自分の歩む道
ハガイ書一章一〜十一節
 ハガイ書と本日の説教題名の「自分の歩む道」ってどんな関係があるのかなあと誰でも考えるに違いありません。
 私のような七〇代のお爺さんやお婆さんになると、自分たちの世代はこんな題名に近い人生論をよく読んだなあと思い出すのです。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』とか、トルストイの『人生論』などを貪るように読みました。戦後ようやっと十年を迎えるかどうかの頃、もう戦後ではないなどという経済的復興の勇ましい声が聞こえてきた時代です。学校の先生方は民主主義(デモクラシー)を運動目標に掲げて、生き生きと叫んでいました。
 「君たちはどう生きるべきか」と問われることは、当然、「自分たちはこう生きたい」と考えることになり、さらに「自分はどう生きるべきか」という問いになり、最後に「自分の歩む道」を組み立てることになった。
 そして「自分の歩む道」は、未来に向かって輝かしく広がっていたのです。中学、高校時代には、人生の夢の洪水の中にいました。皆さんもそうだったに違いありません。が、同時に、未来への不安も大きかった。いつか人生の終わりが来る。一度寝たら明日の朝が無くて、自分は永遠に目が覚めないかも知れないと思ったりもしたのです。そんな不安も抱え込みながら青春前期を夢を追って体力で走り抜けました。
 そこからいつ、どこで、宗教的な問いを抱え込むようになったかは、一人一人違う物語を歩んで来たはずです。
 そんなことを思い出す説教題名「自分の歩む道」なのです。
 しかし、どうもこの題名だけが一人歩きをしてしまってハガイ書テキストの中での文脈の中に正しく位置づけていない。新共同訳のこの部分は、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」が正しい。分かったようで分からないなあ。それとも、よく分かったでしょうか。
 参考までに、1950年訳の口語訳聖書を紐解いてみると、「あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」とあります。この方が少しましです。念のために文語訳聖書を紐解いてみると、「汝等おのれの行為(行い)を省察(かんがふ)べし」です。どの訳も奥歯に物が詰まってしまっているようで、もう一つ明確には伝わってきません。
 「自分の歩む道」という場合、どうもこれからの道ばかりが浮かんできてしまうのですが、これからを展望するためには、今までの過去をよく見つめ直すことが前提です。ということを考えると文語訳が一番原文のメッセージに近いようです。自分が歩んで来た道を見詰めて、つまり「省察」した上で、そこからじっくり今後を展望せよと主は仰っておられるのです。
 ここでようやっとハガイ書が描き出すバビロン捕囚から解放されて帰還したユダヤ民族が関わったユダヤ人の王国復興の歴史的様相(実態)が見えてくる。聖書によれば、まず第一に取り組むべき神殿の再建そのものが滞てしまうのです。ユダヤ民族にとって、王国にとって、復興(再建)とは、いったいどういうことなのか、そこが問題なのです。現在の日本にも言えることです。
 自分たちのエルサレムが陥落して、もう50年余りが過ぎた。新バビロニアに代わってペルシャ帝国時代が始まり、キュロス王によって捕囚時代が終わった。しかし、全ユダヤ人が帰還したのではなかった。残留して帝国のあちらこちらに散って行った同朋も多かったのである。いわゆるディアスポラ(離散)ユダヤ人の始まりです。一方、帰還ユダヤ人を待ち受けていたのは、周辺の以前からの敵対諸民族であり、同時に帰還ユダヤ人の内部矛盾も大きくなって内部争いが激化していく。いつの時代にも繰り返される歴史の実態であります。そして一旦は開始された神殿再建工事が中断されてしまう。
 この後、ダレイオス一世が帝国を統括して、ユダを「ユーフラテス西方州」としてフェニキアの管理の下に置いた。すでに時代はキュロスの時から遠退いた。第二イザヤの希望に満ちた意気軒昂の解放宣言も遠退いた。神殿再建も過去の思い出の中に閉じ込められてしまった。目の前にあるのは経済的逼迫と相変わらずの内部矛盾と内部争いである。
 この危機的状況の中で預言者ハガイが登場する。こういう時だからこそ神殿を再建すべきであると宣告するのである。が、工事の再開には至ったもののかつての栄光とは程遠い、みすぼらしいものであった。
 が、ハガイは、王国の栄光の未来を語る、そして語る、のである。
 このハガイがどういう人物であるのかは何も分かっていない。ハガイ書の記述によれば、ハガイの活動期間はわずか四か月である。紀元前520年のことであった。同時期に活動したゼカリアは、ハガイについて何も語っていない。著者も分からない。
 さて今日のテキスト1章1〜11節までは、神殿の再建をめぐる主とユダヤの民との論争と言ってもよい。
 4節、「お前たちは、この神殿を/廃墟のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。」 ここの主の言葉は砂漠地帯の家の暮らしを知らないと分からない。「板ではったということは贅沢品であった。良質なレバノン杉は、高価だったのである。この言葉をもって主は、国民を批判して言われたのであります。五節、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」は、まず「神殿を廃墟のままにして」自分たちの自宅建設に力を注いでいる。そして自分たちの利害中心主義をこのままにしておいていいのか、と、批判している。
 さらに6節では、その生活からは何らの利益も与えられないと断定していらっしゃるのです。生活再建が神中心に行われていないかぎり、未来への希望は見えて来ないのです。だから念を押すように、7節、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよと畳み込んで来ておられるのです。これがテキストの中での位置付けであり、文語訳がもっとも正確な訳だと思います。
 もう一度読んでみましょう。
 「汝等おのれの行為(おこなひ)を省察(かんがふ)べし。」 
 どうでしょう。昔の日本人の漢文聖書の読み取り、ヘブライ語の実力がどんなに凄かったかを知ることができるのです。
 くどいようですが、現代の日常語に移し替えれば、「新しく生きていく道へと方向転換する、決断する」ということです。
 そしてこう祈る言葉が自分の心の底の方から聞こえてくるはずです。
 「私どもは、神さまを原点にして生活を整えてきませんでした。お許しください。今日までやって来たことを見詰め直して、主の御前に懺悔しています。どうか、あなたを中心にして、新しく生きていけるように、お導きき下さい。アーメン。」
 ハガイ書は、たった2章の短い預言書です。しかも歴史の事実は、ハガイの預言通りにはすぐには実現しなかった。
 が、私どもは知っています。500年後、イエスさまが歴史のただなかにやって来て下さって、特定の国家や特定の民族のためにではなく、全人類の救いのために十字架を背負い、その十字架に掛けられ、死んでくださった。私ども一人一人の罪のために死んで甦られたイエスさまによって、私どもの自分の道は、希望という名前の道になったのです。
 ハガイ書一章から見えくるのは、国家ナショナリズムの肯定ではなく、ましてや民族優越主義の肯定でもありません。
 今、世界は新たな地球全体を巻き込む恐怖の中に投げ込まれています。狂信的なイスラム国の残酷で非情な暴力が、世界を脅かしています。あそこは日本から遠く離れていると言って安心できる状況ではありません。これは全力投球で考えねばならない問題なのです。日本人の後藤健二兄弟が囚われの身になっていて死の恐怖のどん底に突き落とされています。後藤健二兄弟の救出のために、世界の平和構築のために、希望を失ってはなりません。なぜなら私どもの歩む道は主が与えてくださった希望の道だからです。平和な地球を創り出すために、主と共に、歩み出しましょう。

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