仮り住まいの身
ペテロの手紙T 2章11〜12節
 これから朗読する古文は、有名な随筆の冒頭です。みなさんは、きっと、思い当たるでしょう。

 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。/略/知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来たりて。いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにかこころを悩まし、何によりてか、目を喜ばしむる。

 その通りです。鎌倉時代、仏門に入った鴨長明の随筆『方丈記』の冒頭です。方丈とは広さの単位で、一丈四方、ほぼ四畳半の広さの部屋のことです。
 下鴨神社の禰宜(神官の下で祭祀の奉仕をする人)の子に生まれた長命は、歌人として大成しましたが、仏門に入り、京都の東南に移動可能な方丈の小住宅を立てて、修行した人物です。
 さて、現代口語訳は、こうなります。
 行く川の流れは絶えることがなく、しかも元の水と同じではない。流れが滞っているあたりの水の泡は、消えたり、生じたりして、同じであり続けることはない。この世に存在している人間と家もまたこのようなものである。/略/この世に生まれて死んでいく人間が、どこから来て、どこへ去って行くのか、私には分からない。仮の住まいは、誰のために苦心して造られ、何によって目を喜ばすのだろうか。
 『方丈記』とは。住宅論なのです。持ち運び可能なマイホームは、つまり今日の説教題名の「仮りの住まいの身」の中世の日本人、鴨長明による仮り住まいマイホームお勧めのこの一冊なのです。
 聖書的世界に似通う部分が多々ありますが、世界の現実認識が根本的に異なっています。
 『方丈記』の根本にあるのは、世界の無常です。つまり変化し止まるものがないという、あの儚さであり、悲哀感覚なのです。
 が、同じ「仮りの住まいの身」でありながら、「ペテロの手紙1 二章」の世界認識はまったく違うのです。「仮りの住まいの身」は、フランシスコ会訳では、「旅人であり、寄留の身なのです」と言っています。みなさんは、どちらの表現がぴったりしますか。私は、新共同訳の「仮り住まいの身」の方が実感があります。牧師はだいたい牧師館という立派な名前を持った住宅に住んでいますが、実は召されて宣教に携わっている仮りの住まいに居住している旅人なのです。正しい住所は、神の国町一丁目一番地、国籍は天なのです。
 ならば分かる。私どもはみんな同じ、この世にある限り、旅人なのだ。仮り住まいの身なのだ、ということでしょう。
 鴨長命の、背景にあるいは根本にあるのは、都・京都を中心にした彼の実体験なのです。『方丈記』に出てくる都の描写は、大地震、火事、飢餓と疫病による夥しい放置された死体の群れです。この世の無常に疲れ果てた長命が、人間と住宅にほとんど存在価値が見付けられなくなり、移動小住宅を持ち運び、都から距離を置いたのです。その暮らしと仏教への発心(入信)がどのような関係にあるのかは、この随筆を紐解けば分かりますが、それは読んでのお楽しみ、おそらく当てがはずれるでしょう。
 では、二千年前の地中海地方の新興宗教キリスト教徒たちの現実はどうだったのでしょうか。「ペテロ手紙T・U」から見えてくるのは、ユダヤ教からは白眼視され、ローマ帝国からは迫害され始めた一世紀中期、イエスさまの再臨を待ちわびながら、どう暮らしていくのかというペテロのを指示であり警告です。11節の書き出しは、「愛する人たち」という呼び掛けの言葉で始まっています。その前の10節までとは内容を切り替えて、この厳しい状況の中で、キリスト者はどのように自分たちの信仰共同体、すなわち教会を固く守り抜いて行くべきなのかを説いているのです。そのために、主に愛されている仲間よ、とペテロが呼び掛けたのです。「いわば旅人であり、仮り住まいの身」という意味は、先に確認したように、神の国へと招かれている地上の旅人だというのです。『方丈記』がいう「仮の宿り」には、こういう反世俗、神の民としての自己認識は感じられません。あることはあるが消極的なのです。私どもキリスト者のいう「仮り住まいの身」は、もっと問い詰めた自己認識なのです。11節の後半をご覧ください。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」 とあります。「魂に戦いを挑む」という激しい表現はただごとではない。この場合の「魂」とは、旧約聖書的な意味では「命」のことです。新約的な、すなわち福音的な意味では、イエスさまに信従する姿勢という意味です。つまり地上の富や社会的な地位や名誉はかなぐり捨てる姿勢という意味です。それが仮りの住まいの身なのです。つまり世俗的価値観に原点を置かない天上的な価値観に挑んでくる者たちを「避けなさい」と言っているのです。
 この場合にも彼ら世俗的世界の人々から逃れて自分たちを守るという逃避的姿勢のことではありません。そこに価値を置かない。世俗的価値(りっぱな家、邸宅など)を否定して神に原点を置く生活を貫くということなのです。仮の住まいに住むということは、じつはそういう積極的な人生観なのです。
 12節、「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。」 とあります。現代の私ども日本のキリスト者には考えられないくらい迫害の中での生活だったのです。客観的にはキリスト者こそ異教徒として迫害されていたのに、ペテロは反対に彼らこそ異教徒だと言い切っています。復活の主であるイエスさまに救われたという確信に基づいて、反世俗を生き抜くキリスト者は、倫理的に突出して優れていなければ、異教徒を救えない、という高い倫理観に支えられていたのです。それは聖霊に導かれて初めて可能なのだという信仰告白なのです。
 そして、現代の日本の私どもキリスト者も、二千年前のキリスト者たちと同じく、イエスさまを主であると告白して信従を貫く喜びの少数派なのです。この世の人々とは生きる原点が全く異なっている。一切の根拠が天にある。
 すなわち私どものふるさとは天にあるのですから、私どもはみんな仮りの住まいの身なのです。だから反俗の聖なる人生を歩まなければならない。極限まで反俗を貫くということは、地上の定着民にはなれない、なってはいけないのです。明日はどこへ行くのやらという儚い流浪の旅人ではなくて、地上的価値観に真っ向から逆らう人生を貫く神の民であるという意味での地上の旅人であり寄留者なのです。信仰とはこんなに厳しい生き方を要求されていることなのです。先ほど述べたように聖霊が宿っている私どもは、いかなる欲望の誘惑にも打ち勝つことが期待されているのです。もちろん厳しい戦いの日々でありますが、その戦いを通して異教徒は目が開かれるだろうとペテロは言っています。伝道とは知的論理だけではあまり効果を発揮しません。日常の現場での具体的な行動を通して証しは成立し、異教徒への思い掛けない影響を及ぼしたりするのです。それは神さまがみ腕を伸ばして先頭を切って行動してくださることなのです。
 ずうっと昔、三〇代の私は、いつか瀬戸内海の過疎化していく島で無免許運転で伝道したいなあと漠然と気ままに考えていましたが、七〇代になって正式な牧師免許をもらって宣教するようになるとは驚木桃の木山椒の木です。人生の最終コース、いつゴールになるかは人間の側から決めることはできません。東京、埼玉、新潟にいる子どもや孫たちの顔が見たくてももう何年も会っていない孫もいます。爺じ、や、婆ばあ、の、顔も忘れてしまっていることでしょう。こちらも孫の名前と顔が一致しません。
 が、肉親のへの愛着を越えて、神の民の共同体がありありとした実感を持っていないとしたら、これは恐ろしいことです。教会が神さまのお体だと口先だけで言っているのだとしたら、キリスト者であることの実態はどうなっているのでしょうか。戦いは常につきまとっています。
 11節の「魂に戦いを挑む肉の欲」とは、こんなに激しいものなのです。私どもの信仰は、身分証明書や運転免許や健康保険証で証明できません。信仰は目に見えないものを信じる力です。イエスさまは見えません。父なる神さまも見えません。
 しかし、在って在る者、永遠の命を保証してくださっている真実なる存在なのです。
 今日の説教題は、「仮りの住まいの身」です。そしてテキストの小見出しは、「神の僕として生きよ」です。このふたつは信仰という楕円形のふたつの原点なのです。地上と天上を結んで生き抜くことがキリスト者の存在証明です。
 さあ、永遠を見詰める信仰者として、深く深く深呼吸をして、そして力強く、この魂に挑んでくる肉の欲に勝利するために、前進して行きましょう。
 祈ります。
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