『種を蒔く人』のたとえ
マルコによる福音書4章1〜9節
 皆さんはフランスのミレーという農民を描いた画家をご存知でしょう。十九世紀、パリの南方60`にあるバルビゾン村に移住した画家たちの中でも日本人に特に人気がある画家です。農業国であるせいです。ミレーの「落穂拾い」、「晩鐘」、「種まく人」は美術の教科書でもしばしばお目にかかります。
 「種まく人」を覚えていますか。岩波の書籍のシンボルマークとして馴染んでいる人も多いでしょう。実はこの作品は二点あって、ボストン美術館と山梨県立美術館に収納されています。
 さて、「種まく人」の構図を覚えていますか。バルビゾン村の晩夏、耕された広大な丘陵地を一人の農民の男が右の方に向かい、右手を大きく後方に向けて大股に歩いて行く。右手の掌は開かれていて、麦の種がいっぱい乗せられている。農民は黒い広い鍔のある帽子を被っている。左肩から手前の右の方に袈裟懸けのように白い大きな種袋が掛っている。左足は後だ。同じ農業国といっても種蒔きのスタイルが十九世紀の日本とはまったく異なる。同じ麦畑といっても日本の場合は畑の面積が限られている。しかも生産能力を上げねばならないから、種も無駄にはできない。種をばらまく経済的余裕がない。
 このミレーの「種蒔く人」の背景は、というより出典(出ところ)は、ヨハネによる福音書12章24、25節である。新約の192頁の下段です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 
 つまりこの絵は、キリストが御自分を種、神さまを信仰という種を蒔く人にたとえて表現されているのです。西洋のキリスト者ならすぐに思い浮かぶ聖書箇所ですが、日本人一般はほとんど思いつかない。この背景だけでも私どもには十字架上の死と復活が浮かび上がるのです。そういう優れた宗教画なのだとは認識せずに授業で何となく教えているのです。現在の日本は、そういう宗教性がほとんど失われてしまった。
 最近のもっとも衝撃的な事件は田園調布教会の会員である後藤健二兄弟のイスラム狂信集団による殺害事件です。この恐ろしい残虐な事件を悲しんで、いったいどこの教会が弔意(ともらい)の鐘を鳴らしたでしょうか。いったいどこの寺が弔意の鐘を突いたでしょうか。京都の寺町の鐘はもう十年余り聞こえて来ません。騒音公害で訴えられて中止したそうです。寺の鐘の音が日常の暮らしから消えてもう数十年以上たってしまいました。
 寺の鐘は、大晦日のテレビで見る紅白歌合戦が終わった後、列島各地の有名な寺の音をちらちら覗くだけなのです。祝福も弔意(ともらい)も消えてしまった日本の中で、辛うじて可能性があるのは教会の鐘ではないでしょうか。
 西洋、とくにフランスでは、何か事ある毎に教会の鐘が鳴り響きます。この間の風刺新聞社襲撃テロにたいしては、220万人のデモが繰り広げられ、世界の首脳たちも参加したのです。
 一方の日本では、

   夕焼け小焼けで日が暮れて
   山のお寺の鐘が鳴る
   お手々つないで皆帰ろ
   カラスと一緒に帰りましょう

 という暮らしの風景は、幻の絵になってしまった。
 さて、日本政府は、ジャーナリスト後藤健二兄をたたえる言葉を一言も残さなかった。これは掛け替えのない命に対する感受性の無さを語っていはしないでしょうか。
 ミレーの「晩鐘」の立ったまま祈っている農民夫婦の絵を今後は新たな思いでみつめようではありませんか。
 さて、テキストの「『種蒔く人』のたとえ」ですが、この「『種を蒔く人』のたとえ話は、共観福音書に皆登場しますが、なぜ「たとえ話」が多いのかを先に確認しましょう。イエスさまは、実は厳しいことを言っているのです。11節、「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」 12節、「「『聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」 と。えっと思う方がいらっしゃるかも知れません。
 「たとえ話」は、真理や真実を開き示す。示唆する、啓示する。すなわち指し示す。と同時に、閉ざすという正反対の二つの働きあるのです。分かる人にしか分からないということになります。
 さらに、他のところを読んでいますと、イエスさまは十字架で処刑されるまで、十二弟子たちをも信用してはいなかったというのです。
 復活して初めて弟子たちを赦し、世界への伝道へと派遣されたのであります。どういうことかと言いますと、イエスさまは、人間をその弱点や限界も十分に知っておられて、しかも愛しておられた。甦られた主イエスさまに出会い直すことによって、私どもは、初めて神の愛の証人として立ち上がることができたのです。
 そして、いつものイエスさまの問答のやりとりの方法は手が込んでいて、「種をまく人」とは誰かとは何も語ろうとはしない。その聖書的背景についてはつい先ほど学んだ通りです。そうではなくて。種を蒔かれた人たちついて語っているのです。
 そもそも限られた土地で集約的に生産性を高めなければならない伝統的な日本式農業であれば、ミレーが描き出す農夫のような大胆な、しかし大雑把な蒔き方はしません。畝を造って丁寧に種を蒔くのであって、よっぽどのことでない限り、「道端に種が落ちるはずがない。ましてや石地や茨が伸びてくる所にも蒔くはずがない。そんな農夫なら農夫失格です。種が芽生える確実な地に蒔くことが農夫のなすべき仕事であり、義務なのです。そのためには土地造りが第一歩です。
 となるとこのたとえ話は、どうやらありもしない農夫のイメージを探すことになります。ですから、そうではなくて、蒔かれた種をどういただくのかという蒔かれた側の人間と神さまとの関係の比喩だろうと推測できるのです。種は福音のことだな、信仰とは何か、そこが話の核心なのだとようやく辿り着いて、そこから私どもの信仰とは何かと問い詰める方に視点が移るのです。イエスさまの方法は、こうして思いがけない視点から私どもを突き刺してくる。
 18節の後半をご覧ください。「この人たちは御言葉を聞くが、19節、「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」 20節、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は。百倍の実を結ぶのである。」
 こういうイエスさまの解説を聞いて、ようやっと納得できるのだとしたら、信仰を手に入れることは、またなんという難しいことなのでしょう。まことに、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」(マタイによる福音書19章24節)のです。
 ならば、「御言葉を聞いて受け入れる」とは、どういうことでしょうか。まず、「聞いて」が大切です。「読んで」ではありません「調べて」でもありません。つまり牧師や長老、信徒から直接聞いたものが大切なのです。
 イエスさまの御からだである教会を通して、
そして聖書を読んで、受け入れたものが大きいのです。信徒のみなさんの証しからもたくさん受け入れるべきものが見い出せるでしょう。
 一粒の種が地に落ちて死ぬ、ということは、私どもの個人的な一方的な、思い込みや自慢を捨てることなのです。財産も学歴も世俗社会での履歴や身分や栄誉などは一切無関係なのです。そういうさっぱりした次元に置かれた時、人は初めてのびのびできる、解放さた自由な次元をゆっくりと歩んでいる自分に気が付くのです。ただし、福音の種が芽を伸ばして成長させていただいている姿が、すなわち自分であると気が付いたとき、私どもは新しく変革されているのです。福音の種は今日も蒔かれているのです。種がイエスさまなのです。種は発芽して、ぐんぐん成長していきます。驚くべきことにイエスさまが私どもの内部に蒔かれて宿られたのです。教会がイエスさまの体であるということの深い深い意味はこういう奇跡が出現している事実を指しているのです。
 「たとえ」は、分からない人には分からないのです。イエスさまの導きに素直に従って歩むとき、真理は開かれ指し示され、教会がイエスさまの体であるというとてつもない奇跡が見えてくるのです。この大いなる祝福と恵みの中で、私どもは、教会の鐘を打ち鳴らして、主の証しの道をぐんぐん進んで行こうではありませんか。
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