イエスは主である
コリントの信徒への手紙12章3〜11節
 新緑が瑞々しく柔らかくて食べてしまいたい、サラダがいいな、と思い。わくわくします。ところが困ったことに、心臓のバイパス手術の結果、食欲はいつもの通りなのに、味覚がついてこない、というより回復しないので、あまり食べられない。残念です。実を言うと、鰻とラーメンとアイスクリームが食べたい。京都の雲竜や虎屋の羊羹が食いたい。ところが病院の食事療法によれば、梅干し、青汁、納豆、魚の干物はご法度。苦労しています。
 まあ、最低三か月は、胸の痛みが続くそうです。再発防止のために病院の定期的検診とリハビリが待っています。懇切丁寧な病院の指導に感謝しながらも、もういいよと言いたくなる。人間ってわがままですね。自分を律することって案外難しいものです。
 幸い京都アート・イクスビジョンの開催中なので、裏方の仕事や雑用が重なって、健康に疲れ果てて、金曜日は牧師館で横になっていました。病気療養中、何度も人生を振り返り、改めて人間の生き死にについて考えさせられました。去年まで五〇年間、会いたいと強く願っていながらついに機会を逸してしまったG君のこと。今年の年賀状の返信が来ないので気がかりだったら、身内に連絡することもなく、たった一人救急車の中で絶命していたJ君のこと。そして改めて私の三人の兄たちの最後、七〇代まで一人だけ生き残ったのが弟の私です。姉の最後、そして昨年亡くなった妹の連れ合い、義弟の納骨式の式典を諦めた今月の私。
 今度の心臓バイパス手術は、神さまからのプレゼント、憐れみと警告のお知らせだったのかもしれない、と思い始めているのです。レント(受難節)の最終段階であったことも考えさせられました。生きよ、最後まで生きよ、伝道せよと立ち上がらせて下さった主イエス・キリストさまに感謝しています。
 さて、今日のコリントの信徒への手紙は、たびたび申し上げていますが、パウロが最初に立てた異邦人社会のただ中、国際都市コリントの教会からの訴えに接したパウロが、心血を注いで送った愛の手紙の一部なのです。かつてのギリシア文明の中心地の一つであり、当時はローマ帝国文明の拠点の一つであった。つまり宗教的には、キリスト教は新興宗教であって、キリスト教の福音を貫いて生き抜く好条件には恵まれてはいなかった。だからこそキリスト教は、ユダヤ人とかギリシア人とかローマ人という垣根を越えて、さらに市民と奴隷という垣根をも破って、神の前に神の民として一つという革命的な旗印の下に形成されつつあった共同体であった。ということは、異教的な種々の環境に包囲されて苦しみ続けいたのでもあります。パウロは、異邦人伝道の使徒である自分を自覚して命懸けで活動していたのです。とくに哲学に優れたギリシア的教養に包囲され、ギリシア的な自由奔放、性的放縦などの価値観に包囲されていた原始キリスト教は、苦難のどん底に在って、異教的世界観と戦っていたのです。その価値観の決定的な違いこそが、主イエス・キリストを告白するか否かに懸っていたのです。
 この時代、偽キリストがあちらこちらに出現しています。そもそもキリストとは何者であるかという点で多様な議論がなされ、「主とは何か」から始まって、「人として生まれたとはどういう意味か」、 「イエスには人間としての肉体的な痛みがあったのか」など、今日の私ども日本キリスト教団の信仰告白によって表現されている内実からは想像を絶したナンセンスな内実も深刻な問いとして提出されていたのです。今日の私どもなら自動的に暗唱できる使徒信条一つでも纏まるまでには多くの議論を費やして成立したのです。実際には四世紀末までかかったのです。「主イエス・キリスト」、 これは命懸けの信仰告白だったのです。これを掲げて生きることは、ユダヤ人のユダヤ教を拒否して盾突く者であり、さまざまな神々を生きるギリシア的、ローマ的宗教慣習に盾突く者でり、究極的にはローマ帝国の皇帝に盾突く者を意味していたのです。この最後の部分は、第二次大戦中の憲兵による「天皇陛下とキリストとどちらが偉いのか」という問いに歯向かって拷問を受け獄死して行った日本キリスト教団に属さなかった純福音のプロテスタントの牧師たちのことを想起すれば納得できるはずです。
 パウロが実際、今日のテキストでこう言っています。3節、「神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えなのです。
 私どもは、信仰告白は、自分の決断でするものだと思っています。それは表面的には事実です。しかし本当の事実は聖霊によって告白へと導かれて可能なのです。でなければ、「イエスは主である」という賛歌が口から迸ることはありえません。「主」と言いながら自分の所有物であるかのような錯覚に陥っているのです。信仰は、何度も繰り返しますが、私どもの知性の操作の結果獲得できるような次元の低い出来事ではないのです。知性の限りを尽くして追い求めて行った結果、その知性を放棄したところに訪れてくるものなのです。それを向こう側へのジャンプ(飛び込み)と言ってよいでしょう。
 この価値評価の基準こそ命懸けで原始キリスト教徒たちが勝ち取った賜物なのです。
 もう少し正確に言えば、パウロによって教えられた信仰の秘儀(ミステリー)なのです。ミステリー小説が好きな人は大勢いますが、このミステリーという単語がキリスト教用語{秘儀}のことだと知らない人が多いのではないでしょうか。秘儀もまた神さまの導きなくしては見えて来ない次元のものなのです。
 そんな事実を認めたくない、目障りどころか危険な新興宗教団体だ、どうにかしてキリスト教を撲滅しなければと躍起になった皇帝ネロ以下、ローマ帝国の支配者たちが、やがて300年後、キリスト教を国教として認定し歓迎するに至った大逆転の歴史を思えば、プロテスタント宣教150年余りにすぎない日本の現況を絶望ばかりしていてはいけない、否、主の御前に恥ずかしいことだと思うのです。世界の最後の伝道の地、日本がなかなか成果を上げられないのは当たり前です。それだけの文化的、宗教的、歴史的風土、つまりそれだけの対立価値観に立つ日本教という文化を持っているからなのです。私どもは、この日本のキリスト者として愛する祖国であるこの日本と真正面から立ち向かう宗教的な実力を身に着けてきたでしょうか。その実力が、今日の12章の主題なのです。12章の小見出しは、「霊的な賜物」です。その中心である「イエスは主である」という告白の主体は、聖霊なのだと今日学びました。この聖霊が私ども一人一人の内部に宿ってくださっているので、霊的な賜物が発揮されるのです。
 4節をご覧ください。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ神です。」 5節、「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ神です。」 6節、「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」 7節、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」 以下いろいろな賜物が列挙されています。土師教会は小さいですが、日本キリスト教団に属する列島全体の教会の中ではごく普通の規模なのです。教勢、財力共に普通なのです。元気を出しましょう。
 11節、「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
 ここを読めば、みなさんは三位一体を思い起こすことでしょう。父なる神、子なる神、そして聖霊が一体であるという神学的理解は、ここから始まっているのです。
唯一神教と言われるユダヤ教やイスラムと、キリスト教はここできっぱりと分離しているのです。いわば複数形をもった唯一神がキリスト教であり、またミステリーでもあるのです。
 この12章は、教会論でもあります。
私どもの土師教会は、地理的な地政学的な立地条件が明らかに不利です。土師町という交流の少ない開発に遅れた土地にある教会ですが、ここもまた神さまが選んでくださった土地です。ここに霊の賜物に溢れた教会を打ち立てることが私どもの責任ではないでしょうか。そのためにはそれぞれに与えられた賜物が何であるのかを見極め、その賜物を十分に生かしていかねばなりません。そうして初めて愛の共同体としての土師教会が成立するのです。
 第二次大戦が終わって70年、私の人生は、太平洋戦争の開始の六か月前から始まっていました。そして神さまが導いてくださった生涯を振り返り、休養もいただき、土師の空や鳥や花や野菜などをゆっくり見ながら、百の舌をもつという猛禽類の百舌鳥とはどんな野鳥なのかなどと考えることができてうれしく思っています。あと二週間でペンテコステ、教会とは何かをもう一度一緒に考える機会にしようと計画しています。
 祈ります。

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