美しさを完成
エゼキエル書27章1〜11節
 皆さんは1903年に弱冠23歳で亡くなった作曲家の滝廉太郎を知っているだろうと思います。あの土井晩翠の詩「荒城の月」を作曲した青年です。誰でも一度は歌っています。その一番の歌詞は、

  春高楼の花の宴 めぐる盃影さして
  千代の松が枝 分けい出し 
  昔の光今いずこ

 です。ちなみに、「めぐる盃影さして」の「影」とは、月光、光のことです。
 滝廉太郎は東京芸大時代、学友の高木チカの導きで聖公会の博愛教会に通います。そこに津田塾を創った津田梅子も通っていたのでした。廉太郎は1900年21歳の時に受洗して、教会のオルガン奏者も務めています。
 この「荒城の月」は、廉太郎の死後83年後の1986年に、ベルギーのシュヴィトーニュー修道院の聖歌(讃美歌)としても用いられるようになったそうです。
 滝廉太郎がクリスチャンであったことは日本ではほとんど知られていません。慶応を創った福沢諭吉がプロテスタント系のユニテリアン協会の強力な支持者であった事実もほとんど知られていません。
 「目から鱗が落ちる」という言葉が聖句から来ていることもほとんど知られていません。
 「荒城の月」のあのメロデーが、なぜ讃美歌に選ばれたのだろうかという問いかけは、ほとんどの日本人の問題意識とは無縁であります。おそらく日本人にとっては、あの歌詞とメロデーは一体化していて、切り離して考えることができないのです。あえて言えば土井晩翠の詩の方が、ぴったり来るのだと思います。つまりかつての繁栄栄華を極めた時代を偲び、荒れ果てた現在の古城の姿に哀感を覚える主情的な感性の方が感慨深いと思う人が多いだろうと思います。
 が、ピアノでメロデーだけを引いて、幼い子供たちに聞かせて、その感想を絵に描いてもらうと、いろいろな反応が見られます。一度試してみてください。
 さて、日本の名城と言われるものは、当然ながらほとんどは復元されたものであり、創建当時のオリジナルのものはむしろ例外なのです。京都府の朝来市の天空の城、竹田城などは、建物が一つも残っていないところが人々の郷愁を焚き付けているのです。
 「荒城の月」の四番の冒頭部分を覚えていますか。
 天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿です。
 月光(月の光)は昔通り変わらないが、栄枯(栄える事、衰える事、は、移っていく)です。外観的な栄華と衰退、ここにも日本人に馴染みの無常観が溢れています。
 さて、今日のテキストは、エゼキエル書です。エゼキエル書は、皆さんがよくご存知のように旧約の「後の預言書」の3番目に位置していて、イザヤ書、エレミヤ書と共に、三大預言書の一つです。
 この預言書は三つの部分で構成されています、すなわち、第一部「ユダとイスラエルの罪と罰」。 第二部「諸国民に対する預言」。 第3部「イスラエルの回復」です。
 時代背景は、紀元前605年のカルケミシュの戦いでネブカドネツアルがエジプトのネコに勝った時から、ユダは新バビロニア帝国の支配下になった。ヨヤキン王が即位した後、エルサレムは侵入されて、前597年には、第一回バビロン捕囚で、王や上層階層は捕囚としてバビロンに連行された。このとき預言者エゼキエルも一緒に連行されています。最後の王ゼデキアは、バビロニアヘの朝貢(みつぎもの)を止めた結果、ネブカドネツアルの大軍によって兵糧攻めにされ、ついに落城壊滅。ゼデキアは捕らえられて、両眼を抉られ、鎖に?がれた。第2回捕囚です。
 捕囚の民は、ユーフラテスの河畔の地で共同生活をすることになるが、神殿祭儀は許可されず、安息日と割礼が神との契約のしるしとして、辛うじて伝統を守ったのであります。
 では、預言者エゼキエルはどんな人物であったのでしょうか。エゼキエルというこの名前は「神は強める」という意味です。祭司フジの子で、彼もエルサレム神殿の祭司でした。先に述べましたように、第一回捕囚で連行されて行きました。妻は捕囚の地で死にました。彼の個人的生活については、ほとんど分かりません。エゼキエル書を紐解いてはっきり分かることは、バビロニアの捕囚の地で、神の幻を見て、預言者としての召命を受けたことです。彼はもともとエルサレムの陥落を預言しています。捕囚の地では神の民の指導者的な地位にあったようです。そして、彼の家に弟子たちが集まり、神から与えられた言葉(託宣)を伝えたり、それらの託宣を編集したりしました。
 やがて主によって解放されることを確信して解放の預言をして、帰還後の神殿の再建図の設計もし、宗教共同体の再建の見通し図も作成したりしました。彼は22年間に亘る預言者としての任務に全身全霊を注ぎ込んで、そこからユダヤ教の再編成を試みた人物なのであります。その意味でエゼキエルは、「ユダヤ教の父」と呼ばれています。
 今日読んでいただいた27章の二節から始まる詩は、途中散文の説明が割り込んでいますが、もともとは25節へ、そして36節まで続いているのです。この詩全体が、ティルスに対する預言なのです。そしてティルスへの預言は、じつは26章から始まっているのです。26章の小見出しは、ずばり「ティルスへの預言」です。そして、27章の詩はティルスの自己陶酔の本質がどこにあったのかを神が指摘して弾劾しているもっとも重要な部分なのです。 
 ですから27章の2節で、「人の子よ、あなたはティルスのために、嘆きの歌をうたいなさい。」 3節、「海の出入り口を支配し、多くの島々を巡り、諸国の民と取引を行うティルスに向かって言いなさい。」 と命じるのです。
 ではティルスは、どこにあるのでしょう。聖書の後ろの地図の「4 統一王朝時代」をごらんください。その左の青い地中海と陸地を表す線の上の方、アシェルの北方にティルスがあります。現在のレバノンのあたりです。
 神は26章の冒頭ですでにはっきりとティルスの滅亡を予告しているのです。
 が、27章の詩を通して私どもはその繁栄と美の姿を見せつけられるのです。
 3節、「ティルスよ、お前は言う。/『わたしの姿は美しさの極み』と。/お前の国境は海の真ん中にある。/お前を築いた者は、お前の美しさを完全にした。」 ちょっと読むと、これはティルスを讃えているのかなと思えますが、実は、ティルスの自己陶酔を厳しく戒めている神の弾劾なのです。「お前の国境は海の真ん中にある」とは、国境が見えない、つまり地中海を自在に行き来し、交易(貿易)を通して富に富を重ねて膨大な利益を独占、我が世の春に酔っぱらっているティルスを非難しているのです。
 4節以下に登場する地名、国名を追っていくと東のユーフラテスから西の現スペインまで、南は北アフリカまで、当時の世界を自在に航海し続けて取引していた海に面した不滅の海洋世俗国家ティルスの富の集中と繁栄が見えて来るのです。11節では、ついに、「それはお前の美しさを完成した」とまで記されています。
 「国境は海の真ん中にある」ということは、実は国境がないと同じことです。そして預言通り地中海の東風というしょっちゅう遭難事故を呼び起こす神の懲罰によってティルスの商船も軍船もことごとく海底に呑み込まれてしまったのです。1338頁の26章の19節をご覧ください。「わたしは、お前を住む者のない町のように荒れ果てた町とし、渕から水を湧き上らせ、大水で覆う。」 20節、「こうしてわたしは、穴に下る者たちと共に、お前をいにしえの民の中に落とす。」 恐怖の中で震えているのはティルスだけではない。地中海沿岸の諸国はみな次々に滅亡していくのです。それらは贅を尽くして飾りたてた虚飾の国々であったのです。外観だけの虚飾の繁栄、自己陶酔の虚飾の富の山があっても、それは神を畏れて生きる人間本来の道ではないのです。戦争に明け暮れて、ひとたび敗北すれば、奴隷の道しか残されない。でなければ虚飾繁栄のただ中で神に背を向けた背信ゆえに東風の襲来と共に海の藻屑となって消えて行く。
 虚飾の美の中で酔っぱらってはいけない。自己陶酔の人間には、神の愛は見えないのです。エゼキエルは徹底的に神の声に従った人です。神中心にすべてを集中させて生き抜き、捕囚という苦難の人生を通して、逆にユダヤ教を確立しえた人物です。
 ひるがえって私どもは、本当に神に従って歩んでいるのでしょうか。体力を失っていく日本キリスト教団教の再生は、この苦難とどう立ち向かうかが課題なのです。
 さあ、元気を出して互いを支え合って前進して行きましょう。
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