない。この厳しい原則を前提にして、25節からの「思い悩むな」が始まっているのです。
 台風11号は、時速15`、 自転車並みのゆっくりした速度で各地に暴風雨をもたらし、あちこちで被害が続出しました。倉敷への再上陸という念入りのご愛嬌まであり、紀伊半島南部、熊野川の氾濫もありました。その度にこちらもはらはらしました。台風の進路変更一つをとっても、予想しがたく、まるで人生そのものではないかとまたしても思いました。洗濯物の始末、いざという時の非常食の準備、あのことこのことなど心配の種は尽きません。
 25節、「だから」は、24節が前提なのです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
 とあります。ていねいにゆっくりとイエスさまの言葉に耳を傾けていると、「命」という根源的な言葉と「何を食べ、何を飲もうか」という日常的な行動とは重さが釣り合わないなあと考えるのは私だけでしょうか。ここでなぜ「命」という重い言葉が出てくるのかなと疑問には思いませんでしたか。25節の続き、「また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」も、「体」と「何を着るのか」という日常的な悩みの重さが釣り合わないと私は思う。私どもは、時々しみじみと「命あってのものだからね」とか、「体だけは大切にしような」と言います。このことを十分に弁(わきま)えているイエスさまは、25節後半ですかさず、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」 と抑えこんでいらっしゃるのです。イエスさまの本意は、命と体そのものの意味と価値を前面に取り出して、そちらに注目させたいのです。
 そして、ここでもイエスさまの本領が発揮されます。それは比喩の力で説得することなのです。
 26節をご覧ください。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈入れもせず、蔵に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」鳥と対比させて人間に焦点を絞っていく。種を蒔いて、刈入れを行い、蔵に収めるのが人間です。ということは、家族の今日と明日を守ろうとするからであり、そのために労して暮らしているのです。ということは、鳥は労苦しない。明日のために思い悩まないということです。イエスさまはそんな人間のあれこれの悩みを全面的に否定しているのではないということです。そうではなくて、27節、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、ずばり箴言です。一番大切な命と体に焦点を絞るならば、つまりほんとうに大切な命と体のことを思うならば、天のお父さんに全面的に委ねればいい、と言うのです。
 日常的な悩みは悩みとして労苦すればよい。何を食べ飲み着るか、これだけでも一日をすり減らすだろう。必死で取り組めばいい。これが貧民階層の実体だったのです。
 26節の、「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。」 というイエスさまの声を聞いた時、人間を大切にして守ってくださっている神さまの存在にあらためて気が付いて、感動でいっぱいになった民衆の群れがある。
 これは二一世紀の今日の地球の問題でもあります。 一人一人の人間が大切にされているという実感を持てない、一人一人の苛立ちと孤立感の中に暮らしている場合が多いのです。
 イエスさまは優れた詩人です。私どもの心を動かす力をもっておられます。この場面の比喩の凄さを感じます。
 28節、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」 こんな具体的な分かりやすい美しい比喩に心動かない人はほとんどいないでしょう。
 生きていていいんだ。精一杯生きいるだけで祝福してくださるイエスさまは、なんという素晴らしい方なのだろう。
 そして、33節、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
34節、「その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 本当だろうかと、うろうろしてる間は、信仰ではない。神さまに全面降伏して、委ねること。これを「信頼」と言っていいでしょう。
 神さまに委ねて、信頼しきって歩み出すこと。ここからしかほんとうの人生の充実は始まらない。
 では、最後に週報の裏にある「主の祈り」を一緒に称えましょう。
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