真理の霊
ヨハネによる福音書16章4〜15節
 先週13日の水曜日聖研祈祷会の時間が過ぎてから、生駒のアトリエに向かいました。
 東大阪市と奈良県の国境に横たわっている生駒連山の新緑が盛り上がっています。毎年五月は全身が緑に染まって空と一体化するような興奮を覚えます。
 一方、砂漠の国イスラエルの北方にあるフィリポ・カイザリア付近は、ヨルダン川の水源の一つです。緑と水が豊かなのでいつも人々が押し掛けて来ます。新約聖書の中では、水と血はイエスさまの受洗と十字架の象徴なのです。
 噺を戻しますと、生駒は、いわば関西のフィリポ・カイザリアなのです。水と諸宗教の聖地としても知られています。生駒は、土師よりも夜が深く、ひんやりします。まして必要最低限なものしか置いていないだだっぴろい旅篭のような二階建ての家は、テレビもありませんから、それぞれ絵筆を握るか、読書するしかありません。あとはオセローをして風呂に入るだけです。
 翌木曜日、朝まだき、鶯の声で目覚めます。
 早起きしましたが、朝食はゆっくり、野菜も果物もほとんどありませんから、簡単最小限のモーニングサービスです。
 午前中、再び直子さんは絵筆。私は伸び放題になって自然に戻ってしまいそうな荒れた庭を食い止めるために、一番目立つ麒麟草(セイタカアワダチソウ)を必死で引き抜いていました。が、その結果は腰痛です。寝込んだら大事になりそうなので慌て急いで堺まで帰り、そのまま本当に寝込んでしまいました。その間にジェネシスが教会の調査に来ていて磯野良嗣長老が応対して下さっていました。
 そして昨日の土曜日は岸和田病院の心臓講座というわけです。
 毎日、教会員のみなさんの病気などの回復のために祈り続けています。
 来週は、ペンテコステと教会総会が重なります。皆さんそれぞれ健康には十分気を付けて、神さまに委ねて祈りつつお過ごしください。
 さて今日のテキストは、ヨハネの、あの長い長い、別離の説教の有名な、しかもヨハネにしか出て来ない場面があります。
 16章4〜15節。小見出しは、「聖霊の働き」。 私どもキリスト者には、霊とか聖霊という言葉はあまり抵抗感がないのですが、普通の日本人にとっては、それこそあまり馴染みがない。せいぜい肉体と精神という二本立て思考のほうが一般化しているのです。そして精神を魂とか死後の霊魂とか漠然と考えています。幽霊とか霊感とか悪霊(あくりょう)とかいうちょっと暗い怖い世界を考えたりもします。「先祖代々の墓の夢を見た。『寒い寒い』と訴えるので墓石を開けて見たら水が出ていた」とか、寺の墓場で狐火がふわふわ浮いていた」とか、「幼い頃は、墓参の度に、ここで転んだら霊に取り付かれて死ぬ」と言われて、怯えながら必死で墓参した経験があるかもしれません。
 ところが、ヨハネによる福音書には、まったく異なる霊の世界が展開されている。父と子と聖霊の三位一体の世界です。エルサレムの最後の晩餐の現場でイエスさまは弟子たちの足を洗います。そんな話は他の宗教で聞いたことも読んだこともないでしょう。大の大人たちが先生に足を洗ってもらうなんてドタバタ喜劇ではあるまいし、まして真剣な顔をして、してもらうことではないでしょう。その後のユダの裏切りの予告、ペテロの離反の予告。ここからイエスさまの父に至る道が諄々と語られ、聖霊を与えるという約束がなされる。続いて「わたしはまことのぶどうの木、わたしにつながっていなさい」が語られます。そして迫害の予告がなされた後、今日の「聖霊の働き」が語られて、7節以下、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」と約束されるのです。いくらイエスさまと寝食を共にして宣教の道に励んで来たにせよ、というよりは。共にして来たからこそ、この別離の説教はますます弟子たちを狼狽させて、何をどうしたらよいのか分からなかったでしょう。ましてあからさまに父の元への帰還を語り、その代わりに弁護者を送ると言われてもピンとくるはずはない。呆気に取られ茫然とする弟子たちに、イエスさまは、さらにこう言ったのです。8節、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と。弟子たちが分かったようでいて分からない、曖昧模糊の問題を分かるようにして下さると言うのです。
 さて、ここに登場する 「弁護者」という表現は、文語体聖書および共同訳では、「助(け)主」でした。しかるに新共同訳の「弁護者」という語の登場は、意外な訳に思えましたが、より原語の意味に近いようです。専門家としての「弁護士」ではなく、弁護「者」と言われると、より人格性を感じます。英語訳では、「カウンセラー」(相談役、指導教員)です。なるほどと思う人もおられることでしょう。いかにもヨハネによる福音書らしい言い方ではないでしょうか。
 12節、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」 13節、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 14節、「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」 
 再び、ますます謎々です。真理の霊」という表現がまず一般日本人には躓きの基ですが、弟子たちも本当には分からないのです。
 大体「真理」と「真実」の区別も定かではありません。教育を受けた人ほど真理というと誰にでも当てはまる普遍的な事実であると理解しています。年齢、個性の違いを超えて客観的な事実、2×2は4というように。あるいはダーウインの進化論は事実であると受け入れています。けれどもこれは本当に本当でしょうか。類人猿が進化して人間になったのでしょうか。
 次に、「霊」とはそもそも何でしょうか。旧約では、息、新約では風、魂を意味しているようです。「真理の命、息、風」というのも案外難しいですね。
 先ほど引用したヨハネによる福音書の13節では、真理の霊が、「真理をことごとく悟らせる」というのです。真理はどうも客観的普遍的な事実とは違うようです。事実がそこにあるのではなく、霊に導かれて深く理解する「悟らせられる」ものなのです。となるときわめて主体的な真実に目覚めるという意味に近い。他の言い方で言えば、信仰の秘儀に近い。こういう世界の理解の仕方の訓練に慣れていないのがこの頃の若い世代ではないでしょうか。自分の全経験を通して、五感を通して対象と取り組む訓練ができていないのです。
 くどいくらいていねいなヨハネによる福音書ですが、その一部分でも丁寧につきあっていくと、いろいろ躓いて当然なのであり、それだからこそ聖書はおもしろく豊かなのでしょう。ここでは真理とは何かという問を突き付けられて、読者つまり私どもに答えを要求しているのです。
 弁護「者」という表現が大体おもしろ。法学が重んじられたローマ帝国らしく、義、罪、裁き、契約、弁償、交渉などは社会を支える中枢概念であったのです。ここまで言えば、キリストの生涯と復活がローマ法と深い関係があることがお分かりになることでしょう。キリスト教の救済概念の中枢軸にローマ法は深く関わっているのです。すなわち、ローマ法の中枢軸を換骨奪胎(焼直して)、 修正して、神さまによる圧倒的な、一方的な贖いによる愛の救済を広げていったのが原始キリスト教教会なのです。それは同時に、世俗と反世俗というきっぱりした分離に立っているキリスト教が迫害をされていく歴史も見えてくることでもあります。
 その際立った頂点が、十字架刑を前にしたイエスさまに向かって、総督ピラトが、「真理とは何か」と問うた時です。ピラトは結局イエスさまに何の罪も見いだせず、イエスさまを政治犯として死刑に処することに戦いたのです。その間のやりとりは皆さんがご存知の通りです。
 弟子たちは死刑の現場から逃亡してしまった。その良心の呵責とは、関係なく、一方的にイエスさまは復活されるのです。
 二千年後の私どももまた、一方的に救済された、もしくは救済されるのです。「イエスは主である」と告白するのは個人的決断に見えながらそうではない。真理の霊に支えられて信仰は成立するのです。私どもを支えていてくださる弁護者は、同時に助け主でありカウンセラーなのです。  
 もうドギマギしている場合ではありません。大胆に堂々とキリスト者であることを前面に押し出して、この異教の地で証ししていく人生を進みましょう。時間が今しかないのです。
 祈りましょう。

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