使徒言行録2章1〜13節
 みなさん、本日5月24日、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝、みんなで喜び、お祝いしましょう。おめでとうございます。
 とはいえ、日本人一般の方には聞きなれない片仮名で申し訳ありません。かと言って、五旬祭といっても50日祭りと言っても馴染みがありません。ましてや聖霊降臨日と言うと天孫降臨と間違えられてしまいそうです。
 天孫降臨とは、古事記や日本書紀に出てくる神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天照大神の命を受けて天上から日向国の高千穂に天下ったことです。
 ペンテコステなどの、キリスト教用語はまだまだ日本語として土着していません。なんとかせねばと焦りばかりが押し寄せて来ます。
 さて、ペンテコステに対してペンタゴンをご存知でしょう。あれは五角形という意味です。米国国防総省を指しています。その建物が五階建て五角形、廊下は総て円形でじつに機能的なので知られています。日本では日常語の中にヘブライ語やギリシア語が入り込んでいないのでなかなか馴染めない言葉が多い。もっとも有名なヘブライ語は、預言者を指している車のナビー、ギリシア語のアルファー、オメガです。
 さて50を意味するペンテコステは、旧約時代の大麦、小麦の刈入れを終えて鎌納めをした50日目の農業祭のことですが、新約時代に入って、キリストが復活して昇天後の50日目のお祝い、ペンテコステになったのです。
 さて、今日のテキストは、使徒言行録の2章1〜13節です。冒頭の1節は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」です。イエスさまが政治犯死刑囚として処刑されたゴルゴダの現場から弟子たちは、一人残らず逃げてしまった。やがて復活したイエスさまに出会っても疑う者もいたのです。そしてキリスト一派という過激派集団と見做されて、官憲から睨まれ、残党探しも始まっているというので恐怖とイエスさまを裏切ったという良心の呵責に苦悩する弟子の中には、酒に溺れてしまう者も現れたに違いありません。しかしお互いに同病相憐れみつつも励まし合って、常に一か所に集まっていた、と。
 この状況は、現代から見れば、教会の誕生なのであります。信徒たちが一緒に集まっているというだけで十分に意味があるのです。
 続いて2節、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」 とあります。
 旧約以来、「風」は神の息吹を意味していました。新約に入って魂という意味も重なってきます。「家中に響いた」というのです。「吹いて来るような音」という直喩という比喩が不思議な実感を伴って迫ってきます。3節、「炎のような舌」とはどんな意味でしょうか。熱い燃えるような舌が、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」 巨大な炎の舌が、弟子たち一人一人の頭上を包んだとでも言ったらいいでしょうか。異様な興奮状態です。
 ところで四年前の春、私どもは初めて堺市に来た時、御堂筋線の執着駅が「中百舌鳥」という駅名なので大いに興味を抱きました。そしてさらにJR阪和線にずばり「百舌鳥駅」を見付けて仁徳天皇陵の鬱蒼とした森には、きっと百舌鳥の声がいっぱい交響しているのだろうと無邪気な気持ちになったのですが、さて、あらためて考えてみるとどれが百舌鳥なのか、どんな声で鳴いているのか思い出せない。「百舌鳥が枯れ木で鳴いている/兄さは満州へ行っただよ」という切ない歌しか思い出せない。あれは、百舌鳥が枯れ木で長いを尾羽をゆっくり回しながら獲物を狙っている場面なのだとようやく分かった。
 みなさんは、百舌鳥の姿が分かりますか。雀とほぼ同じ大きさですが、いろいろな野鳥の声をまねするのが得意なので本来の百舌鳥の鳴き声がよく分からない。正体が見えない。そればかりか、鉤型の鋭い嘴は、真っ黒でよく見ると怖い。大体野鳥の目はみな鋭くて怖い。蝶々の目も厚ぼったくて怖い。じつは百舌鳥はどちらかというと、肉食です。獲物を見付けたら空中からまっすぐに襲いかかる。鷹や鷲、トンビと同じ猛禽(猛々しく獰猛)なのです。百舌鳥の生贄をご存知のことでしょう。昆虫、ハタネズミ、小さな野鳥オオマシコ、はては鮒までが、秋から冬にかけて犠牲になり、あちこちに串刺しされている。ローマ帝国に反逆したスパルタカスの奴隷反乱軍が十字架上に串刺しにされたローマへの街道風景にも似ています。百舌鳥は二枚舌どころではない百枚舌なのです。古墳時代の土師のあたりには、空中から瞬時襲って来る百舌鳥のような存在がいたのかもしれません。
 では、百舌鳥とペンテコステの関係はと言われれば、その鍵は舌。その意味が大切です。焼肉の牛や羊の舌をタンと言います。このタンは英語です。韓国語ではない。つまり舌は、美味い、だからこそ騙されやすい、という意味もあります。このタンを英語辞書で引いてみますと、肉のタンと同じ綴り。その意味の中に、その民族、国家の言語あるいは未知の言語を話す能力と言うのがあります。
 4節をご覧ください。「すると、一同は聖霊に満たされ、?霊?が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」 とあります。
つまり、聖霊降臨のイメージが舌で描き出されたということは、舌が言語能力の基本に関わっているからです。舌を抜く怖ろしいことをするのは、閻魔さんと舌切雀のおばあさんで十分です。
 5月20日、淡路島に銅鐸(銅製の風鈴を改良進化させた祭祀器具、あるいは結界の印か未決着)発見というビックニュースが列島を走りました。神々の性交によって淡路島が生まれたという二ホン神話の舞台です。私がもっとも興味を持ったのは、銅鐸の中の音楽を奏でる棒の発見、考古学では「舌」なのです。銅鐸の舌の発見は、極めて珍しい出来事です。
 6節をご覧ください。「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
 当時の地中海文明圏の東西南北からエルサレムに訪れたユダヤ人も外国人も圧倒されてしまったのです。
 12節、「人々は皆 驚き、とまどい、「いったいこれはどういうことなのか」と互いに言った。この中にはユダヤ教への改宗者もいたのです。
 使徒言行録は、ルカが書いたものですが、ルカは、この事件が聖霊降臨であったこと、やがてキリスト教が必ず全世界へ伝えられることを確信していたのです。イエスさまの弟子たちが、未知の言葉を獲得したという出来事は、福音の喜びを奏でる銅鐸の舌を獲得したという出来事です。丘の上に広がる韓国の修道院の牧場の牛たちの首には小さな風鈴(ベル、銅鐸の原型)がぶら下がっていて、ひねもす、福音が奏でられていたのを今さらながら懐かしく思い出されます。
 百舌鳥町の近くに土師教会があることはこのことと無関係ではないでしょう。失敗すれば二枚舌の持ち主、他者を生贄にして止まない猛禽のままでしょう。そうではなく、この教会が福音の喜びを奏でる舌を与えられたら、土師にとって誇るべき生きている財産になるでしょう。
 福音は、私どもが百舌鳥になって、その舌をどう使うのかという出発点に立つことです。そこから伝道が始まるのです。祈ります。

説教一覧へ