立ち帰る
ゼカリヤ書1章3節
 近畿も6月3日(水曜)に梅雨入りしました。紫陽花の微妙な色合いや変化を見るのを楽しみにしている毎日です。枇杷の実や金柑の実が淡い香りを放っています。
 さて、この一週間、私の関心を牽きずり込んだニュースがあります。6月1日(月)の朝日新聞の一面のトップ記事です。
 「神社の油 50代に逮捕状 千葉県警 建造物損壊の疑い」です。
 本文「奈良や京都、千葉の寺社などに油のような液体がまかれた事件に絡み、米国在住で東京都内に拠点があるキリスト教系の宗教団体幹部(52)が各地で油をまいたことを認める発言をしていたことが関係者への取材でわかった」として、「『日本の寺社を油で清め、日本人の心を古い慣習から解放する』などと語ったという」のです。その後さらに具体的な報道があり、本人が医者であり、百名くらいの団体の創設者であり。油は聖書に出てくるヒソップであることも分かりました。旧新約聖書を通して、「清め」は大切な宗教行事でした。
 この団体の全貌が近々明らかにされると思いますが、こういう奇妙奇天烈なキリスト教系という組織が巻き起こす既成キリスト教への誤解が心配です。オウムの時もそうでした。一括されて、「宗教は、やばい」という風潮がふたたび噴火するのではないかと心配せずにはいられません。神道や仏教と私どもキリスト者との関係は、建造物の損壊という暴力で解決すべき問題では断じてない。神学的学問的な考察の下に、違いをはっきりさせて論争すべきであって、ましては清めの対象ではない。それが民主主義です。
 日本人一般の宗教的教育意識の無さは、いまさら論じるのも情けないのですが、私どもキリスト者は、こういう愚かしい事件で揺らぐことなく、復活の福音を軸にして、日常生活を穏やかに強く高く生き抜いていきましょう。
 そして、一人一人が周りの隣人たちに対して穏やかに明晰に私どもが理解している福音による救いを力強く弁明していきましょう。
 どこまで誤解を解けるか、今こそ私どもの復活信仰が試されているのです。立てよ、いざ立て、主の兵(つわもの)です。
 そんな揺らぎやすい私どもに、神さまは、「立ち帰れ」と何度も何度も呼び掛けてくださっているのです。旧新約を通して、繰り返されるこの呼び掛けは、どんな意味をもっているのでしょうか。
 あれ、変だなあ、今日の説教題目は、「立ち帰る」ではないのかなあ、と疑問を持った人もいるでしょう。そうなんです。私にも同じ疑問があったのです。そもそも救い主であり、絶対なる神さまが、何度も呼び掛けるとは、どういう行為なのでしょか。実は、ここに、人間に与えられた自由の問題があるのです。人間は、絶対服従を強いられる神の奴隷ではないという恵みがあるのです。にもかかわらず人間は自分でない他の人間を奴隷にして生殺与奪を思いのままに奮ってきた、今なお国家と民族の名の下に殺し合うおぞましい存在である私どもに対して、主は、「立ち帰れ」と呼び掛けて下さっているのです。
 ところで聖書の中には、「立ち帰れ」という呼び掛けが私が数えると十二か所あります。
が、人間が立ち帰る時、神さまも立ち帰るという表現が登場してくるのです。「立ち返る」とは、道を踏み外してしまった、あるいは神さまに背いてしまったことです。完全ではない欠点だらけの人間が陥る失敗ですが、全き愛を生きている絶対他者の神さまだけが「立ち帰れ」と呼び掛けることができる。その神さまが私ども人間の群れの中に「立ち帰る」と宣言している箇所があるのです。なんという神さまの自己卑下でしょうか。そこには人間と共にあることを喜ぶ神さまの熱情が洪水にように溢れているのです。
 その箇所が今日のテキストなのです。
 3節をご覧ください。
 「わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。」 
 エルサレムに帰還したユダヤ人たちが第二神殿を立てているとき、内部的政治的反目や、経済的不況も重なって思うように建設が進まない状況下で、主は熱情を込めて呼び掛けずにはいられなかったのです。「立ち帰れ」「そうすればわたしもあなたたちのもとに立ち帰る」と。ゼカリヤはハガイと重奏しながらもその後も活動し続けたのです。
 ゼカリヤが描き出した八つの幻は、牧歌的であったり、戦闘的であったり、動的であったりしますが、二千年余り後の今日、解釈が困難な部分もあります。が、幻という形でしか語れない映像的な想像力による展開がある。黙示文学的な映像が語るもの、それは新しいメシア(救世主)到来の希望が満潮状態となって生み出された動画なのです。
 このゼカリヤ書こそ旧約の最終部を代表する黙示文学の典型であり、旧約の神とイエスさまの到来を用意した劇場であると言えるでしょう。
 現在の世界の現実は極めて見通しの難しい様相を帯びていますが、こんな時だからこそ冷静に穏やかに強く高く生きなければならないのです。
 ゼカリヤもエルサレムの舞台から消えていきました。ゼカリヤが熱情を込めて描いてくれたようには現実の歴史は展開しませんでした。が、描き出された幻に軸を定めて、幻に支えられて神の民は、イエス・キリストの時代へと流れ込んで行ったのです。
 私どもキリスト者の道は、けして気楽な道ではありません。しかし、希望をいだいて前進する道です。この道はいつか来た道ではなく、初めての道なのです。にもかかわらず確かな道です。なぜなら永遠の命が咲いている復活の道だからです。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネによる福音書 14章6節)196頁。 と断言されたイエスさまご自身が道なのです。
 私どもの群れの中に立ち帰ってくださったイエスさまを思う時、土師の曲がりくねった旧道が時々光輝く主の道へと白く変貌するのが見えてきます。
 ヒソップの油をかけて清めるのだと主張する彼らにも、私どもは、主に「立ち帰れ」と伝えなければなりません。私どもの行動を期待して見守っていらっしゃるのが神さまなのです。
 ゼカリヤの幻に励まされて前進あるのみです。
 祈ります。

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