主を畏れること
箴言2章1〜15節
 新幹線のぞみ号先頭車で起こったガソリンをかけての自殺事件は、とうとう起こってしまった事故でした。荷物やボデイチェックなしが誇りの日本の新幹線の利便性が、ついに悪用されてしまったかという悲しみが私どもを襲って来たのですが、今後どうするかは重い課題です。テロの対象とされる恐れが浮かび上がっています。
 さて、今日の説教題名は「主を畏れること」です。「畏れ」という漢字は、口語訳では、恐怖の「恐れ」です、文語訳は新共同訳と同じです。しかし、口語訳恐怖の「恐れ」だけでは足りません。畏むだけでも足りません。恐怖と畏敬の両面の意味を伴って、畏むの「畏れ」という漢字表現が適切だと思います。
 こういう漢字による表現で、箴言1章7節の「主を畏れることは知恵の初め」という有名な聖句が二千年間以上も受け入れられてきたのです。
 ところでここに出てくる「知恵」という言葉も長い歴史を保って来た言葉です。仏教用語の「知恵」は、般若心経の般若です。もっとも般若湯と言えば、お坊さんたちがそっと飲むお酒のことですね。本来の意味の悟りと酒を楽しむとは関係があるのかも知れません。ともあれ、一般的には「三人寄れば文殊の知恵」の知恵です。
 では箴言とはどこから来た言葉でしょうか。これは漢訳聖書からいただいた言葉です。
 箴言は、旧約のヨブ記、コヘレトの言葉と共に知恵文学に属します。箴言の「しん」は、「鍼」です、鍼灸のあの「はり」です。はりでツボを抑えれば効くのです。箴言とは、警告や戒めや教訓などの短い句であって、ことわざや格言、託宣などいろいろな意味がこめられていますが、これらは遠い遠い時代から伝えられて来た伝承の集成であって、生きていく上での知恵の書でもあるのです。伝承によればソロモン王の知恵が集められたことになっていますが、詩編がダビデ王の作品であると伝えられて来たのと同じです。
 テキストに戻ってみると、知恵は、ギリシア語でソフィアと言います。どこかで聞いたことがありませんか。ソフィア大学というと、カトリックの上智大学のことです。最高の知恵という上智です。知恵が悟りであり、キリスト教の上智だとすれば、一般的には、現実の問題に直面したときの適切かつ実践的な判断力という意味なのです。これを集めたものが箴言です。
 少年イエスさまについて新約では、「イエスは知恵が増し、背丈も伸びて、神と人とに愛された。」(「ルカ2章52節」)と書かれています。一般的な日本語の感覚では「知恵が増す」とは言わずに「知恵がつく」と言いますが、この言い方には、やや否定的なニュアンスがあります。聖書が言う「知恵が増す」には、神さまの祝福なのだというという意図がはっきり込められています。
 だいたい旧約では、知恵ある者としては、職人的な職業にある人について言われて来ました。すなわち大工、医者、農民などです。少年期以降の大工のイエスさまは、木片や壊れた家具の端っこなどをあれこれ眺め、両手で慈しみながら、構想力をフル回転させて、自分で描いたイメージを実現させるために目をキラキラ輝かせていたに違いありません。みな優れた専門技術と慈しみを持った人々なのです。今ならおそらく芸術家も知恵ある者の群れに加えていいでしょう。
 チグリス、ユーフラテス地方の古代文明やエジプト文明の中で育った膨大な箴言の影響を受けながらも、ユダヤ民族はそれらの中心に救い主「主」を見ていたのです。ですから箴言の1章の7節に「主を畏れることは知恵の初め」と宣言しているのです。最初の初めという「初」という漢字で言いたいニュアンスを適切に表現しています。いつも説教で取り上げてきた問題ですが、ユダヤ民族が優秀だったので神の民になったのではありません。絶えず大国の間に挟み撃ちにされてもみくちゃにされてきた弱小民族であったがゆえに神はこの民族を御目に留めて憐れみ慈しんで来てくださったのです。そして民族や国家が危機になると預言者たちを遣わして、猛烈な権力批判や未来の姿を語らしめて指導してくださったのです。その本筋にそっと沿いながら基本的な日常生活をきちんと生き抜いて行く知恵を教えるために、特にまだ知恵の成長途上にある青少年たちを対象にして編まれたのが箴言なのであります。
 箴言に限らず、ノアの洪水も原型は外にあったのですが、主による救いの物語として再創造したところがイスラエル民族の傑出した特性なのです。
 そしてキリスト教が生まれておよそ二千年後、私ども現代人は、「神は死んだ」と叫ぶ人も現れて、人間の能力を過大に評価し過ぎてきました。その結果が第一次、第二次世界大戦です。人類史上、もっとも悲惨な戦争が、知性とヒューマニズムを誇ったヨーロッパ文明を背後にしていたことを心から反省しないかぎり、人間以外の他の生物をも巻き込んで地球の全滅を招いてしまう可能性が大なのです。
 今や、さらに、原発という最悪なもの、人間が制御できないものにまで手を染めてしまったというこの事実を前にして、私ども人間の罪という事実を前にしてどうしたらいいのか。答えは明確です。
 神さまの支配、権威、存在そのものを忘れてきた人間として、「畏れる」ことをようやっと思い出そうとしていることが、なすべき義務の旅の始りなのです。
 箴言再読の必要性は言うまでもありません。
 預言者が消え去った現在、「主に立ち帰れ」と語り掛けてくださるものは、聖書の御言葉だけなのです。
 主という御言葉は、イエスは救い主「キリスト」であると告白している私どもにとっては、地球上にあるすべての生きものと物質の根源であり、あらゆる現場にご臨在されていて、私どもの内部には聖霊として内在されている実在者であり、根源でるという確信によって私どもは生きているのです。2章4節以下をご覧ください。

  銀を求めるようにそれを尋ね
  宝物を求めるようにそれを捜すなら
  あなたは主を畏れることを悟り
  神を知ることに到達するであろう。

 しかし、ここで間違ったら台無しです。「神を知る」とは、知的に神を捕らえて所有することとはまったく異なるのです。日本にも、キリスト教を解説し、論じる知識人はうんざりするほどいますが、信仰者はほとんどお目にかかりません。ほとんど信仰については答えようとはしません。たとえ信仰を抱いているとしても、信仰の匿名化に気品があるとも思えません。知識人が信仰者であることは気恥ずかしいこととお思いなのでしょうか。
 私どもは、預言者の言葉からも箴言からもたくさん学んで、世の終わりまで懸命に生きて行くつもりです。そして消防署が火事に備えていつでも発車できるように準備をしているように、いつイエスさまの再臨があってもいいように、静かに慎ましく己を律しながら待ちましょう。
 信仰とは火のように熱く燃え盛りながら、同時に静かに穏やかに充実した心を持ち続けることなのです。
 「主を畏れることは知恵の初め」なのです。
 祈ります。
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