引き下がれ
マタイによる福音書16章21〜28節
 去年11月29日に、東梅田教会で上演された文楽(人形浄瑠璃劇)の「ゴスペル・イン文楽ーイエス・キリストの生涯―」については、すでにご報告しました。大阪発祥の伝統芸能が挑んだキリストの生涯は、震えるような感動的な舞台でした。上演して下さった豊竹英太夫以下の皆さんが先日感謝献金を一万円、宣教委員会に下さいましたので、東日本被害者救援に送りました。
 さて、先日、二月二八日に天満教会で開催された信徒大会は、80名余りが集まり、共に笑い、食べ、話し、歌いました。メインは、露のききょうさんの福音落語と証しでした。大阪に来て露の五郎さんの名前を教えてくださったのは、河内吉明長老です。そのお嬢さんが露のききょうさんです。大阪に来て初めて福音落語という言葉を聞いて興味を持っていました。河内吉明長老から露の五郎の自伝をお借りして読ませていただきました。噺家の達人から見た日本のプロテスタントの教会はなんと情けない日本語を使っていることか、「天のお父様」だとか、「兄弟姉妹」だとか、歯が浮くようなセンチメンタルな言葉を使って話していると指摘しています。が、そんな教会とどんな巡り合いがあったのか、自分のお嬢さんを通して福音に招かれ、ついに福音落語を創設してしまったことをあの落語世界の噺言葉で書いてあるので大笑いしながら読んだのでした。そのお嬢さんのききょうさんです。
 ききょうは秋の七草です。可憐な奥ゆかしい花ということになっていますが、お嬢さんのききょうさんは、どう見ても声を聞いても秋の七草とは思えませんでしたが、楽しく、げらげら笑いながら福音を楽しませてもらいました。ただし、ちょっと物足りなかったのは証しでした、証しを落語で表現するのは至難の業です。芸人として、舞台に上がっているような、いないような複雑骨折しているような気持で懸命になって話しているのが手に取るように分かって少々辛くなりました。とはいえ、ききょうさんのひたむきな語りを通して福音系教会のもっている好日的な明るい積極的な雰囲気に触れて、日本キリスト教団の一員としては学ぶべきものが、たくさんありました。
 昼食のカレーライスは、御代わりもしました。台所の男性たちの包丁使いの不器用さと懸命ぶりがかわいいとちょっと笑い種になりました。
 あまりにも楽しかったので、天満宮まで足を伸ばしました。ちょうど紅梅と白梅が満開で、梅の花の香りがうっすらと境内を漂っていました。目の前をいずみ教会の被差別部落解放のために労を費やして下さっている東谷さんが歩いていました。こうして神社の梅の鑑賞にクリスチャンも来るんだなあと嬉しく思いました。ある露店では山草が並んでいました。春の光を一杯受けて白く光っている球根がありました。なんと大きく根を張ったききょうです。ききょうは、朝鮮、中国、日本、東シベリアに分布しています。天満宮のききょうさんです。すぐに買いました。万葉集に出てくるアサガオは、キキョウだと言われています。じつは野生のキキョウは絶滅危惧種なのです。
 今朝は、牧師館の窓の外の鉢の中で土を被っています。深植えしないようにと言われたのです。今日あたり春の雨に誘われて暗い地面の中から芽生えるかも知れません。芽生えれば、死からの甦りです。福音も暗い地面に蒔かれて芽生えるのです。福音の土着へと挑んでいる伝統芸能の方々に頭が下がります。
 ききょう、芽を出せ。 教会も成長しよう。
 さて、今日はマタイによる福音書の十六章ですが、その前に確認しておきたいことがあります。今日のテキストのすぐ前の場面、31頁の下段から。小見出しは、「ペテロ、信仰を言い表す」です。
 イエスさまのガリラヤでの公的な伝道活動が終わる頃、イエスさまと弟子たちの一行は、フィリポ・カイザリア地方を訪れました。そこで、15節、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と訊かれました。シモン・ペテロが、16節、「あなたはメシア、生ける神の子です」。 十七節、するとイエスさまは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
 20節、「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」 つまり口外しないようと戒められたのです。
 続く21節以下がさっき読んでいただいた場面です。
 21節、「このときから、」は、ペテロの信仰告白とイエスさまの戒めとを指しています。イエスさまは、御自分が殺害されること、そして復活することを「打ち明け始められた」のです。
 22節、「すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。
 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 さきほどと逆転して今度はペテロがイエスさまを諌めているのです。いかにも直情的なペテロです。
 イエスさまはどうされたか。23節、「イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。 あなたはわたしの邪魔をする者。」 
 この場合のサタンとは悪魔のことではなくて、サタン本来の対立者と言う意味です。
 では、「引き下がれ」とはどういう意味でしょうか。日本人的な感覚では、目の前から引き下がれ、つまり、「へええ」と言いながら後方へ下がれ、と取るのが普通でしょう、が、違うのです。ほんとうの意味は、私の背後にまわれ、と命じているのです。へえ、どうして、と言いたくなりますね。私の行く手を邪魔する対立者を真正面から叱り飛ばしているのですが、相手は弟子代表を自認しているペテロです。イエスさまは彼の率直さ、素直さ、まっすぐさを十分に知っているので、
叱責と同時に逃れる道を与えている、つまり弟子として従いなさい、とやさしく諭してもいるのです。この二重性がイエスさまの深いおもんばかりなのです。
 この後、裁判の途中、顔に唾を吐きかけられ、殴られるイエスさまを見ながら、「そんな人は知らない」と三度も叫んだ時、鶏が鳴いた。そんな取り返しの効かない裏切りをするペテロをイエスさまは見抜いていたはずです。にも拘わらず、私の背後にまわって従いて来なさいとやさしく語り掛けていてくださった。
 24節は、改めてペテロを含んで、「それから、弟子たちに言われた。」 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 この場面ではまだ十字架刑は始まっていない。十字架も現れていない。が、弟子たちには、死刑囚に対するもっとも残酷な、苦しみ抜かねばならない十字架刑のイメージが浮かび上がって来る。自分の十字架とは、死刑の覚悟のことだ。まさか、イエスさまが死刑なんて、ペテロならずとも弟子たちは、突然恐怖に襲われ、ぞっとした。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て」
 イエスさまの言葉がのしかかる。信仰とは命懸けなんだ。ここまで来てしまったのだ。これから始まる死刑囚のドラマを想像できなくて、頭が混乱してしまいそうになったはずです。
 25節、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 思えば高校時代、この箇所は私をうろたえさせた箇所です。迫害の心配はなく、ただただ受験ために励んでいれば良いという立身出世主義の学校体制に反発していたうぶでむきな高校生であった私は、一流大学を出て外交官になってほしいとしょっちゅう口に出していた父親にも反発して、秘かに通っていた福音自由教会で受洗して、「白鳥は悲しからずや 海の青 空の青にも染まず漂う」と口ずさんでいました。スカンジナビア系アメリカ人宣教師は、なんと献身して宣教師になれと勧めるのでした。当時は本気になって外交官にも宣教師にもなる気がしなかった私は、遠い遠い知らない町へ行きたかっただけだった。つまり、まだ知らないもう一人の私が見つからなくて猛烈に苦しんでいた。あるいは自分探しの真ただ中で救いを求めて足掻いていたのです。
 自分が何者かが分からなかった私、求道中の私にとって、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスさまの言葉は恐怖だった、と同時に、救いの可能性はここにしかないという実感を伴って迫って来たのです。
 その後、同志社、早稲田とさ迷い歩いて、45年もかかって、こうして牧師になったのです。
 「サタン、引き下がれ」というイエスさまの言葉を何度聞いたことでしょう。このイエスさまの叱責の背後にあるやさしい導きの愛に気が付くまでなんと遠くまで歩いて来たことでしょう。
 イエスさまに従う道は、きびしい道です。が、これは同時に伝道の道でもあります。
 「サタン、引き下がれ」と今後も叱責されるでしょう。が、この叱責を喜んで受け入れましょう。
 ききょうが芽を出すように、私どもも新たな芽を出して、もっと教会を強く逞しく、太らせて行きましょう。祈ります。
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