思い違い
マルコによる福音書 12章18〜27節
 レントです。今年は特にこの思いが深い。ISステート(イスラム国)やイスラム過激派のアフリカでの暴虐極まりのない連続テロ、ウクライナの危機、後藤健二兄弟の虐殺、日本川崎市での中一の少年に対する殺人事件など、希望を失ってしまいそうになります。
 が、この時にこそキリストの十字架の苦しみに全身全霊を集中したいと思います。
 一昨日6日、神戸市立博物館で開催されているスイスのチューリッヒ美術館展―印象派からシューリアリズムまでーを見に出掛けました。後援は、外務省、スイス大使館、Kiss FM KOBEです。五月十日まで。旧外国人居留地街に建てられています。
 近・現代美術の傑作を集めた滅多に見られない傑作の数々を一気に見られるまたとない機会でした。次に上げるあげる作家たちのうちの多くの人たちを皆さんもご存知でしょう。浮世絵から影響を受けた睡蓮を描いたモネー、彫刻のロダン、伝道師から転向したゴッホ、印象派のセザンヌ、北欧のムンク、色彩のマチス、幻想的なシャガール、細い針金の人間のジャコメッテイ、抽象画のクレーなど、洪水のように押し寄せる傑作群に打ちうちのめされてくたくたになってしまいました。
 皆さんは、とりわけやさしく楽しく幻想的なシャガール(1887〜1985年)の絵が好きだろうと思います。私もファンの一人です。彼はロシア生まれのユダヤ人です。旧約聖書を素材にした巨大な宗教画を何点も残したのもなるほどと単純に思っていたのです。
 が、これが私の決定的な思い違いでした。私どもは自分の価値観を中心に分かる、分からない、あるいは好き嫌いまで答えを出してしまいがちです。相手や対象から謙虚に学ぶ訓練が足りない場合が多い。
 シャガールは、ロシア革命の前と後にパリに出て、第二次世界大戦では、アメリカへ脱出、その後フランスに永住。生涯ロシアの故郷と旧約聖書に深くのめり込み、愛と聖とがくり広がる幻想世界を追求し続けたのです。
 シャガールもまたユダヤ人差別を肉体的に味わされてきたのであり、救いを求める生涯であったことを今回は、まじまじと作品の中に発見して、彼の描き出す世界の奥深さに目覚めさせられたのです。
 1963年の「パリの上で」という作品は、全裸の恋人二人が抱き合ってパリの空の絵に浮かんでいる構図です。が、左上空には大きな白い手が伸びていてその手の平には緑青の大きな顔が窪んだ大きな目で上空を見ている、さらにその上には兵士なのかキリストなのか定かならぬ人物の一部分が水平に横たわっている。幸せな恋人の周辺には、不気味なあるいは神秘で不安な影が漂っているのです。
 もっと前の1945年に描かれた「婚礼の光」は。かつてのロシアのようなアメリカのような場所も定かでない場所で、白衣装の花嫁が花束を下に向けたまま歩いて来る。その周辺の男たちは皆緑青で描かれ、誰が花婿なのかも分からない。ラッパを吹いている青い男が左上から飛んでいるのか墜落しているのか空を泳いでいるのか分からない。その下には天使の翼らしきものが青く突き出ている。赤い葡萄酒の入ったグラスを奉げる手が上に向かって伸びているところに白い羊が大きな目をして左下を見ている。空には八本の蝋燭が灯っているシャンデリア。
 なんとも言えない不安な婚礼であり、楽器はあるが音楽が聞こえて来ない沈黙の寂しさだけが深まって来る不思議な絵である。
 「戦争」という絵もありました。燃え上がる村。白い羊。牛車にびっしり乗り込んで大声あげて村を見詰めながら逃げていく人々。その光景を十字架から見ているキリスト。
 ユダヤ人、世界大戦、亡命、シャガールという人の人生が背負い込んだ悲しみと怒りと救いへの渇望が私の魂をゆさぶったのです。
 思い違いだった。感傷的な幻想とは全く無縁だった。シャガールの絵画は、叫びだった。50年以上シャガールのフアンだったことをこんなに恥ずかしく思ったことはありませんでした。金曜日の夜はぐったりして眠り込んでしまったのでした。
 さて、今日の題名も「思い違い」です。ご存知のように貴族階級であり、支配層でもあるサドカイ派は、復活を否定していたので、19節以下のような荒唐無稽の話をでっちあげて、イエスさまを困らせようと画策したのです。もしでっちあげでないとしたら、なおさら二四節のイエスさまの言葉はぐさりとサドカイ派の問いの浅はかさを突いているのです。
 では、なぜユダヤ教団の支配層であるサドカイ派は、復活を信じなかったのかと言えば、彼らはモーセ五書しか正当な経典として認めていなかったからです。
 実際、復活については、イザヤ書26章19節、ダニエル書12章2節に至るまで現れていなかったのです。
 一方のファリサイ派は、復活も天使をも認めていました。ユダヤ教団は事実は、二派に分かれて覇権を争っていたのです・
 24節、イエスさまの答えは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」 です。この場合の聖書は、旧約の一部を指しているのではなく、旧約聖書全体を指しているのです。当然ながら復活は、全能の神さまの力によって可能なのであり、普通の常識的な意味での自然現象ではないのです。
 続いて25節、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」 と答えています。サドカイ派は、天使をも認めていなかったのです。
使徒言行録の23章8節(260頁)によれば、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」 
 この「天使のようになるのだ」とは、地上的な秩序や価値観で判断できるのではない、という意味です。地上的論理で合理的に解釈説明できる復活なら、ふっかつとは到底いえません。まさに見えないものを信じる信仰によってのみ復活は実在するのです。このことがとくに現代の人間には分からないのは当然です。地上的常識で説明のつく復活なぞ何の魅力もない。
 26節、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という時。私ども現代のキリスト者は、ヤコブの神に続く者であると確信しているのであります。つまり逆に、「私どもキリスト者の神、ヤコブの神、イサクの神、あぶらハムの神は三位一体の一つの永遠の神である。だから私どもは復活を信じるのであると言いきるのです。
 私どもは、まことにキリストの花嫁なのです。
 27節、「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
 ここで私どもの脳裏にすぐに閃いてくる場面があります。ルカによる福音書23章です。三つの十字架。イエスさまの右と左に磔にされた二人の犯罪者です。その一人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と言ったのです。イエスさまは何と答えられたか。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。この囚人は、喜びのほほえみと共に御国に突入したことをわたしどもは確信します。これが信仰なのです。
 ちじょうのいわゆる合理的論理的に思える真理と言われているものを私どもは大切にしなければなりません。が、合理的論理的なものだけが人生の真理だとおもうことは。それこそ重大な思い違いなのです。これは人生経験上はっきりしています。私どもの魂を揺さぶって突入してくるものは、それは必ず宗教的なものなのです。シャガールの絵に満ちている愛と聖なる世界なのです。
 「今日あなたは私と一緒に楽園にいる」
 この世にあって死刑囚であっても、救ってくださる歓喜を知っている私どもは、この世に絶望してはいられない。
 安易な思い違いによってうろうろしていてはならない。愛と聖なる世界の住人に相応しく働き続けねばなりません。
 神さまのからだとして相応しい新たな一歩を、今日踏み出しましょう。
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